絵で見る日本船史

231西安丸(せいあんまる)
太平洋戦争開戦と同時に日本の陸海軍は、ボルネオ、スマトラ等南方石油産出地域を占領、各地の石油生産は予想以上順調に運んだが、原油輸送の油槽船船腹が不足のため、政府では法令を制定し、建造中の戦標K型鉱石船、BCD型貨物船など十九隻を応急油槽船に変更し昭和十七年末から五か月間で油槽船十九隻を完成させた。
更にこれと併行して現役就航中の既成貨物船を改造し、油槽船に転用する案が出され、比較的状態の良い陸軍A船三隻、海軍B船八隻、民間C船九隻、合計二〇隻を指名して改造期間二〇日間を目標に、全国の主要造船所や海軍工廠を動員し、緊急工事を指令した。

 

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この既成貨物船の改造は、日本郵船の六隻を筆頭に大連汽船四、三井船舶、大同海運、五洋商船が夫々二、他に国際汽船、東洋海運、廣海商事、巴組汽船が各一、合計二〇隻が油糟船に生まれ変わった。
改造工事着手第一船、第二船は大連汽船の崑山丸、崙山丸の姉妹船で夫々舞鶴海軍工廠と、三井玉造船所で着工、続いて同社の西安丸、北安丸が揃って三菱下関造船所に於て油槽船に改造された。
大連汽船は、当時満鉄と呼ばれた南満州鉄道の別動隊として海運部門を担当し、大正四年二月一日資本金五〇万円で創立された。
その後昭和時代となり首脳部の積極的な経営方針が効を奏し、自社船隊は急速に充実され、昭和四年創業十五年の時新造船七隻、買船六隻、計十三隻を一気に船列に加えて所有船四〇隻、傭船十四隻、合計五四隻、十六万五千総屯余の船隊を擁する大勢力となり、定期航路など九線その他に配船した。
大連汽船の大宗貨物は主として撫順炭など満州産出の石炭輸送でその他馬來半島ズングン礦石や、ボルネオ木材の輸送も手がけて好成績をあげていた。
丁度昭和六年九月の満州事変を境に、大連港を中心として内地のみならず中国沿岸にも幾多の航路を拡張して所有船を整備、満鉄の発展と共に大躍進を遂げた。
昭和四年五月三井物産玉造船所で完成の天山丸に続いて四か月間で、千山丸、崑山丸、崙山丸の四隻が竣工、営口から底荷に石炭、大連から上積み雑貨を阪神向けに積んで定期船として就航、四隻で月三航海を実施し成果をあげた。
その後昭和十一、十二年に浜江丸、興安丸等七隻の新造船が建造され、十二年七月の庫溝橋事件を契機として、海運界は大きく変貌し、翌十三年に至り二隻の貨物船追加建造が決定、昨十二年七月に三井物産から分離独立し設立された、三井玉造船所に発注された。
この二隻・西安丸と北安丸は九年前に建造された天山丸型の拡大改良型で、外観は良く似た四艙の三島型、前後部の門型揚貨柱は同じでも、船体寸法や屯数、主後の出力等は一廻り大きく、西安丸は総屯数三七一四、主機は三井B&Wディーゼル一機で二二〇〇馬力速力一五・八節、全長一〇六米、幅一五・三、深七・三、船客定員九名の設備を持ち、同十三年六月二日竣工と同時に大連・阪神間の定期航路に就航した。
昭和十六年十月開戦前に姉妹船同時に海軍徴傭船となり、緒戦時の南方攻略作戦に参加し各地で活躍したが、翌十七年十二月二隻同時に応急油槽船に改造の指名を受け、共に三菱下関で改造に着手し翌十八年一月十四日、同時に完成の上門司から南下船団に加入し、ボルネオ東岸バリクパパンに至り各地への燃料曲輪送に従事した。
西安丸は同十九年十一月十九日ルソン島西岸スビック湾外で米軍後動部隊の空襲に遭い、悪戦苦闘のすえ沈没、北安丸は九か月前の二月十四日ミンドロ島で米潜フレッシャー号の雷撃で沈没、両船井相前後して僅か九歳の若い生命を南溟深く沈め去ったのである。
松井邦夫(関東マリンサービス(株)相談役)

 

 

 

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