絵で見る日本船史

月山丸(ぐわっさんまる)

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大正三年三月一日政府樺太庁の肝入りで創設された北日本汽船は、当時政府の樺太命令航路を拝命し定期船を運航していた大阪商船、山本久右衛門及び本間合名会社の三船主が、夫々の航権と就航中の所有船全部合計六隻を現物出資船として提供し開業したのである。
丁度十周年を迎えた大正十三年には杜船十四、傭船五、計十九隻を運航し、樺太開拓の時流に乗り昭和初期の経済不況期にも何とか切りぬける事が出来たのである。
昭和六年九月満洲事変の勃発に伴い、政府の方針も国民大衆の目も満洲に向けられ、日満連絡最短の日本海航路が注目の的となり、丁度その頃大阪毎日と東京日日新聞に掲載された松岡正男氏の論説「日本海湖水化提唱」が話題となり、北口本汽船でも「日本海中心時代来る」との標語を掲げ、裏日本と北鮮間の新航路を開設、社運をかけて満洲行最短経路を拓いた。
創立二十周年を迎えた昭和九年には社船二五隻を擁する迄に船隊が充実され、航路の運航も樺太と北海道、京浜、阪神、裏日本各港等、更に敦賀・浦塩間、北鮮航路等十六線に及ぶ定期航路を運航するまでに至ったのである。
その後昭和十二年七月の蘆溝橋事変勃発を境にして、北日本汽船では更に船腹拡充方針が樹てられ、第五期購入船八隻、新造船五隻を船列に加え、新規に伏木・北鮮、新潟・北鮮の両航路が開設となり、同十四年三月の同社創立二五周年の時には、所有船三八隻、八七七九六総屯を保有し、当時本邦十大船主の一に列したのである。
その頃最新鋭砕氷型貨客船月山丸と気化丸の姉妹船が浦賀船渠で相次いで建造され、その後十六年八月同型第三船白山丸が完成した。
昭和十三年五月十三日に進水の第一船月山丸は、総屯数四五一五、主機は排気タービン付複二連成汽機一基で二九五〇馬力、速力最高一六・一節、全長一〇八米、幅一五、深八・八、船客定員一等二〇、二等五八、三等六八○名で、八月三一日竣工と同時に新潟に回航され、北鮮向け処女航海に就航、曾てのさいべりあ丸、はるびん丸に代る日本海の女王として君臨した。
昭和十五年一月、政府の指導により日本海航路を主体にした国策会社、日本海汽船が創設される事となり、出資会社は北日本汽船、大連汽船及び朝鮮郵船の三社で、提供船は全部で十一隻、新潟、伏木、敦賀港を夫々起点として北鮮の清津、羅津航路を継承し、更に浦塩航路、上海航路も開始され、従来の北日本汽船所属船員が船と共に移籍して新会社で活躍した。
月山丸竣工の翌十四年四月気化丸が完成、翌十五年日本海汽船が発足後は、稍小型の白海丸と射水丸が一月と四月に夫々竣工、翌十六年八月に月山丸型の新鋭白山丸が就航して船列に加わり、日本海汽船の保有船は計十三隻四六一五九総屯となり、着々と日本海航路の全盛時代を築いたのである。
太平洋戦争開戦となり杜船が次次に陸海軍の徴傭船となったが、月山丸だけは引続き新潟・清津、羅津航路の専従船として走り続けていた。敗戦色の濃くなった十九年七月戦況は満洲よりも南方方面に重点が移った頃、急遽陸軍に徴傭され宇品で軍隊輸送船に改装の上軍装備を施し、内地とマニラ間の軍事輸送に従事したのである。
同年十月二四日門司発マニラ行モマ〇六船団で南下の途中、南鮮済州島の南西三八浬で米潜の雷撃を船尾に受け大破、浸水となったが船長以下乗組員の沈着果敢な対応で沈没を免れ釜山に曳航、牧ノ島の釜山造船所で入渠修理工事中に翌二〇年八月の終戦を迎えた。
その後月山丸は連合軍に接収され釜山港内に係留されていたが、翌二一年十一月原因不明の火災が発生して喪失したと伝えられ、その後の足かな記録は見当らない。
松井邦夫(関東マリンサービス(株)相談役)

 

 

 

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