胸の上にタンスがのっていました。やけに寒いのでよく見ると、南面が全て壊れ寒風が入り込んでいたのです。今になって思うと当日は何となくただウロウロとしていた様な感じがします。 3日目に高槻市の親戚と連絡がとれて避難させてもらいましたが、芦屋を離れると情報の入手が困難でした。ようやく2回目の抽選で仮設住宅に当たり、4月末に芦屋に戻りました。 (南澤委員) 私の場合、自宅の被害は軽微でしたが、揺れかたは信じられないものでした。何とか着替えをすませて、停電で真っ暗闇の中を階下に降りたのですが、途中、天袋が壊れて中のものが散乱している上を歩いたのに不思議と怪我をしませんでした。 自宅前の公園に毛布を持ち出して夜が明けるのを待ちました。明るくなるに連れ周りの家の屋根瓦や壁が落ちているのが分かってきました。 私たちの地区には割りと早く電気が通じたのですが、それまで暖房は全てガス器具でしたし、電気調理器具もなかったので、電気調理器具等も備えておけば良かったと反省しています。 風呂は1カ月ぐらい入れず、大阪の銭湯まで出向きましたが、そのとき銭湯で缶ビールをプレゼントされたので、聞きますと、被災者にプレゼントしているとのことで、嬉しかった反面、見るだけで「被災者」という姿をしているのかと、複雑な気持ちになったものです。 (松尾所長) 梶野委員は、震災で負傷されたと聞いていましたが、いかがですか。 (梶野委員) 地震当時の状況は、正直のところ、思い出したくありませんので、省かせていただきますが、その際に脊椎を負傷したため、京都市内の病院で治療し、2カ月ほどで西宮にもどりました。 5月にフレンテで開かれた合同相談から相談活動に復帰しましたが、その時に相談者の姿を見て、自分も頑張らなければといった気持ちになったことを覚えています。 (司会) 岡田先生は、ご自宅が全壊という大変なことになられましたが。 (岡田委員) 異様な音に気付いて目が覚めました。飛び起きた時には家は完全に潰れたのですが、幸運にも私たち夫婦が寝ていた離れは何とか残りましたので無事でした。 息子たちも最初の揺れで起きだしていたけれど、そうでなければ両側から倒れていた土壁の下敷きになっていたところでした。 外へ出ると、助けを求める声が聞こえ、近所の人が右往左往しており、西隣では子供さんが、その隣では老夫婦が、……と、既知のを含めて多くの尊い命が失われました。ば
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