絵で見る日本史船

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辰春丸(たつはるまる)
辰馬本家では、昭和十二年三月二十六日傘下の酒造、汽船、保険、不動産の諸事業を統括する新会社辰馬合資会社を設立し、汽船部門では早速台湾航路用定期船四隻の新造を計画、三菱神戸造船所に於て第一船辰和丸を五月に起工、続いて八月には第二船辰県丸を更に翌十三年一月船台を並べて二隻同時に起工、九月と翌十四年一月に進水し、夫々辰宮丸、辰春丸と命名したのである。
同年四月十五日四姉妹船最終の船として完成の辰春丸は、総屯数六三四五屯の鋼製貨物船で主機は三菱式二段減速装置蒸汽タービン五三六五馬力一基で速力最高一七・七、航海一五節、全長一三二・二、幅一七・一、深九・四米で、船客設備一等定員十名、七船艙の三島型で合計十四本の鋼製デリックの内、二番と五番船胞に重量物用二〇屯吊強力揚貨装置を装備し好能率荷役船として定評があった。
又各船中甲板のバナナ輸送用の定温設備は三菱電機製で、一定の温度を保ち基隆・横浜間を三日と八時間で走破、四姉妹船の正確な運航で当時の青果物業界では絶大なる信用を得て評価されていた。
横浜、神戸に寄港の後、門司で雑貨、肥料、海産物を積み基隆、安平、高雄更に基産で米、砂糖、バナナを積み何れも揚積同時荷役を行ない夜に日を継いで活躍し、航海中は当時貨物船では珍しい無線方向探知横を駆使して安全な航海を遂行、又音響測深器を活用し安平ではその威力を発揮した。
昭和十六年末太平洋戦争開戦と同時に辰春丸は姉妹船辰鳳、辰宮丸と共に海軍に徴傭され南道艦隊に随伴し、南方各地の進攻作戦に参加、翌十七年末から南方・内地間の急行定期船に指定され、米潜の跳梁する南支那海、台湾海峡、東支那海と連続する康の海を突破して任務に専念したのである。
昭和二十年三月十六日門司発のモタ四三船団に加入し南下中、同三月十九日午前三時上海沖の舟山列島付近で米潜の雷撃を受け右舷二番艙に命中、大破孔を生じたが応急手当で幸い沈没を免れ、自力で上海に入港し三菱江南造船所で約一か月の修理工事を施工した。
工事完了後舞鶴から北鮮へ軍事物質の輸送に従事、羅津港で揚荷中の同二十年八月九日、突然ソ連軍が参戦し空軍の爆撃や機銃掃射の間際をぬい、約千名の邦人避難民を便乗させ、夜陰に乗じて単独脱出に成功し屋津港を出帆した。
途中ソ連機の執拗な追撃を度々受けたが、終戦二日後の八月十七日辛うじて舞鶴港外に辿り着いた。
同日午後着岸に際し岸壁前面に於て突然海底で磁気機雷が爆発、機関室に浸水し着床したが、便乗者全員は無事祖国に帰還した。
係船のまま着床の辰春丸は戦後修復され、数少ない残存船の一隻となり、戦時中の幾多の危機を回避した幸運な船、縁起の良い船と称えられ、更にもう一隻終戦直前の二十年六月関門海峡壇芝浦で、磁気機雷に触れ欄坐し、戦後早々に引揚げられ辰馬船列に加えられた喜春丸も運の良い船であった。
戦後の昭和二十二年八月辰馬汽船が新日本汽船と改称の時、新造船の船名に,『春』の字をつける事が提案され、初春丸を始め富貴春、富士春九等、海運集約以前の昭和三十六年十月建造の須磨春丸まで書付き合計二二隻が誕生している。
昭和二十五年四月一日民営還元後政府指定のビルマ米輸送や、比島の鉄鉱石、ラワン材輸送に従事、同二十七年七月から印パ航路で活躍し、七年後の三十四年七月には主役タービンをディーゼル様関に換装し、それ以後は不定期船として世界各地に配船されていた。
海運集約後の昭和四十二年四月十二日、船齢二十八歳の時パナマ国籍のコルデンバファロ汽船に売船となり、異国の旗の下で活躍したがその後の消息は定かではない。松井邦夫(関東マリンサービス(株)相談役)

 

 

 

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