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著者: 山田 吉彦  
記事タイトル: 江戸の天気予報士 平戸松浦薄に伝わる天気見伝書  
コラム名: 江戸の天気予報士 平戸松浦薄に伝わる天気見伝書  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2005/10  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ■ その武士の仕事は、空を見ることだった。そして観天望気の秘伝書を十年に渡って検証したのだ。


 文政年間、天下泰平の徳川治世も二〇〇年を越え、多くの社会的綻びが表面化していた時期である。度重なる飢饉により農民は生活苦にあえぎ、各藩の財政は疲弊を極め、地方独自の生きる道を模索する時代に入っていた。
 一方では鎖国により国際社会から取り残され、井の中の蛙となっていた日本の周辺海域には、大きな黒い船が現れるようになり、世界の列強国の圧力が目前まで迫っていた。実際にロシアの南下が進み蝦夷地周辺にたびたびロシア船が進出し、九州近海にはイギリス船、アメリカ船などが出没していた。
 文政八年(1825)徳川幕府は、時代錯誤にも、日本沿岸に出没する異国船を無二念(躊躇することなく)に砲撃するよう命じる、異国船打払令を出している。だが、国内においてもシーボルト事件(1828年、オランダ商館医師シーボルトが、外国人に禁止されていた地図等を入手し、国外に持ち出そうとした事件。手渡した高橋景保らが処罰された)に見られるように海外へ目を向ける知識者層の息吹は芽生え始めていた。
 文政年間は、時代の潮流が日本の近代化に向け、はじめの一歩を踏み出すよう背中を押し始めた時期だと言えよう。
 このような頃に、雨の日も風の日も雪の日も、毎日毎日、一日も欠かさず、日の出前に東シナ海を望む小高い丘に登り空と海を眺めることを職務としていた侍がいた。肥前国平戸松浦藩において中小姓大船頭を務める山崎杢石エ門である。杢石エ門は、文政二年から文政十一年までの十年間、日々怠り無く丘に登り、その日の早暁の空模様を記録していた。
 山崎家は、船奉行配下に属し代々藩の御用船を預かる大船頭の家であった。この山崎家には、天気見と呼ばれる天気予報を行う秘伝が伝え残されていた。杢右エ門は、主君松浦熈に命じられ、祖先から伝えられた天気見の伝承が当たるか、当たらないかを毎日確認していたのである。


■ 観天望気 ■

「夕焼けの翌日は晴れ」「朝焼けは午後から雨になる」など天気予報に関係する民間伝承を聞いたことがある人は多いだろう。天気に関する民間伝承は、「観天望気」と呼ばれている。天空の状況を観察して、空の色、雲の形、雲の動き、風の吹く方向、吹き方、太陽や月の見え方、動物の活動状況など長い年月にわたり蓄積された経験則に照らし合わせ、天気予報を行うのが観天望気である。前述の朝焼け、夕焼けのように一般的に広く言われているものから、「富士山に笠雲がかかったら雨になる」「伊豆大島が近くに見えたら雨になる」など地域限定のものなど、日本各地にさまざまな形で残され、今も語り継がれている。
 以前、日本気象協会の方と話したところ、局所予報に関しては、気象庁や民間気象予測機関が行う天気予報よりも観天望気の方があたる確率が高いと言っていた。では、観天望気はどれほど当たるものであろうか。いくつかの例をあげ的中率を紹介する。

 雷が鳴ると梅雨があける       84%
 夕虹に鎌を研げ(夕方に虹が出ると翌日は晴天) 84%
 鐘の音がよく聞こえると雨       80%
 乳房雲がでると雨       75%
 うろこ雲が出ると翌日、翌々日は雨   73%
 夕焼けは晴れ       66%
 朝焼けは雨               63%

 「海洋レジャーを楽しく安全に」(社団法人関東小型船安全協会)より

 ユニークな例だと「アマガエルがはしごを上ったときは雨」70%などがある。
 観天望気は地域的、局所的に一段と強みを発揮する。地域的天気予報では「上海が雨になると九州は翌日雨」は74%の確率であたり、局所予報といえる「阿蘇の煙、西になびけば雨、南になびけば晴れ」は、実に90%の確率で的中している。気象衛星が打ち上げられ、ITを駆使した科学の社会であっても、地域的局所的な天気予報では民間伝承・観天望気は侮ることはできないのである。

