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る信頼は薄いものであった。昔の人々は橋は崩すものという戦略上の認識をもっていたのか、避難路として石橋を唯一の道として常識的に知っていた。
石橋造成は住民の願いを汲み取った善政の一つだが、当初予算をはるかに超えて頑丈な造りは、分限者で油津港海運に荷船の船主でもあった山本氏の寄付金もあって完成した。堀川石垣は石橋に向って両側から長い登り坂になっている。低い堀川岸の両岸を結ぶためには川の幅員、つまり橋の長さからいってもアーチ型を大きくする必要があり、さらに船が通れるような高さも要るので、橋梁を高くとる必要から、取付道をそこだけ高く導いたのではないか。それ以前の両岸は上下流のように低く水面にもっと近かったのだろう。吾平津神社は道よりもっと高く、堀川勘場から材木町の入口まで山際に流れ込んでいた。材木町へ神社前から下る道は石橋と同時に埋め立て造成された可能性もある。今も山際にへばりつくように軒が並んでいる。山を崩って道を拓き、その土砂が材木町の一部堀川沿いの土地を埋め立てるのに用いられたのかもしれない。
堀川の最終地点がどこなのか論議を呼んでいる。人柱さまの広場が波止ノ鼻と呼び、その先を築港と呼んでいたから参考になると思うぐらいで確たる認識はない。しかし油津の浜は明治時代始めまでは、今の「みなと大橋の東への線までは浜辺で、2尺足らずの石積みと植え込みがあり、防風の役割をしていたという。時代が新しくなるに従って海辺へせり出し用地をつくり、岸壁を造成した。旧時代の魚市場は明治20年ごろに現在の国道220号線の大橋に向かう道に面した北側にあり、堀川から50メートル足らずのところにあった。昭和20年、そこに防空壕が掘られたが、全くの砂地であった。
油津には文人の来訪も多く、徳富蘆花が鵜戸神宮から。またマグロ景気に湧く油津港にやって来た野口雨情は、「弁甲山から鮪は海よ、ほんに油津よいところ」の「ベンコ節」を作った。昭和11年レコード化した。そして堀川べりに立って「水と筏を堀川橋の石の手すりは見て暮らす」と詠んだ。300有余年の堀川の歴史が流れている感動が伝わるが、平成の時代になり、映画寅さんシリーズの映画ロケに来た渥美清は、ロケの合間に堀川橋の手すりに両手をついて、下流域を流れる堀川の水面を眺めて「こんな所に育つ子らは幸せだなァ」と私的な感情を映画ディレクターの友につぶやいたと云う。
この流れを埋め立てて止めることなく、悠久の流れが保証された国の港湾整備計画の早期完工によって、堀川保存の成就が期待される。

 

 

 

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