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第4章 舞鶴市における赤煉瓦建造物


4−1 舞鶴の近代化遺産の技術史

 旧舞鶴鎮守府や海軍工廠の煉瓦造建築については、別に詳述されるので、鉄骨構造の系譜という観点から、旧魚形水雷庫(明治37年竣工)と舞鶴機関学校(昭和5年竣工)の鉄骨煉瓦造建築にっいて構造技術史的な立場から考察する。

(1)魚形水雷庫の構法の位置づけ

  ?製鋼法と鉄骨構法の変遷

 現代建築の構造材料の主流は鋼材一高炉を鉄源として転炉と連続鋳造によって製造される圧延鋼材であるが、19世紀末頃までは平炉や転炉製鋼法が発展途上にあったため、Paddle製鋼法による錬鉄が鋳鉄と並んで用いられていた。また、19世紀初頭にはボルト接合法が用いられたが、強度的な信頼性が低かったためボルトを使用せずに接合できるような鋳鉄金物が一般的であった。しかしながら、19世紀後半、鋳鉄に代わって錬鉄が徐々に普及するとともにリベット接合が考案され、やがてこれは、20世紀に入ると圧延鋼材の接合法として、我が国でも昭和40年代に電気溶接が普及するまで幅広く用いられた。
 このような視点からみると、舞鶴の鉄骨煉瓦造建築が建設された20世紀初頭は世界的に見ても製鋼や鉄骨の工作技術が大きく変化発展した時期で、現代の鉄骨構造の黎明期の技術を研究する上で重要な時期にあたる。
 以上の立場から、我が国の鉄骨建築の歴史を振り返ると、欧米の鉄桐技術の変逼にやや遅れつつ、同じような発展を遂げたことが分かる。
 すなわち、明治初頭まだ鋳鉄が鉄骨建築の主要部材であった頃、わが国に初めて導入された鉄骨建築の一例として図(4−3−1)に示す博物館明治村に保存されている鉄道寮新橋工場・機械館がある。本建物は明治初年(1868)に英国から輸入された。内部の柱は鋳鉄管A(樋を兼ねる)で、桂頭や柱脚は鋳物で作られ、トラスの引張材Bは錬鉄で端部を目玉ボルトCで結合している点など、鋳鉄と錬鉄の混構造の巧みな技法が見られる。
 また、明治22年(1889)には、これと全く同じ構法で国産された鉄骨建築一鉄道局新橋工場も明治村に保存されており、欧州の技術を忠実に模倣しつつ技術を蓄積していく過程を辿ることができる。
 但し、新橋工場が造られた明治20年代の初頭の欧米は錬鉄から圧延鋼への移行期で雑多な技法が混在していた。フランス革命百周年を記念したパリ万国博覧会のEffel塔(1889)は錬鉄製であったが、同じ頃米国のシカゴでは十数階建ての本格的な鉄骨建築が圧延鋼材で盛んに建築されていた。我が国でもこのような錬鉄・鋳鉄混構造からロール鋼の時代への過渡期の手法を残す我が建物として、明治24年(1898)竣工の大阪麦酒吹田村醸造所(一部現存)や明治31年(1898)の旧丸三麦酒(加富登麦酒)半田工場など大蔵省臨時建築部の妻木頼黄博士が独逸Germania社から技術導入した醸造工場に実例をみることができる。たとえば図(4−3−2)の吹田村醸造所では、外壁Aは煉瓦造、下層部の床を支える中柱Bは厚肉鋳鉄管で、接合部は精密に中繰りした鋳鉄金物Cであるが、防火床と称するボールト床には圧延I形鋼(BURBUCH製等)梁Dが用いられている点が注目される。
 我が国で主体構造を圧延鋼材で製作した最初の建築は、横須賀造船所の海軍技師若山鉉吉が明治27年(1894)にフランスより部材を輸入して建設した東京京橋の秀英舎印刷工場(大日本印刷の前身)とされている。又、明治34年(1901)に操業を開始した官営八幡(技光)製鉄所にはドイツからの輪入鋼材を用いた大規模鉄骨が多数建設され

 

 

 

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