■ 天気予報に興味を持った藩主 ■

 江戸時代、このような天気予報の伝承に興味を持った大名がいた。肥前平戸藩六万千七百石の藩主・肥前守松浦熈(1791?1867)である。平戸藩は九州の最北西部にあり、現在の平戸市、佐世保市および北松浦郡一帯と壱岐島などを領有していた。藩政の中心地であった平戸は、九州本土からも潮流が早い平戸瀬戸で隔たれた東シナ海に浮かぶ島である。
 当時の大名の悩みの種の一つに参勤交代があった。大名は、徳川家への忠誠心を表すため、原則として一年おきに供揃を従え江戸に赴かなければならなかった。その一行は、大名行列と呼ばれ、家格・石高に応じた体裁を整え、藩主の乗る駕籠を中心に周りを配下で囲みながらの大行進であった。平戸から江戸までは長い道のりであり、食費・宿泊費などの費用がかさみ、また、通過する藩には土産が必要であり、その出費も馬鹿にならない。
 参勤交代の交通手段として船を利用し海路を行けば、宿代も必要なく、見栄を張りきらびやかな行列を組む必要がないため経済的に安く上がり、通過する藩への挨拶などわずらわしい手続きも不要である。大阪までの行程に海路を選択することは幕府からも認められていたため、平戸藩ではできるだけ船を使っての移動を望んでいた。
 海路を選択する際の問題点は、陸路に比べ、天候によるリスクが高いことである。沖に出て、暴風雨に遭遇した場合は、波に翻弄され、生死に関わるほどの危険な状況におちいる。また、当時の船は風を受け走る帆船であり、航海にとって風力、風向きを予測することは必要不可欠な要素であった。風を読み間違えると途中の行程が狂い、江戸への遅参となると大問題である。
 熈が藩主についていた時期は、長崎にイギリス軍艦が侵入し狼藉をはたらいたフェートン号事件(文化五年・1808)が起きるなど外国船が日本近海に頻繁に出没するようになっていた。江戸時代において唯一の貿易港であった長崎に隣接する平戸藩は、西海における海上警備の強化を幕府から命じられ、海上に船を出し警戒に当たるとともに長崎との往復など船を使う機会が多くなった。
 このような状況の中、熈は、船を安全に航行させるため天気見もしくは日和見と呼ばれる天気予報について深く興味を持つようになった。熈は、藩内に気象に精通した専門家を育成しょうと考え、文化七年(1810)幕府天文方高橋景保に光安仙之助なる藩士を入門させ、十年間、修行をさせている。しかし、幕府天文方は天体観測から正確な暦を作ることに力を注いでおり、地上の天候について学ぶべきことは少なかった。熈は高橋景保の意見も聞き、天文方での気象学の習得に見切りをつけた。


■ 水軍松浦党の天気見 ■

 平戸松浦藩は、かつて倭寇と恐れられた水軍松浦党の流れを受けついでいる。江戸幕府のとった鎖国政策により、海外渡航が可能な大型船は、廃棄を命じられ、建造することも許されなかった。しかし、西国の沿岸警備の役割を持つ平戸藩では常時、十隻余りの関船(艪数四十から八十挺立て)と呼ばれる軍船の流れを汲む船のほか、二十隻を越える関船に次ぐ大きさの小早船(艪数四十挺以下)を保有し、荷方船、曳船などを含めると総計六十隻に上る大船団を形成していた。この船団は、船奉行配下の船手に所属する四人の大船頭により管理されていた。この大船頭を代々務める家の中に天気見に精通している山崎家があり、天気見に関する書物を秘蔵していた。文政二年(1819)熈が、山崎家に伝わる天気見に関する書物を借用し書き写したものが「天気見伝書」で、現在も松浦史料博物館(長崎県平戸市)に保存されている。
 山崎家は、代々、中小姓大船頭を務める家柄である。中小姓は殿様に直接目通りが許される上級武士の末席であり、扶持は数石程度で、役料あわせ二十石程度の収入であった。しかし、藩船の運航を任されている大船頭という役柄、回船問屋などに便宜を与えるサイドビジネスでの収入は多かったようである。
 熈が天気見に強い興味を持った頃、この山崎家は、勇七が文化十年(1813)五十八歳で死去し絶えてしまっていた。しかし、勇七の兄であり、山崎家から分かれ別株を持った山崎土平が生きていて高島(長崎県佐世保市)の遠見番頭を務めていた。そして、土平が天気見に関する書物を持ち、天気見に精通していることがわかった。熈は、山崎土平の死後に、天気見の技術が絶えてしまうことを恐れ、強引に土平から書物を借り出し、後世に伝え残すため写しをとった。
 天気見伝書は、山崎家に伝わる「日和記・天気見様」「日和之書」「天気見様口伝」の重要な部分を書き残したものである。天気見伝書の冒頭に松浦熈が自ら書いた前書きがあるので一部を現代調に直し紹介したい。

