新しい領海

海上保安庁水路部領海確定頭査定 江藤隆志
平成八年七月二十日、わが国において「海の憲法」ともいわれる国連海洋法条約が発効した。これに伴っていくつかの分野において、わが国の対応が必要となったが、ここでは「新しい領海」に焦点を絞り、海上保安庁の担当官に解説してもらった。
新しい領海は、領海の幅を測るための基線として「直線基線」を加えたもので、平成九年一月一日から施行されているが、「直線基線」とはどういうことか、そして、新しい領海はどう変わったのか……。
1、はじめに
わが国の海岸線は、はなはだ長く、複雑に曲折し、各地に美しい風景を醸し出しています。日本三景として有名な松島、天橋立、厳島もすべて海岸の風景を対象としています。また、わが国は、古くは古事記や日本書紀に「大八洲国(おおやしまぐに)」と称されたように、多数の島からなる島国です。
北は択捉島から南は沖ノ鳥島、東は南鳥島から西は与那国島に至る広大な海域に島々を浮かべており、そのような四面を海に囲まれたわが国の主権や主権的権利などの及ぶ水域は世界でも有数の広さとなります。
このような主権や主権的権利の及ぶ範囲などを明確に規定した「海の憲法」ともいわれる海洋法に関する国際連合条約(略称、国連海洋法条約)は一九九四年十一月十六日に既に発効しており、世界の多くの国が締結しています。わが国も昨年第二三八回国会において承認され、平成八年七月二十日に発効しています。
本稿では、これまでに至る国連における海洋に関する国際会議の経緯を概観しつつ、わが国の対応について、特に海事関係者を念頭において紹介します。
2、領海の幅
国際社会において領海の幅の規定は、長い間、未解決の問題でした。十九世紀から二十世紀にかけては、・多数の国で領海の幅を三海里とする習慣が一般に定着しており、わが国も一八七〇年(明治三年)の太政官布告以後、国家実行として領海三海里を長く採用して来ました。海運立国であり、遠洋漁業など公海の自由を広く享受してきたわが国にとって、狭い領海・広い公海は国益に沿うものでした。
スイスのジュネーブで第一次国連海洋法会議が開催されたのは、一九五八年(昭和三十三年)のことです。この結果、いわゆるジュネーブ海洋法四条約(領海及び接続水域に関する条約、公海に関する条約、漁業及び公海の生物資源の保存に関する条約、大陸棚に関する条約)が採択されましたが、領海及び接続水域に関する条約には、基本的な事柄である領海の幅が規定されていません。
これは領海の幅については各国の主張がまちまちで合意が成立しなかったためで、二年後の一九六〇年(昭和三十五年)に開催された第二次国連海洋法会議では領海の幅を六海里、漁業水域の幅を十二海里とする案が提案されましたが、ぎりぎりのところで採択されませんでした。そして、この会議以後、海洋資源、特に漁業資源に対する諸国の認識が高まり、十二海里の領海、二〇〇海里水域制度を採用する国が増加する状況にありました。
一九七三年(昭和四十八年)から開催された第三次国連海洋法会議では約十年にわたる審議が行われ、この結果、領海の幅は十二海里まで、排他的経済水域の幅は二〇〇海里までとすることで決着し、

 

 

 

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