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磯地帯で難工事に苦しめられ、遂には「人柱」を建てたとも伝えられる。現に河口付近の波止の鼻(はとのはな)と呼ぶ所に「人柱さま」の広場が戦後昭和30年代まで在り、今漁民ひろばとして整備し海難殉死碑を建立している。
人柱伝説の広場にふさわしい雰囲気を漂わせる場所で、堀川沿いに高い石垣が築かれていた。広場の真中に土万十があり、その頂点に石造りの祠が川を背にあり、祠の周囲には地蔵尊が円を囲むように外面を向いて鎮座していた。堀川沿いに上流の区画に沿岸一本釣りの漁師が住んでいたが、夕方の陽が沈むころに老婆が線香の煙をたてながら人柱さまに焼香する風景も今は昔語りになってしまった。同地には老松が堀川水面に影を映してそびえていた。昭和初期まで人々の目を楽しませていた。そこには油津の飢えを救った鯨魂を慰める供養碑が建立されていたが、それは後世のことである。鯨のことは後述する。

 

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写真2 人柱さま広場

 

人柱さまの広場から堀川運河に下る石段があった。その川底には磯石がたくさんあり、「がらっぽ岩」という大きな岩があった。がらっぽは河童のことである。それら磯岩は干潮どきに姿を現し、満潮になると水中に没した。明治末までイルカが群れた荒磯風致はみなと大橋の架設でコンクリート擁壁に埋もれている。貞享2年10月、飫肥城改築の許可があった。堀川の工事が急がれたはずである。完工する2日前の貞享3年3月23日に、飫肥城改築の鍬入式があった。同年3月25日、油津堀川運河が完成した。
堀川運河は広渡川口の璋子が島西の石堰水門口から蛇行して河口の港まで延長495間のおよそ900メートル余り。川幅は広い所では20間、約36メートル、両岸間は平均15間、27メートルの広さがあった。干潮どきの深さは2仭(尋)から4仭という。その深さは3メートルから6メートルくらい。
広渡川は東川と記され、堀川水門口の石堰堤は水門の外側、川寄りにあり敷石で固めている。その南側は石崖に接していた。「いしで」の地名も生んだ。この地は現在ある川沿いの堤防はなく、川水が浸して春日地区まで湿地帯であったと思われる。大正時代もなお葦の茂る川の中洲のような風景が広がっていたという。もちろん堀川の北側を指す地区の一部であったとみられるが、江戸初期にはこの地域に堀を通す工事は、固い地面を掘削するような難しさはなかったのではないか。動力のない人力だけの時代、約1キロメートルの運河を開削し、ときによっては山を掘割って地下の岩盤を砕く工事にしては、28ヵ月の工期で済んだことに不思議を思うのである。水門口付近の花峯から春日、材木町まで連なる山は、港と堀川が生まれた平野部とを区切るものだが、その山際に中世寺院があり、堀川完成後に山との空間が人の住める地面となったのではないか。それでも明治の末ごろの春日地区は山際を通るしかなかったと古老の話が伝わっている。
堀川の早期完工には日向纂記に「日々間断無く人夫の功を用いければ−梅ヶ浜堀川並船倉(7艘入)石垣などなどまで其功全く成就したりける」と結んでいる。余程の労力を投入し、酷使したことが思われる。なかでも吾平津神杜下辺りの150メートルに延びる岩盤は「のみ」と「かなづち」だけで、60メートルくらいまで開削した労働には凄味すら感ずる。工事に投じた石工の人数盛は分からない。それでも四国土佐、伊予から石工を寄せたとも云われる。
油津に古くから石井姓がある。漁業関係者に多かったが、伊東水軍の船頭一族で油津の庄屋、山崎総船頭の傘下にあって海に生きた古い家である。ほかにも石井姓があるのだが、なかには堀川工事に従事した石工の子孫らがある時期から石井を名乗ったとの説もある。もちろん今ではこれらとは全く関係のない人もあると思われるが2つの石井姓は親族の結びつきがないので区別がつく。10年も経ない最近のこと、海の石井にまつわる先祖の供養祭に、同姓のよしみから参加申し出があったと云う。文書で残るものではないが、いずれの石井も3世紀以上の歳月を経て今、油津の風土にすっかり溶け込み、みなと文化を形成し、堀川文化を醸成した人々であったことは確かな歴史である。
時代はよく分からないが、土佐清水に近い某地方から200人もの逃散があり、油津港をめざした。藩庁では受け入れたようで、港からかなり離れた某地にかくれ里を営んだという。堀川の土功で藩庁がケタはずれの労働力

 

 

 

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