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第1章 油津港と堀川運河の歴史

 

今、油津港と呼ぶ天然の良港は、中世の昔から「油之津」あるいは「油浦」の古名で、中国大陸やポルトガルなど海外にまで広く知られていた。鎌倉初期の建久図田帳によると、油之津は島津荘寄郡・妖肥北郷・南郷の域内にあった。
南北朝初期には島津荘領家の奈良。興福寺一乗院政所が荘園支配していた。寄郡・飫肥は南北両郷合わせて510余町の園地をもち、日向州南部と薩・隅州の境に位置する海上交通の要衝・油之津を擁していた。海と山の幸に恵まれた豊かな荘園であった。一乗院領家の政所が荘園支配に固執し、島津氏をもって治安に腐心している。収納使伝・弁済使伝の水間栄証が年貢を納めなくなったので、鹿児島郡司・長谷場氏が飫肥に派遣され、水間氏に代わってその任を請けた。14世紀中ごろの建武一貞和の時代で、水間氏の抵抗もあり在地有力者らが入り乱れて争乱が起こった。

 

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写真1 油津港図絵

 

やがて荘園制度が崩れ、武家の領地支配が始まるのだが、この過程で要所に武力集団の拠点となる城郭形成があった。寄郡飫肥にも天然の良港・油之津に臨む西側の山上に「沢津城」ができた。城郭は相当規模をもつ山城で、在地有力武士団が海上往来の権益を支配する根城にしたとみられる。沢津城はL字型の空堀が、3つ以上の郭を囲んでいた形跡がいまも確認され、当時寄郡飫肥油之津地方が豊かな経済力、文化を備えた地力があった証として注目される。
当時、油之津をめぐる荘園支配が、在地権力と中央権力とが見事に結実し、有効な成果を挙げた好例との評価もある。港に臨んだ山城・沢津城の高い史的価値が、中世日南地方の海岸都市の在り方を問い直すきっかけになる期待がある。
また、油之津西域の高台に「臨江寺」という中世禅寺が営まれていたのをはじめ、浜港を囲む北側山際に、西から沢津城につらなるかのように天福寺が池のほとりにあった。そして建法寺、梅ヶ浜栄興寺、応観寺が東方へ点在した。
平野部の東光寺に真言宗寺院、さらに飫肥城の西奥に大迫寺が一山を境内として、県内最古の石塔群を残している。五輪塔や板碑は250基を超えている。油之津の西外側にあたる山王浜につながる日南市隈谷の歓楽寺石塔群とともに、日向の貴重な中世遺跡で、中世の飫肥地方が有力な海洋都市として経済、文化圏を形成していたことを物語るものである。これはまた、複数の在地有力豪族が、中央権力に敏感に反応した現れで、早い時期に中央の先進文化を反映した営みがあったとみられる。さらに明文化の流入で禅宗文化にも潤っていたことがうかがえる。
油之津という優れた海上交通の拠点を控えた島津荘飫肥院には、有力な武士団が複数で在地するだけの経済社会基盤を成していたとみられ、海に道を開いた領国ならではの地力ではある。中世の海洋都市油之津は富を蓄積すべく十分に機能した。大規模な湾津の外浦より、内懐の広い入江の油之津が機能した成果がみられたことは、背後に飫肥城があったことにもよるが、海上と密接にかかわる地理的な要件が備わっていたからとも考えられる。油之津を囲む山にそって寺院が建ち並んでいる海岸集落は、瀬戸内海の要衝・尾の道に似ている。臨港の寺院は唐船など外来船の異国における拠りどころであった。
沢津城の油之津から海上を北上すると、鵜戸神宮六所権現の鎮座する鵜戸崎に至る。さらに往くと伊比井浦が瀬平峠にこびりついている。沿海を一望する瀬平城には七浦の領主・矢野氏が居た。矢野氏は四国伊予から日向下向の名族で、油之津から約20キロメートル北へ隔てた

 

 

 

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