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のばせるに十分である。この広重の絵は安政3年(1856)3月出版の六十余洲名所図の1枚で、飫肥藩に育った外交官、日露講話会議で活躍した小村寿太郎侯が生まれたころの港風景である。
また「日本地誌略図・油津港」の版画がある。広重の作者名がある。明治9年に2世広重が先代の六十余州名所図会を模したものとされるが、日向の国を概説する讃がある。江戸時代にも全国の要津の一つとして廻船業界に知られていた。対明交易で中世後期に繁栄の世紀をもち、江戸時代初頭に海外交易を閉ざされるや、木材積出港として活路を見出した油津の港運は、明治時代もなお民間活力が伝統の港の繁栄を支えた。
幕末の油津港は黒船来航におびえているうち薩英戦争(文久3年・1863)で度胆を抜かれた。藩主伊東祐相公は領内沿岸の海防を命じ、港西側の池ヶ山に望遠台を設けた。また飫肥藩は港北側の丘に砲台を築くため工事に着手した。薩英戦争と同じ年の文久3年7月6日のことである。海防のためだが、丘上に茂る樹木を伐り払ったら小祠を建てた跡のような所から海獣鑑の銅鏡など大刀、玉類が出土した。古墳であることを確認して砲台築造は中断した。油浦で漁撈を営む古代人の足跡である。
堀川運河の河口に波止ノ鼻という場所があり、運河造成にまつわる人柱伝説の広場がある。人々は人柱さまを祀る聖地であるため大事にしてきたが、その南西隅に「鯨魂碑」が建立されている。かつては台石を基盤に見上げるような大きな石碑であったが、広場北隅に移したとき、台石をはずし、碑を埋めてしまったので背の低い供養碑にしか見えない。
油浦の浜に大鯨がうち揚った。夜が明けると巨鯨に人々は群がった。この頃、時化が続いて出漁できない日が続いていたので、“飫肥四浦”は食糧不足が長くつづき飢饉にあえいでいた。天の恵みとばかりに飢えをしのいだ、浦の出来事は浦長の許しが必要だが、巨鯨を目にした人達は、なにはさて置き、飢えた腹を満たす事に飛びついた。巨鯨は油浦だけにとどまらず、四浦の人にも分け与え、農家にまで及んだ。ところが鯨は子鯨をみごもっていた。人々は鯨の恵みに感謝するため親鯨の目玉と、子鯨を手厚く葬り、堀川運河の高台にあった旧正行寺に供養碑を建てた。「建碑以慰鯨霊魄」と大きな舟型碑である。いつのころからか、恩恵にあずかった農家からモチ米が寄せられるようになり、油浦では鯨の形に似せた餅を作り、供養碑に供えるようになった。以来、油津海岸部では「くじら餅」と呼ぶだんごが楽しまれるようになった。平たい板状の餅には、くちなしの実で黄色い2本の線を着色し、赤色で2つの目玉を点ずるのである、戦後しばらくして、鯨もちは消えた。
鯨魂碑は旧正行寺が廃された明治5年に、人柱さま広場に移されたと思われるが、正行寺は慶長のころに開基しているので、鯨の出来事は旧時代のことであるのかもしれない。人柱伝説の広場と鯨魂の碑は油浦と堀川運河にまつわる史話である。油津でも極くせまい堀川べりの地区で語り伝えられており、油津東地区や春日地区には、くじら餅を知らない人も多い。

 

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写真3 鯨魂碑

 

油浦の地頭で浦長と慕われた総船頭の山崎家は油津古墳で旧正行寺のあった丘の下にある。寺の門前石段をはさんで漁家が集落を作っているが、堀川寄りに山崎家があり、回船業の河宗が堀川沿いにある。油津では山崎家の集落を上町と云うが、そこから港へ南に延びる路地があり、浜に出る幹線で「くじら通り」と呼ばれ、のちに「まぐろ通り」の名がある。その道から堀川に向けた東西に通じる道に家並みがあり、くじら通りと交わる各角に辻地蔵が祀ってある。堀川べりの河宗本家から分家などの集落を形成し、そこから東寄りに京屋酒造の渡辺家など多くの旧家が並んでいる。角々にある地蔵尊像は早朝の真暗な路地を浜の舟に下る上町の漁家にとって、海上安全と豊漁を念じて心をなごませる役割を果たすものであった。朝日は、帆かけ舟でもはるかな沖の漁場で拝することが常であったから、油浦の浜を出るのは午前3時前後であったという。日帰りの一本釣りで、その日の夕方には帰投した。

 

 

 

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