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写真268 オロシとオモテと通り庭(通り道は土間と板間に改築)

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写真269 手摺のついた寝室

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写真270 縁側での仕事風景(手前からオロシ・オモテ・縁)

 

自身の結婚式が住宅内で行われた例は4戸で、式の場は1階の座敷が2件、2階の座敷が1件。出産例は3戸で、2階が2件、1階の縁側が1件であった。いずれも戦前から戦後間もない時期のことである。
続く子供の誕生と成長も、「何回も改築したのは子供の成長に合わせて…」という回答のように、増改築の大きな要因になっている。本調査でも部屋の増改築としては子供部屋が一番多かった。子供が独立した後では、空き室や収納室になっている場合が多い。なお、「小さい頃は、子供は勝手にいろいろなところに寝て、勉強もちゃぶ台でした。」といった話に、家族生活がにぎやかだった頃の様子も想像された。
その他、老親の看護や介護のために、また、自らの高齢化に対応して部屋を増改築した例もみられた。両親の新婚部屋として増築された部屋が、老後の病室となり、介護用に畳間から板間にされた例もあった。また、家族変化として、老親の扶養や世話のために、嫁いでいた娘さん夫婦が戻って同居したという例が3件もみられた。老身を看取った現在は、自身が高齢期・向老期に達している。回答者自らの高齢化により、手すりの設置や寝室とそれに続く便所の増築例もみられた。(写真269)
油津の産業の変化によって、生業に関わる住宅の変化も種々にみられた。「鯨景気の頃、舟祝いの時など、1階も2階も開け放って、100人を越える宴会だった。当時の網元の家は皆似通っていた。」という話からも、鯨景気の往時の状況が想像されるが、鮪漁や鰹漁など産業の盛衰によって、生活も住宅も大きく変化した。また、「土間の石敷きをコンクリートにし、竈をとって作業場を広くした。」「もともと魚を干すのは海岸だが、家の屋上に干し場を造った。」というように、加工の材料や方法の変化による屋内作業用の住宅の変化もみられる。さらに、戦争の影響も、疎開や軍隊への住宅賃貸、空襲被害などがあり、空襲被害の跡は、現在も住宅に刻まれていた。
台風などの災害による影響では、大きい被害のために居住部を移った例や、台風に伴う裏山の崖崩れによって、裏側の部屋の一部を1階・2階ともに切り取った改築例、さらに、台風対策のために屋根を低く改造した例もみられた。その他、戸をアルミサッシに取り替えるなど多数の改築例があった。後述するように、住宅で困ることとしても、この問題が最も大きく受けとめられている。
改造箇所としては、土間や台所の変化が大きい。産業や社会変化の影響を受けやすい箇所でもある。台所が土間から。板間に改築された例は12戸で、昭和20年代〜50年代に渡り、40年代が最も多く6戸、20年、30年、50年代は各々2戸である。通り庭形式の土間が残っている住戸は5戸あるが、その内、通り庭以外で板間の台所を増改築した住戸が3戸あり、加工業のための土間の改造もみられる。「土間を板間にしたのは母のため。」という回答もあった。板間にした折に、竈も取り払われたようである。竈が残っている住戸は3戸あるが、特別の時以外ほとんど使用されていない。「嫁いだ昭和21年には今の竈があり、薪で2〜3年炊いて、それからガスになった。」という話も聴かれた。「イロリは以前はあった。」という回答が多かったが、実際に今も残っているのは1戸だけで、「ユルリ」と呼ばれている。その他、風呂場と便所の設備改造も多く、また、外壁の改造も多い。
各戸とも縁側は比較的よく残されているが、前面を腰高の窓に改築した例が多い。縁側は漁業の重要な仕事場であるとともに、近所の交流の場でもあり、出産の場となる場合もあったようである。「この辺りの家には、たいてい通りに面して板縁があった。この縁側には、近所の人がズラッと並んでよく夕涼みをした。人情があった。」という話も聴かれ、港町のゆったりとした夕暮れの情景が想像される。調査住戸中3戸に、通りから直接腰を下ろせる縁側がある。格子付きや腰高窓の縁側では当時のような夕涼みはできない。(写真270)
なお、現在も近所とのコミュニティーは親密で、「今

 

 

 

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