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蔦かずらに絵を盗まれた話[花と話をする女]……………牧田茂

私のいまの妻がもとは造り酒屋の女房で、助けた蛇に酒をせがまれた話は本誌(四十四号)に書いた。もともと、花を愛する心が厚く「花と話をする女」(五十一号)なので、花と話をするのを聞いた女中がこわがって三日で暇をとったくらいだ。その妻が平成八年十一月にはヨーロッパに旅行して「蔦かずらにスケッチブックを二度も盗まれた話」である。信じない人があるかも知れないが、盗まれてなくなったのは事実である。同行した人もいる。蔦かずらは妻がなんども描いた図柄で、その画集にも出ている「哀しみの蔦かずら」を参考のため添えておく。
私は民俗学を専攻した学徒なので、いなかの老人から民俗について聞き書きするときのように妻の話すままを文章にして『自然と文化』の読者諸君に聞いてもらうことにした。
これまで洋画家として「哀しみの蔦かずら」など、絵を描くときに、とかく「蔦かずら」を描いていた妻が、イタリアに旅行したとき、トリノで老木の蔦かずらがまつわりついていた十四世紀の古城をスケッチしたあと、ヴェローナとベニスと二度にわたってスケッチブックを盗まれた話である。絵描きが絵を盗まれたという自慢にならない話だが、これには同行した亜矢という札幌のグラフィック-ディザイナーの証言もついている。亜矢は南イタリアのフィレンテで三ヵ月ほど下宿していたことがあって、いくらかイタリア語が話せるので、妻がこんどの旅行にいっしょに行ってくれるよう、たのんだディザイナーである。
ミラノ空港へ着いたのは十一月七日の夕方であった。妻と亜矢とは荷物をホテルに預けてから町へ出た。街頭では手押し車で、男が花を売っていた。花のなかに、季節はずれの野すみれがあるのをみて、旅のときにはいつも野すみれの花を買って持ち歩くことにしている妻が三束買った。「これで、こんどの旅は安心ね」と妻は亜矢にいった。花は日本のすみれも、ヨーロッパのすみれも同じだが、葉っぱはちがっていて、ヨーロッパのすみれがまるくて、ちょっと大きいそうだ。妻が病気の人のところへ花を持っていって、すみれに助けてもらったという人は多いのだが、そのことについてはまたあらためてにしよう。
次の日はトリノへ向かった。トリノなどという土地の名は、こんどの旅行まで口にしたこともなく、また考えたこともなかった。トリノの東駅口前にあるトリノ・グランドホテルが予約しであったので、荷物を置くとふたりはスケッチブックをもって町に出た。二時半ごろだった。街並みはすべて十四世紀ごろに立てられた古い建物で、今も人が生活している。暗いイメージの町だった。
夕方ちかくなって、古城に出逢った。赤紫の蔦かずらがその城にまつわりついていた。よく見ると、一本の大きな蔦かずらが古城全体をおおっていた。根元は銀色にかがやいていて、ひとかかえもあった。何世紀かのあいだ生きてきた蔦かずらだ。美しかった。
「人々が伐ろうとしても、そのだびになんか災いがあって、伐られなかったんじゃないか」
妻はそんな気がしたそうだ。亜矢も同感した。妻は描いているうちに、心があったかくなって、ふるさとに帰ってきたような感じがしたそうだ。

 

 

 

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