絵で見る日本船史

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気比丸(けひまる)
太平洋戦争開戦の約一か月前、昭和十六年十一月五日、北鮮航路に就航中の日本海汽船花形貨客船気化丸が、同日午後二時二十分に北鮮東岸清津港を出港し、裏日本の敦賀港向け航海の途中穏やかな海面を照らす満月を仰ぎながら、出港八時問後の午後十時十四分、突如として左舷船首に浮遊機雷が接触し爆発、一番船艙内に浸水して同胞内中甲板左舷側の三等客室が爆発により壊滅状態となった。
船橋前面の窓硝子は全部爆風で破れ、船橋内は衝撃で羅針儀と操舵機が倒れ、周壁に装備の計器類の殆んどが飛び散って足の踏み場もない有様で、触雷六分後に船長から退船命令が出され、訓練された乗組員の機敵な行動で、十隻の救命艇全部と多数の救命筏が順調に海上に降ろされ、乗客三五七名中二二一名が無事に救助された。
触雷一時間後の十一時二十分、本船は船尾を上に直立状態で満月の冴え渡った海面から静かに消え去り、乗組船員の犠牲者は、船長以下八九名中二〇名であった。
遭難者は十時間漂流の後、翌朝現場に急行した救難の商船や、軍艦に救助され清津港に帰還した。
乗客犠牲者一三六名の殆んどは三等客室直下の爆破による死亡や行方不明と推察され、その後十日問に渡る捜索が毎日続けられたが十一月十五日、これ以上は見込みなしとして遂に打ち切られた。この気化丸触雷事件に関し、日・満両国の世論が激しく湧き上りソ連に対し外交を通じて厳重抗議が行われ、謝罪と賠債の要求が叫ばれ、又国内の世論では自衛権の発動行使等と提唱されたが、一か月後に太平洋戦争が開戦となり、時局の推移と共にいつしか、うやむやに葬り去られて終った。
その要因は当時第二次欧州大戦中で、昭和十六年七月独ソ開戦となるや、ソ連軍は直ちに独潜水茎防備の鳥との理由で、浦塩などの沿海州四か所の水域に機雷を布設し危険区域の設定を宣言したが、その中多数の機雷の支索が切れて日本海、北鮮、樺太方面に流失浮遊し、日本海沿岸航路、日清北鮮航路や漁船の安全が脅かされた。
昭和十六年九月朝鮮東岸で大型遠洋漁船大昌丸が浮遊機雷による最初の触雷犠牲となって以来、計五件の被爆事件が記録され、気比丸事件のあと朝鮮総督府によって徹底的な哨戒調査の結果、十一月上旬までに北鮮沿岸で発見された浮遊機雷は、総てソ連製の三種類で合計五七個に及んだのである。
回収された中には歴然と固定式と異なる機雷もあると報告され、設置後僅か三か月の間に支索が朽ちて切れ、この様に多数流矢したという事実は、世界の海軍史上で初めての事といわれている。
この気化丸は当初北日本汽船の敦賀・北鮮間定期航路用に浦賀船渠で建造され、昭和十三年七月起工、十二月進水、翌十四年四月二十五日完成の砕氷型貨客船で、既に新潟・北鮮航路に就航中の月山丸の姉妹船として誕生した。
総屯数四五五三毛、生検は排気タービン付複二連成汽機一基を装備し出力三〇〇〇馬力で速力最高一七・一節を記録、全長一〇八米、幅一五、深八・へ船客設備は一等二〇名、二等五へ三等六八○で完成後直ちに敦賀に回航され、最新設備の花形貨客船として北鮮・清津向け処女航海に就航し、以来敦賀と北鮮の清津、羅津、離基間を往復して活躍したのである。
その間翌十五年一月政府の指導により北日本汽船、大連汽船及び朝鮮郵船の三社合弁の国策会社・日本海汽船が創立され、気化丸も乗組員共々新会社に移籍となり、日本海汽船の日満連絡・北鮮航路として就航したが、その後僅か一年十か月の勤務で、北鮮清津港の南々東七五浬の地点で浮遊機雷に触雷し沈没、船齢わずか二才半の幼い生命を失ったのである。松井邦夫(関東マリンサービス相談役)

 

 

 

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