「天気見伝書」
「この書は、文政二年山崎土平より借用し写したものである。山崎家は奥書の先祖書のとおり代々大船頭の家であり、この家には、よい天気見に関する書物があると私は聞いていた。山崎勇七が死去した後、この家は絶えてしまった。現在は、杢石エ門という後継者がいるが、この天気見の書物が後世に伝わるかどうかわからない。そこで、土平生存中に天気見の書物を写しておいたならば、後世の人々のためになると考え、土平より強引に借り出し写したが、土平には見るだけだと言ってある。土平は、この書物が他の人に見られることを恐れている。特に船手の人々に漏れ知られることを恐れている。(中略)土平は山崎家から分かれ別の家系に出ているものである。最近までは宗門方書役を勤め、今は高島遠見番頭を勤めている。先祖から特別な口伝は無いと本人は言っているが、土平に伝来されているものと考える。天気見のことは、土平がことのほか上手であると聞いている。重要な内容は三冊に尽きるとはいえ、天気見の口伝、見習いも容易でないと思われ、普通の人はなかなか目にすることができないものである。・・・・・有用な三冊を一冊にして「天気見伝書」と名付ける。
(以下省略) 八月三日 乾齋主人しるす」

 渋る山崎土平をなだめすかし、天気見の書物を借用し書き写させる藩主松浦熈の様子を想像すると愉快な気持ちにさせられる。
 松浦熈は、第十代平戸藩主である。十六歳のとき家督を父である松浦清(静山1760?1841)から譲られ藩主となった。清は、松浦家中興の祖と言われ数々の改革を成し遂げていた。清が藩主であった時代は、松平定信の「寛政の改革」のさなかであり、清自身、定信との親交が深く、積極的に財政再建に取り細み、新田開発や生月島、壱岐島で捕鯨を奨励し藩の財政に寄与させるなどの功績をあげている。また、清は学芸大名としても有名で、藩校「維新館」と図書館「楽歳堂文庫」を創設し儒学、蘭学の学習を推進していた。隠居後に著した「甲子夜話」は日本で最も長大な随筆として知られている。また、清には、三十三人と多くの子供が生まれており、その中の一人、十一女の愛子が公卿中山忠能に嫁いだ。その娘中山慶子は、明治天皇の生母であり、清は、明治天皇の曽祖父ということになる。
 清は、幕閣での出世を望んでいたが、夢かなわず、四十七歳の若さで隠居し家督を三男・熈に譲っている。熈は、幼い頃から父に藩主になるための教育を受け、文武に優れた大名として成長した。熈の悩みは、息子の幕府での出世を望む父と藩政に専念することを望む家臣団の板ばさみになっていたことで、彼も五十歳の時に長男・曜に家督を譲っている。熈は、何よりも故郷の地「平戸」を愛し、当時の大名としては珍しく、隠居後も領地平戸で暮らした。

