絵で見る日本船史

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富士川丸(ふじかわまる)
昭和十一年十二月三日設立された東洋海運は、三井物産と旧東洋汽船の分身である大洋興業の共同出資により設立され、当初旧東洋汽船所有の日洋、月洋、宇洋丸の三隻、二一七八七総屯を購入して三井物産船舶部へ傭船に出し、更に北米定期航路用として三菱重工に、高速貨物船五隻を発注、業界進出の第一歩を踏み出した。
三菱長崎造船所で、富士川丸と鬼怒川丸の二隻が、又横浜造船所で加茂川、多摩川、淀川丸の三隻が次々と約一年間で建造された。
丁度その頃の日本では北支事変の勃発をきっかけに国力増強、軍備拡張、軍事産業の振興等が推進され、日本海運界にとっても極めて恵まれた好機の到来となった。
三菱長崎で建造の第一船富士川丸は、六九三八総屯の鋼製貨物船で主機は三菱MBディーゼル一基で四二二三馬力、速力最高一六・四節、全長一三九・三米、幅一七・八、深一〇、船客設備は一等一、二等二名計三名となっている。
この船は三菱長崎が北米の木材積載兼用に特に設計した大船艙の三島型で、二番艙前部には二〇屯吊重量物用デリックが一本あり、強力な揚貨機全部が台上に設置され、木材甲板積装置も完備し各艙口は大きく頑丈な構造であった。
昭和十三年七月一日完成と同時に三井物産船舶部の傭船となり、印度や南米航路の不定期船として就航したが、同十五年十二月九日海軍に徴傭され、舞鶴鎮守府所属第十一航空戦隊付航空機輸送船として、南洋基地トラックやポナペなどへの軍用機輸送に従事した。
昭和十六年七月一日第十二航空戦隊付の水上母機艦に改造され、海南島三亜から仏印進駐に参加しカムラン湾に出動、其後特設運送船に改造され太平洋戦争を迎えた。
開戦時には馬来半島上陸作戦に参加し、コタバル基地設営資材の輸送に従事、翌十七年二月は占領直後のボルネオ、クチン航空基地建設資材輸送を開始し、完了後の五月トラックからラバウルヘ航空基地設営資材の輸送に活躍した。
翌十八年はトラック基地を中心にクエゼリン、ヤルート、ルオット、タラワ、ナウル島などの前進墓地へ物資補給と部隊輸送に当っていたが、九月十二日クエゼリン西方一五〇浬で、米潜の雷撃を受け、又十二月五日にはルオット附近で米軍の空襲により損傷を受けたが何れも大事に至らずトラック基地に於て修理工事を行なった。
丁度その頃米軍の反攻が激烈となり、戦局は一転して日本側の防戦態勢となり、同十九年二月米軍は次々とマーシャル群島基地を奪回し、次の目標をトラック島に定め連日偵察機を飛来させていた。
当時戦艦武蔵以下艦隊の主力がトラック在泊中で、米軍は真珠湾の仇討攻撃を悲願としてニミッツ元帥麾下の米海軍航空機動部隊により二月十七日と十八日の二日間に亘り、徹底的なトラック島猛爆攻撃を敢行したのである。
艦載機合計五六八機を搭載する九隻の航空母艦、戦艦六隻、巡洋艦など計三八隻、更に九隻の潜水艦を加えた大部隊で、一気に日本艦隊主力との大決戦を期したが、その時既に日本艦隊主力はパラオ、横須賀、比島へ移動の後であった。
取り残された軽巡三、駆逐艦四など海軍艦艇十隻と徴傭輸送商船三二隻が二日間に亘る銃爆撃波状カンプ攻撃で完膚なきまでに叩かれ壊滅したが、艦隊主力移動後に置き去りにされた商船隊三二隻は総屯数合計二〇万屯で、今次太平洋戦争中に一か所の戦闘で受けた被害の最大なものと記録されている。
商船隊の尊い犠牲の中には、第三圖南、りおで志やねろ、宝洋、厳島、神国丸など当時の最優秀船が多数含まれており、富士川丸もその中の一隻としてトラック基地環礁内で沈没し、僅か五歳半の短い生涯を終わったのである。松井邦夫((関東マリンサービス(株)相談役)

 

 

 

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