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著者: 山田 吉彦  
記事タイトル: 海の色  
コラム名: Essay  
出版物名: (財)九州運輸振興センター  
出版社名: (財)九州運輸振興センター  
発行日: 2005/09  
※この記事は、著者と(財)九州運輸振興センターの許諾を得て転載したものです。無断で複製、翻案、送信、頒布するなど(財)九州運輸振興センターの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   海の色は何色だろうか。私は海を見るたびに、目の前に広がる海の色をどのように表現すればよいのかと考える。日本の海、世界の海を数多く見てきたが行く先々の海はいつも違った色をしていた。地域によって違うだけでなく、季節や時間、天気によって海はその都度、色を変えるのである。
 よく海は「青い」と言われる。青のほかに海の色は、紺色、藍色、緑色、翠、碧、群青色などと表現される。広辞苑によると、「古代日本語において固有の色名はアカ・クロ・シロ・アオの四色があるのみで、それは明・暗・顕・漠を原義とするという」と書かれている。青の本来の色は灰色がかった白色のことであったようだ。しかし、今の青は、「色の三原色の一つ、晴れた空のような色のことをいう」とも書かれている。
 紺色とは、青色と紫色との和合した色である。藍色は、青色より濃く、紺色より淡い色。藍は東南アジア原産のタデ科の一年草で、この草からとった染料で染めた色が藍色である。
 群青は青金石という鉱物から作る顔料で、群青色はこの顔料のような鮮麗な藍青色のことである。

 本来、透明であるはずの水からできている海になぜ色が付いて見えるのかというと、それは太陽の光の性質によるものである。太陽の光には、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫などの色があるが、海までとどいた光の中で吸収されにくい青い光が海中のプランクトンや浮遊物などの物質に反射するため海の色は青く見える。ただし、青と言っても光の強さや場所、海中の物質によって緑がかったり、濃い色になったりするようだ。

 私は今年の三月、門司港から外洋タグボート「航洋丸」(2096総トン)に乗り日本の南端「沖ノ鳥島」に行った。出航後、航洋丸は国東半島を横目に見て豊後水道を抜け、太平洋に出た。日向灘を過ぎると四方見渡す限りの大海原が続いた。片道、約1800キロ、二泊三日、60時間かけての船旅である。
 太平洋上は晴天、海の色は限りなく透き通った藍色。透明と藍色の境は無く、海面を見ていると、水中に吸い込まれてしまいそうな気がして怖くなった。日本列島に沿って北上している海流・黒潮を横切ったが、文字通り黒味を帯びた藍色をしていた。そして、水深が数千メートルの海域に達すると、海の色は藍色から紺色へと変わり、色も深みを増していった。
 陽が西に傾くと海の色も黄金色にかわり、落陽時には空が茜色に染まると海に茜色がうつり、やがて水平線に赤い縁取りを見せ、夜には、漆黒の海原の中に一条の銀色の道がまっすぐ延び、丸い月へとつながっていた。
 航海三日目の朝、船が沖ノ鳥島に近づくと海の色は紺色から藍色、そして青から青銅色に変わった。海底にサンゴ礁が広がっている証である。沖ノ鳥島の環礁の中は、海底のサンゴの色が透けて見え、赤緑色、黄緑色、白みがかった緑色などお花畑の様相を呈していた。
 帰りは、東京港晴海埠頭に着岸した。東京湾の海の色は、どんよりとした濃い麦茶のような色をしていた。海が都会に痛めつけられているのを実感した。
 海の色は、時と場所により絶え間なく、移り変わっているのだ。

 私が見た海で最も不思議な色をしていたのは、対馬にある浅茅湾である。神秘的ともいえる碧色をしていた。透明感がある碧の光を放っている様子はまるで湾一面が翡翠でできているようにすら感じ、忘れることができない光景であった。
 浅茅湾は、いくつかの切り立った山に囲まれ、無数の島や岬が散在する入り江である。私が対馬を訪れたのは昨年の秋の初め、晴天下、深い緑色の山の姿が海面に映し出されていた。晩秋になり山のカエデやナナカマドが紅く色づくと、海に広げられたカンバスに色とりどりの絵が描かれることだろう。
 浅茅湾から外洋に出ると、そこは対馬海峡である。東シナ海から流れ込んだ暖流は、群青の海流となり日本海を目指し移動してゆく。この海峡は太古からいくつかの海戦の舞台ともなってきた。古代、神功皇后の朝鮮出兵の伝説や西暦六六三年に起こった白村江の戦いの時代、日本は海峡を挟んで朝鮮半島との緊張関係にあり、対馬は国土防衛の最前線基地となった。その後、一〇一九年の刀伊の入寇や元寇と呼ばれる一二七四年の文永の役、一二八一年の弘安の役では対馬は外敵に襲われ多大な被害を出している。対馬海峡は、一九〇五年の日露戟争において、東郷平八郎提督率いる連合艦隊がロシアのパルチック艦隊を打砕した日本海海戦の舞台となっている。対馬の人々は常に日本の最前線として暮らしてきたのだ。海外との交流、貿易など対馬は常に日本の前線基地であった。この島の人々は少ない平地で稲を作り、海に出て漁を行い「食」としてきた。生産物の少ない対馬にとって海外貿易は経済の柱であり、隣国との関係が人々の生活を左右していた。まるで対馬は島国日本の縮図のようである。

 今、対馬は大きく変わろうとしている。平成の町村大合併により、島内の六村が合併し新しく対馬市となった。地方行政にとって厳しい財政的見直しが進む中、対馬市はどのように発展的に対応して行くのか重要な局面に立っている。人口減少、高齢化、第一次産業・第二次産業の衰退による産業構造の変革など、対馬は多くの問題を抱えている。対馬市の松村市長は産官学から幅広く意見を求め、これらの難問に立ち向かっている。対馬の持つ自然、文化などの観光資源やユーラシア大陸に最も近い地理的条件を活かし、次世代の島民が心豊かに暮らせる島作りを行おうとしているのだ。対馬の変革の成否は、日本のすべての離島の未来、ひいては今後の日本の行く末に懸かる問題なのである。
 私が浅茅湾を周遊した船は、島民の生活航路となっている渡し舟であった。山が険しい島内の移動にあっては道路網も整備されておらず、水上交通は必要不可欠なものと言える。特に高齢者などの移動に制約を受けている人々には重要な交通手段なのである。離島航路の運営は採算ベースで考えると厳しいものがあるが、島の人々の生活を支えているのだ。

 離島で暮らす人々は、数千年にわたり日本の国境を守って来た。今は、離島の抱える問題を日本全体の問題として考えるべき時期ではないだろうか。日本は、六八五二個の島からなる国なのである。
 海の色は海洋国家を自負してきた日本人の心の色。海には、沿岸で暮らす人の心の色が移っているように感じられる。私たちの暮らす国は、いつまでも、さまざまな色に染められた美しい海を持った国であってほしい。
 



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