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の勢いにあった。油津港は500から600隻のマグロ船で埋まり、北海道から南九州までの全国の漁船が集中しマグロ漁を競った。空前絶後の「マグロ景気」の到来である。(ハ)のボートと云われる大洋漁業の運搬船がスマートな船体を油津港に表わした。同じ型の運搬船が港の岸壁にズラリ、船尾を岸に向けて並んでいる壮観な港風景は、明治のムードを横溢するアンティークな想いがある。数世紀にわたって内外の帆船が走り、あるときは遣明船の帆影、八幡船、島津氏の兵船、木材を腹いっぱい積み込んだ千石船、ポルトガル船などが出入りした油津港。全国のマクロ漁船千隻近くも収容した港は、昭和18年ごろから日本海軍の人間魚雷基地となり、国の守りに備えるのであった。
「栄光ある油津港」と題する郷土史上の1ページがある。明治40年10月30日、大正天皇が皇太子殿下のとき、鵜戸神宮(当時官幣大社)ご参拝のため、御召艦隊が5日間にわたって油津港に碇泊された。艦隊は有馬海軍中将坐乗の「鹿島」を先頭に、皇太子旗が高くひるがえる御召艦「香取」を中央にして殿に「出雲」があり、如月、響、神風、初霜の駆逐艦がこれに従うという陣容。鹿児島湾を午前7時30分に発艦し、午後零時30分には煙を見て都井岬の望楼から「御召艦見ゆ」の報告を受けたという。艦隊は港口に列を正し威風堂々、大島の東岸を廻り、七ツ碆と裸碆との間より入港、大島の北に投錨す。と伝えている。また、港外まで供奉した藤井少将坐乗の艦隊「対馬」をはじめ「磐手」「浅間」「常磐」と、11隻の駆逐艦から成る護衛艦隊は、御召艦隊が港内に進行すると有明湾に引き返した。

 

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写真5 御召艦隊が沖合に投錨する油津港 明治40年

 

陸の奉迎も時代もの。県知事と伊東子爵ら2万人にのぼる衆と沖合へ向けて万歳。歓声洋々、山河に震うと。夜は竹筒に石油で火をたき、150隻の舟で漁火をたいた、軍艦からも探海灯で応えたという。花火が夜空を照らしたことは云うまでもない。油津港投錨4日目、11月3日は各艦101発の祝砲をもって天長の佳節を奉賀している。油津の町は海軍さんたちで溢れたという。油津沖に姿をみせた20隻に近い御召艦隊、護衛艦隊はそれぞれに2年前の明治38年、日本海々戦でロシアのバルチック艦隊を撃破して大勝した艦の雄姿である。このとき皇太子は飫肥城跡を訪れ、東郷平八郎元帥の案内で伊東邸庭園などご覧になったと伝えられる。古き佳き時代の油津港をめぐるロマンである。(古老の話)
堀川運河は木材搬出の合理化を主目的に開削されたが御用船倉があり、造船作場など付属しているなど弁甲筏流しだけではない他の役割を秘めている。御用船は伊東水軍の兵船であるから船倉は厳重な保護の下に管理されるのは当然であるが、船倉堀を「かくし港」とする説は妥当ではないように思う。むしろ大事な兵船を、高波や強風の嵐から護る安全な場所に船倉を設けたというのが理解し易い。港から遠い場所にあっても隠しようのない施設であるというより「いざ鎌倉」の緊急な対応が求められる軍事基地の即応性という点から考えても、隠れ港の意は尽くせない。軍港の船庫は隠密性が高くあるべきだが、堀川は運河の役割より海から寄せくる敵水軍の島津軍を仮想敵とした防衛線としての秘めたる戦略的施設と読む説も云われる。
結果的にその役割を果たすことになるとしても、それが主たる目的ではなかったのではないか。現在、自然の成り行きでそうなったのだが、漁船の避難場所として利用されているのも堀川石橋よりかなり上流が選ばれている。港則に反するものだが、船を台風から守るため黙認されてきた。かつて油津には沿岸一本釣りの帆かけ船が日帰り漁でにぎわった。俗に「チヨロ」と云ったが、堀川下流域の堀川橋をはさんで上下水域に両岸へ船つなぎした。堀川の風景を色彩る風物詩であったが、漁船の機動力化と大型化でチヨロ舟の姿は全く消えた。舟型は横に広い団平船を小さくした大和舟の形式があるが、鋭く突き出した水押をもつ細形の薩摩舟とは亦趣が違った。
堀川橋が石橋で明治36年8月に竣工して以来、1世紀近い風雨に耐え、地震にもゆるがない堅固な造りは油津の人々が切望したものであった。油津地区は堀川開削によって平野部と切り離された、いわば陸の孤島である。旧時代の人々は地震による津波や大火の大災害どきに陸の孤島からいち早く脱することを避難の心得としていた。あるいは津の峯に難を避ける津波に対する構も云われ、災害避難はまず石橋を渡れというのであった。それまでは堀川にかかる板橋はいくつかあっても、地震や風水害には崩れ落ちるものであったから、従来の橋に寄せ

 

 

 

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