絵で見る日本船史

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和浦九(かずうらまる)
昭和四〇年十月、日本郵船では
太平洋戦争中に適業した数多くの社船と、乗組員の苦難の記録を末永く後世に伝えるため、日本郵船戦時船史の編纂委員会を発足した。
その前年末日本郵船に合併された三菱海運所属船も含め、二八五隻の行動と四七一七名に及ぶ戦没者の遭難状況を、生存者の報告や各種公文書を基に六年の歳月を賞し、上下二巻に分けて編纂された貴重な船史が刊行され、文献資料として高い評価を受けている。
戦後残存の在来船の中には氷川、高砂、橘丸など戦時中の病院船のほか、終戦の年特設病院船となり厳しい業火の下を辛うじて生き残った和浦、有馬山丸の二隻もある。
この和浦丸は三菱商事船舶部が北米材輸送の為、三菱長崎造船で昭浦丸の姉妹船として建造され、船型は当時業界で好評の長椅木材船同型十二隻中の最終船である。
昭和十三年十二月二十日完成の和浦丸は総屯数六八〇四、主機は三菱MBディーゼル四〇〇〇馬力一基、速力一六・五節、全長一三九・三米、幅一七・へ深さ一〇、船客定員六名設備の船である。
船体要目や荷役設備等は他社の同型船と大同小異であるが、乗組部員の居住区は通常船首楼にある他社船と異なり、三菱の所有船は船橋楼に設備し大好評であった。
竣工後直ちに紐育航路に就航したが、約二年半後に日米外交悪化で中止され樺太炭輸送に従事した。
昭和十六年九月二四日陸軍徴傭船となり、大連から陸軍部隊を乗せて仏印進駐に参加、焼いて宇品から部隊及び武器車痛を満載し、高雄経由で周公に終結、輸送船六隻護衛整十六隻の船団で、太平洋戦争緒戦の十二月十日早暁、比島北端アパリに敵前上陸を敢行した。
翌十七年三月末蘭貢作戦に参加のあと、五月からパラオやラバウルに出撃し、八月半はニューギニアのブナとバサブアヘ、南海支隊主力部隊の強行輸送を数回敢行して、殊勲に輝いた船である。
その後約一年半に渡り南方占領地域のマニラ、セブ、トラック、パラオ、ラバウルヘの補給に当り十九年四月、釜山からハルマヘラヘ九隻の行船団を編成、陸軍部隊と軍用品を満載輸送したが、途中四隻の僚船が米潜の犠牲となった。
その後対馬、暁空丸と三隻で、那覇・長崎間の沖縄学童疎開輸送で北上中、八月二二日夜半対馬丸が悪石島の西方で被雷沈没、七百名近い学童が悲しい儀牲となった。
次に十一月末上海から比島向け増援部隊を輸送、無事マニラに到着後、折り返し高雄・サンフェルナンドの部隊輸送を強行、完了後四隻で北上中米軍機動部隊の爆撃で二隻が沈没、和浦と日昌丸は共に被弾したが無事高雄に帰港した。
仮修理のあと高雄から遭難船員や軍属等約三百余名を乗せ門司に輸送、三菱神戸造船所で修理工事中、突然特設病院船に改装の命を受け、船体、構、煙突等総て外観は白色塗装、船側の緑帯と赤十字を表示、三月八日工事を完了した。
門司で医療品や衛生材料を積み基隆経由で星港着、復航は西貢、香港経由で各地から傷病兵を搭載し、四月二五日門司に帰港した。
病院船活動は一航海だけで、翌五月末三菱下関造船所で輸送船に復旧され、直ちに南鮮・内地間の大豆、高梁輸送に就航、後舞鶴に回航し海軍航空部隊神雷特攻隊を南蝉浦項に輸送し無事完了した。
七月二〇日釜山入港寸前の防波堤入口で米軍の磁気後雷に触れ、機関室に浸水、乗組員の必死の防水、排水作業を続け乍ら、国鉄の強力曳船鉄労丸等三隻で港内に引き込み、釜山鎮に座洲固定させた。
終戦後韓国に接収され極東海運所属のコリア号となり紐育定期船として活躍、八年後には不定期船となり約十六年間就航した後、同五一年八月船齢三八歳の時、浮体されて数奇な生涯を閉じた。
松井邦夫(関東マリンサービス(株)相談役)

 

 

 

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