私と船

憧れの欧州航路

大須賀祥浩
安岡孝男画
スエズ運河を通過した我が“とらんすわーるどぶりっじ”は、地中海を横切り、ジブラルタル海峡を抜け、目指すルアーブル港(フランス)へ到着した。
これから約一週間かけてハンブルク、ブレーメルハーフェン(ドイツ)、ロッテルダム(オランダ)、アントワープ(ベルギー)、フェリックストウ(イギリス)といった港を回るのである。初めての欧州航路……、少なからず憧れを抱いていただけに、私の心は弾んでいた。
しかし“憧れの欧州航路”は、そんなに甘いものではなかった。
「欧州の海は狭いし、視界が悪いことが多い。おまけに河上りが続くから、出入港のスタンバイには時間がかかるんだ。結構大変だぞ」
一等航海士の話とおり、欧州サイドの一週間は、まさに緊張の連続だった。
ノースシーパイロットと呼ばれる水先案内人がこの間ずっと乗船しているのだが、慣れた彼らでも、視界の悪い欧州海域はまさに“魔の海”である。通航船が多く潮の流れも速いだけに、彼らの豊富な知識と経験は安全な航海には不可欠なものだった。

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さて、ルアーブルを皮切りに、本船の欧州巡りが始まった。狭いドーバー海峡を抜けると、そこは北海である。欧州では、河の奥にある港が多いため、どうしても出入港のスタンバイ時間が長くなる。おまけに随所でパイロットが交替するので、そのタイミングをしっかり頭に叩き込んでおく必要があった。
とりわけハンブルクからブレーメルハーフェンヘ向かう間が、最もややこしい。
「いいか、ハンブルクを出るときには、六人のパイロットが乗っているから、間違えるんじゃないぞ。ハンブルクのハーバーパイロットが二人、エルベ河のリバーパイロットとバーパイロット、ウエザー河のリバーパイロット、そしてノースシーパイロットだ」
長い河上り、パイロットの頻繁な交替、着岸作業、短い停泊、荷役当直……。それを繰り返すうちに、一週間の欧州巡りは、あっという間に終わった。最後の港を出るころの私は、もうヘトヘトで、寝ることだけが楽しみ、という情けない有様だった。「今度はヨーロッパヘ行かれるんですか?外国航路の船乗りさんは、うらやましい限りですなあ」
などとよく言われるが、実態はこんなものである。上陸する暇などあろうはずもなく“憧れの欧州航路”などという言葉は、一航海できれいに吹っ飛んでしまった。
それでも三航海目になると、精神的にも余裕がでてきた。“せっかく欧州まで来たんだ。上陸せずになるものか”……。そんな思いがむらむらと私の胸に渦巻いた。
「上陸したかったら、二等航海士と荷役当直を替わってもいいぞ」
私の思いを察したのか、一等航海士がそう言ってくれた。渡りに船、とばかりに私はこの話に飛びついた。

 

 

 

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