絵で見る日本船史

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極洋丸(きょくようまる)
昭和十一年度の南氷洋捕鯨には世界各国から三〇船団が参加して覇を競い、国籍別では諾威が最高の十四船団で、次の英国が一〇、パナマと日本が各二、独逸と丁抹が各一船団を送り込んでいた。
当時の日本船団は日本捕鯨(後の日本水産)の図南丸と大洋捕鯨(後の大洋漁業)の日新丸の僅か二船団編成の南氷洋出漁であった。
かねて南氷洋捕鯨に着目し情熱を燃やしていた、スマトラ拓殖会社社長山地土佐太郎は、出身地・高知県室戸の土佐捕鯨から重役として林田惣太郎船長を迎え、スマトラ拓殖の捕鯨部を開設、昭和十一年十月二五日所管の農林大臣へ、遠洋捕鯨事業の認可を申請した。
満州事変、上海事変と当時緊迫した国際情勢の下で軍部では海軍燃料油輸送用の油槽船舶腹を補なうため、漁閑期の捕鯨母船の利用に着目、更に又戦時には収容能力の大きな軍用輸送船として活用出来る事から、当時の海軍首脳部の積極的な支援を得て、翌十二年二月六日「近い将来別途に捕鯨会社を設立して、それに許可を移譲する事」を条件として遠洋捕鯨事業の許可が取得出来たのである。
政府の許可を得たスマトラ拓殖では同年九月九日早速同社捕鯨部を継承の別会社・極洋捕鯨を設立し、川崎造船所に日新丸型の捕鯨母船を発注、翌十三年一月七日に起工し六月二八日進水、極洋丸と命名の上、十月五日に竣工した。
この極洋丸は神戸川崎造船所が三隻建造した、日新丸型捕鯨母船三姉妹の最後の船で、総屯数一七五四八の鋼製捕鯨母船、主後関は川崎マン型ディーゼル一基で出力七六二四馬力、速力一五節、全長一六三・三米、幅二二・六、深さ一四・九、鯨油処理能力やその他の要目は、姉妹船日新丸と殆んど同様の設備を持っていた。
一方、母船の建造と並行して捕鯨船九隻が発注され、高見造船所(後の日本鋼管)に五隻、播磨造船(後の石川島播磨造船所)で四隻が建造され、船名は京丸と名付けられ第一から第十一まであり四(死)と九(苦)は塚越を担いで、欠番となっていたのである。
この捕鯨船京丸の命名に関し同社三〇年史に依れば、山地社長と同郷の漢詩人、宮崎晴瀾氏の案により「鯨という字は魚をとれば京にかえる」と侵起を祝って名づけられたと、記述されている。
昭和十三年十月五日竣工後、同月十一日新造捕鯨船九隻を従えて神戸港を出帆し、南氷洋への処女航海の壮途に就いたのである。
その後昭和十四年度、十五年度と、都合三回に渡り南氷洋に出漁、漁閑期の四月から九月迄の半年間は、日新丸、図南丸と同様に北米加州から内地向けの、海軍用燃料重油の輸送に従事した。
太平洋戦争開戦直前の昭和十六年十一月十七日海軍に徴傭され、南洋群島パラオやトラック基地への軍用物資の輸送に当り、翌十七年一月末ラバウル占領後は、内地からラバウル向けの飛行場建設用資材や設営部隊輸送に活躍した。
その後同十七年半ば過ぎに任務変更となり、内地・星港間の特定輪送船に指定され、往航南下の時には航空後や機材、軍需品、海軍部隊や便乗者を乗せ、復航北上時には星港から徳山向け海軍重油の満載輸送に従事したのである。
翌十八年九月十四日早朝佐世保から星港向けの航空後十四機及び機材部品等軍需品を積載、兵員、便乗者三三九名を乗せて出港し、五島沖で門司発基隆行の第一九七船団の八隻編成に合流して南下の途中、昭和九年の室戸台風に匹敵する超大型台風に遭遇した。
船団は奄美大島名瀬港に避難したが、十九日夜半極洋丸は不幸にも未曾有の突風に見舞われ、船団僚船の丹後丸、江蘇丸と共に浅瀬に吹きつけられ、座礁沈没し僅か五歳の幼い生命を終わった。
松井邦夫 (関東マリンサービス(株) 相談役)

 

 

 

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