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油津の町並みと堀川運河

 事業名 観光資源の調査及び保護思想の普及高揚
 団体名 日本観光振興協会 注目度注目度5


 

を欲していたに違なく、詳細は分からないまでもこのとき領域外から人の流入があったと云われている。この伝統的な現象は昭和初期の油津港で展開した空前のマグロ景気に糧を求めて油津に移住した土佐、伊予の人達が再現今日南に同化している。
かつて山林長者であった日南のご三家の一角を占めた河野家は「河宗」の屋号で知られる。家は堀川の河口に近い運河筋にある。旧時代から藩の御用商で、木材をはじめ和紙、鰹節など海産、山産物を大阪方面から瀬戸内海諸港へ輸送する回船を仕切っていた。家を一歩出ると堀川運河に当たる位置にあり、堀川を上る荷を揚げるには最短の位置でもあった。河宗は四国伊予の河野水軍にまつわる鎌倉期伊予の守護・河野通有を祖につながる家柄が伝えられる。伊東氏が島津氏に追われ豊後に落ちたあと、三位入道義祐が伊東祐兵と伊予に難を避けたとき、伊予の河野氏がかくまった恩義を云う向きがあるが明治以後、旧飫肥藩の山林を譲り受けて山林経営のほか、回船業で富を築いた。河宗家は油津港と堀川運河をあたかも牛耳るかのような勢いがあった。(古老の話)

 

先述したが飫肥藩は林業経営のため寛永の大植林を行ったが、貞享の堀川運河完成どきには、杉の苗は50年の大木に成長し伐期にあった。木材搬送の大改革は飫肥林業の振興に寄与し、油津港の繁栄をもたらした。堀川運河は弁甲筏など大量の木材を運ぶ役割のほか、藩の御用船を格納する船倉も併設したばかりか、造船作場も設置した、2000石までの造船能力があったという。堀川花峯橋のすぐ下流の梅ヶ浜向けて運河支線を掘り、船倉堀と呼んだ。長さ100メートル、幅20メートル、深さ約6メートル。左右両岸に7隻の御用船を納めた。
梅ヶ浜には船大工棟梁など工人集落を設けて船倉を管理させた。参勤交代には船団が港に下り、日向灘から瀬戸内海へたどった。堀川以前は御用船の船つなぎ場は、油津港西域の海上にいかりを下ろしていたが、浜に揚げていたとも伝えられる。油津西町の山際にも船大工の集落があった。良水の泉といわれた湧き水も山際にあり昭和初期まで住民の生活用水として利用された。
木材の積み込みは油津港東寄りの港域で行われたとみられるが、上方への上り便は、尾伏鼻のへりを巡るように出帆した。そこには島や埋瀬などが散在、大島までに連なっていたため、尾伏鼻から一の間口〜六の間口まであり、船の大小によっては各間口を通航した。
江戸時代は油津の港運は木材積み出しの千石船で賑わい、藩専売の鰹節、飫肥和紙などの積荷は堀川河口近くの林光寺倉から持ち出されるものであった。堀川に導入された木材は土場で弁甲材に仕立てられ、川面で筏に組まれて港へ下すのだが、途中筏が岸の石垣に衝突して崩さないよう、堀川はうまく蛇行しながら港に延びている。港へ直線となる最終区間入口に当たる材木町付近で大きく曲がっている角に勘場があり、木材の勘定など検査場の役を司った。石垣はスベルように岸から川へ延びていた。よく分からないが小舟・天馬の揚げおろしに便利であったのかもしれない。
産品倉の林光寺倉は吾平津神社の下流にあるが、同地は中世の臨江寺跡で伊東氏の飫肥入城以後に廃されたのか、飫肥藩政史では詳しくは分からないと伝えている。藩専売品のなかでも鰹節は大阪で利を生んだため、一般の消費は禁じられており、鰹漁の水揚管理は厳重さを極め、漁船の底ざらえまであった。油津には納屋と呼ぶ鰹節工場があり、昭和初期まで健在であった。江戸時代の納屋は財政上の重要な産品として株が決められていた。漁船にはかつお釣り株、かつを節製造は湯出株であった。安政期の鰹漁期の出荷額は200C石余りの米価に相当するものであった。
江戸元禄時代以後、堀川運河の成果は油津港播磨航路をわがものにした。江戸海運の航路地図には、九州南部で坊之津、山川、志布志、油津、佐賀関の要港を結ぶ航路を示している。油津から瀬戸内海を経て播磨、堺へのコースがある。また油津から土佐室戸をめぐって大阪、兵庫への航路もある。弁甲材を求める造船の国は遣唐使船建造の歴史をもつ周防の国(山口県)中世期にはじまる近江、丹波、播磨、備中などで、瀬戸内海沿いの靹、牛窓、室津、兵庫、大阪、堺へ油津港から積み出された。これら造船の地では用材として日本一の飫肥杉弁甲材の信頼は高く、3世紀にわたって取り引きは続いた。
播磨航路は人々に親しまれ、油津港の俚謡が「新艘船仕立てて七上下八上下、今年や仕合せ九上下」と唄った。孫を背負った婆さまが、浜に出て出入りする千石船を遠くに眺めながら、子守唄がわりに口ずさんだのであろう。帆船の荷船は日和りによって出帆が左右された。年に7、8回の往復が平均的であったのだろう。それが今年は九往復もできたので、天の恵みに感謝の心もこめられていたのかもしれない。
油津港は全国の海の男たちによく知られていたのか、江戸時代の浮世師・安藤広重の「六十余洲名所図会」に「日向・油津ノ湊・飫肥大島」と題して描かれている。その絵は複製されているが、尾伏(大伏)鼻の海区に千石船が4艘沖がかりし、松のみどりを配して遊郭が2階建ての家で数軒描かれている。2階の回廊から遊女が船頭らしき男と談笑している風景が、江戸期の油津港をし

 

 

 

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