絵で見る日本船史

235日祐丸(にちゆうまる)
日産汽船の嚆矢は昭和九年二月馬來半島ズングンの鉄鉱石輸送の専業会社として、日本産業汽船が設立され、三年後の同十二年には権太汽船を合併し社名を日産汽船と改め、続く十三年に共和汽船を更に十五年五月には荻布海商を、又十月には松田汽船を吸収合併し同年十二月末の所有船は、移籍船、新造船とも二三隻、一二万八一五八総屯に及び、戦前日本の産業界グループに於ける日産陣営の海運部門としてその名を内外に知られていた。

 

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元来日産汽船の母体は大正元年五月設立された日本汽船の業績を継承して創設されたもので、その日本汽船は第一次世界大戦中仕入船を保有、転売する目的の会社で一時は年商一億円の利益を計上したが戦後の反動で業績が悪化した。
大正十一年に経営陣の大刷新が行われ、不況の中にも低船費の極く切詰めた不定期船運航を実施し再建を図り徐々に成果を上げた。
昭和五年に同系列会社日本鉱業の馬來半島ズングン鉱山の開発を機に不定期船運航を止め、日本向ズングン鉱石の輸送を開始した。
鉱石積地は開放錨地で十月から翌年三月までの季節風時期には、殆んど積荷不能となり、その間船は他航路へ転用したが、八年二月遂に扱船全部を国際汽船に譲渡して営業を停止、休眠会社とした。
その後ズングン鉱山開発は順調に伸展、同八年末には年間産出量七〇万屯に達し日本鉱業では、その輸送手段に苦慮したのである。
翌九年二月一日休眠会社・日本汽船を起用し、新社名・日本産業汽船を創立し諸威の鉱石船五隻を傭船してその輸送を開始した。
同十二年十一月社名を日産汽船と改称し、日本鉱業の意向を受け一万屯級鉱石船五隻と四千屯級万隻、計十隻の新造計画を発表した。
大型一隻は成宮汽船が川南工業で起工の船を購入、中型は木原商船が浦賀で建造中を買船、残る八隻は一括大阪鉄工所に発注した。
翌十三年十二月二八日川南工業で完成の日祐丸は、六八一七総屯の鋼製貨物船で主機は三連成汽機四五三七馬力一基で、速力一五・五節、全長一三六米、幅一七・七、深一〇の鉱石船で船体構造は頑強な六艙の三島型船で、船首は傾斜型、船尾は巡洋艦型、細長い前後マストのほか、船橋楼前後に夫々一組の揚貨柱を備え、蒸気動力の揚貨装置は合計六組設備されていた。
昭和十三年末竣工後直ちに長崎から処女航海に就航、西貢・日本のメイズや米の輸送に従事し、翌十四年三月末ズングンに初入港、以来半年の間は休みなく日本向け鉄鉱石輸送に専念し、冬季の約六か月間は大連・欧州の大豆や瓜哇・欧州の砂糖輸送に活躍した。
昭和十六年春、海軍に徴傭され呉鎮守府所属の特設砲艦として、南遣艦隊に加入され仏印進駐に参加、太平洋戦争緒戦時の南方各地の進攻作戦にも出撃した。
同十七年八月特設輸送船に改装の上北洋に転出、九月にはキスカ島で米軍空爆の合間をぬい、食料弾薬などの強行輸送を敢行した。
翌十八年二月下旬には畿内丸と二隻で呉港からラバウル行の海軍工作隊と資材を満載し、駆逐艦三隻の護衛で南下中、三月三日夜半グアム島西方二五浬の洋上で、米潜の魚雷を受けて浸水、乗組員の必死の排水と防水作業で沈没は免れたが機関は使用不能で、畿内丸に曳航されグアムに入港着床した。
工作隊員の揚陸と資材の揚荷を終り、三か月後の六月に海軍の命により船長以下九名が保安要員として本船に残り、他の乗組員全員は内地帰還の上他船に配乗された。
翌十九年七月十三日、米軍機動部隊の熾烈なグアム島空襲に遭遇し、好目標の日祐丸は徹底的な反復爆撃と機銃掃射で、爆破炎上となり、残留の九名は全員戦死、船齢僅か六歳の本船と運命を共にし南浸に散華したのである。
松井邦夫(関東マリンサービス(株)相談役)

 

 

 

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