絵で見る日本船史

日章丸(にっしようまる)

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日本政府逓信省では、昭和七年+月一日付で解撤・建造方式と呼ばれる船舶改善助成施設法を制定し、その第一次実施で船会社十二社、三一隻一九万九千三一九総屯の優秀船の建造が実現、続く第二次の同十年四月一日実施では八社八隻五万一千九五五総屯、更に翌十一年六月一日の第三次では九社九隻五万四〇一総屯、合計四八隻三〇万一千六六六総屯の優秀新造船が誕生し、その解撤見合として計一一八隻四九万九千二五〇総屯の老朽船が解体された。
その第一次助成法の適用を受け飯野商事の油槽船、東亜丸と極東丸の二隻が恩恵に浴し建造され、第二次では三井物産の御室山丸が適用を受け、合計三隻の油槽船が助成建造され、第三次では油槽船は採用されなかった。
その後翌昭和十二年に、政府の海運、造船政策が変更となり、新たに同年四月一日、優秀船舶建造助成施設及び遠洋航路助成施設法が実施され、従来の一対二の老巧船解体を条件とせず、優秀新造船の建造助成と遠洋航路の補助を目的としたものとなったのである。
この助成法により大手船会社と特定造船所の特別優遇措置と共に海運界の急速な近代化を推進する事となったが、反面船会社や造船所は共に、有事に際し軍事協力の義務が課せられる結果となった。
この助成法により日本の一万屯級高速油槽船が十隻建造され、その内神戸川崎造船所で厳島、玄洋、日栄、東栄、健洋及び神国丸の六隻、播磨造船所であかつき、黒潮、あけぼの丸の三隻、三菱横浜造船で一隻・日章丸が建造された。
この日章丸は昭和十一年十二月二一日出光商会(後の出光興産)と大同海運、大洋海運の三社が、共同出資して設立した油槽船会社昭和タンカーが発注した船で、同十二年八月十日起工し、翌十三年六月十三日に進水、十一月二九日に完成の鋼製油槽船で、船橋前面と船尾楼、煙突等に斬新な流線型を採用した日本油槽船史上に残る名船であったと記録されている。
当時大型客船と捕鯨母船を除いては日本最大の総毛数を誇る一〇五二六屯で、重量屯は一三八五五、主役は三菱マン型ディーゼル一基一〇六一七馬力、速力一九・六節、全長一六九米、幅二〇、深一二、当時最大級の寸法の船で、かつて横浜船渠時代の大正十年に海軍給油艦佐多を建造以来、合計八隻の大型油槽船を完成した実績の集大成とも言える船で、美しい流線型化による抵抗減少は主儀数百馬力に匹敵すると公表されている。
竣工後は大洋海運が運航し、主として北米から内地向けの、海軍用重油輸送に従事し、昭和十六年の後半には内地・大連間など近海区域の油輸送に就航していたが、太平洋戦争開戦翌年の十七年二月二三日海軍徴傭船となり、横須賀鎮守府所属特設給油船として連合艦隊への給油任務に活躍した。
翌十八年七月十九日機動部隊に編入されトラック基地に進出し、各前線への補給作戦に当っていたが、十一月三日ニュー・アイルランド島北部カビエング北方約一八○浬の地点で、米軍哨戒機の爆撃を受け航行不能となったが、幸い沈没を免れ、巡洋艦鳥海と駆逐艦涼波の救難援助のもと、曳航され五日未明ラバウルに到達した。
応急修理の後白力でトラックに回航し本格的修理工事に着手、翌十九年一月九日ひと先ず修理工事は終ったが、残る入渠工事のためジャワ島のスラバヤ船渠に向い、一月二二日から二月十五日迄入渠修理工事を施工したのである。
修理完了後バリクパパンに回航して燃料油を満載し、比島ダバオ向け二月二〇日に出港、同二五日未明ミンダナオ島の南南西二〇浬の地点で、米潜ホー号の集中雷撃を受け沈没、乗組犠牲者三八名と共に五年三か月の生命を終った。
松井邦夫(関東マリンサービス(株) 相談役)

 

 

 

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