■「日和記・天気見様」■

 山崎家は、江戸初期に薩摩から移ってきたようである。松浦家は、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際の従軍で多大な犠牲を出したことと、徳川幕府体制下の藩政を確立するために、他藩から多くの有能な人材を登用している。おそらく、その中に山崎家の初代孫右衛門(1599?1673)が入っていたのであろう。孫右衛門以降、山崎家は代々、中小姓大船頭の役を拝命している。土平、勇七兄弟の父・義平太(延尚 1713?1788)は、中小姓よりも格上の役馬廻に昇格している。家督は、弟の勇七が継いでいるところから、おそらく、土平は義平太の正妻の子供ではなかったのであろう。土平は後に高島遠見番頭を勤めていることから健康上の理由で惣領を弟に任せたとは考えにくい。想像だが、義平太はやり手で、妾腹の長男のために武家の株を調達することができたのであろう。家督を継いだ勇七は、目の病を患い大船頭の職を辞し、前述の通り文化十年(1813)五十八歳で死去している。その後、中小姓大船頭山崎家の家督は、養子に迎えた杢石エ門が継承しているようだ。
 山崎家に伝わった天気見の書は縦五寸(約十五センチ)、横二寸(約六センチ)とコンパクトなものであった。
 最初の文章に、
「寛政九丁巳年(1797)正月吉日これを改める。
 平戸、御部屋之坂(現・平戸市松浦史料博物館の近隣)に居住、山崎勇七。もし、この本を見つけたならば、私へお知らせ下さい。」と書かれている。
 このことから、山崎家の当主は、この書を持ち歩いていたことが想像される。船乗りにとって天気見の書は、必携であり、貴重なものであったのだろう。
 これらの天気見の書の中で、一般の人が見てもわかりやすい「日和記・天気見様」から実際の伝承を紹介する。天気見様は、「月」「星」「暈」「風」「雨」「雪」「雲」「霜」「雷」「電」「霞」「虹」「北斗」「惣論」「月例(十二ヶ月の先例を記す)」の項目に分かれそれぞれの事象を掲載している。
 天気見様は、まず、次のような天気予報の基礎知識の解説から始まっている。「雨と晴れとを知るには、明け方の天気と日の出る時を観察すること。
 日の出る時空が赤ければ風、黒ければ雨、青白ければ風雨と知ること。
 又日の出る時、晴れ、やがて雲って晴れない時は風雨となる。
 連日の長雨の後、日が出て早々に晴れる時は、かえって雨が降る。
 朝雲ってしばらくして晴れる時は晴れ。
 また明けの日和は、今晩の日の没する時を見ること。日が没し空が照れば晴れる。雲の中に日が入る時は、夜半の後に雨或いは明日必ず雨が降る。日入りて後、徐々に紅色の様になり、やがて色が替わる時は風、若しくは雨が降る。日が入る暗雲色が赤く、その色がかわらず、徐々に薄くなって消えるのはよい。」

 いくつかの例を抜粋して紹介する。

「月」 月に笠が有る時は風は必ず笠の欠けた方から吹き出す。
「星」 星がいつもより大変近く見えるときは雨が降る
「暈」 太陽の暈(雲が太陽や月をおおった時、まわりに生じる赤み
がかった白色の光の環)は雨、夕日の暈も雨、又朝日に暈
があって、徐々に消える時は晴れ。
「風」 (北)の風はかならず晴れる、故に乾風を日吉という。
「雨」 雨水に泡が生じると晴れにくい。
「雪」 冬に雪が降らないと、来年五穀が実らず、民に災いが多い。
「雲」 魚の鱗のような雲があるときは、雨か風が吹き、また所々に
虎の縞模様のように細かく横に筋がある雲が湧き立つのを
水まさといい、この雲が現れれば必ず一両日中に雨が降る。
「北斗」 黒雲が北斗のロを覆う時は風雨。
「惣論」 蜻蛉(とんぼ)がたちまち乱れて飛ぶと雨。犬が青草を噛むと
晴れる。蛇が木に上がれば洪水となる。

 このような天気予報に関する伝承が、天気見様の中では一七八件、天気見伝書全体では、三百件ほど書き示されているのである。

■ 天気見伝書を検証せよ ■

 松浦熈の天気見に対する興味は尽きない。天気見伝書に記載されている天気見の信憑性を確認してみたくなった。熈は、山崎杢石エ門に、天気見様に書かれているように日の出の時間帯の天気を一日も欠かさず観察し、その記録を残すことを命じたのである。杢石エ門は、毎日丘に登り、先祖が残した天気見の伝承を確認する作業を十年間続けることとなった。
 山崎杢石エ門の屋敷は、御部屋之坂とよばれる地域にあった。現在の松浦史料博物館のある高台の麓で、海に面した一画である。松浦史料博物館は藩主の別邸跡であり、隣接し御部屋様とよばれる殿様の子を産んだ側室の屋敷があった。杢石エ門は、その側室の屋敷のある区画の海沿いに住んでいたようだ。
 博物館と御部屋様の屋敷跡の間に急な石畳の坂がある。この坂は、竹林に囲まれ一キロ近く続き、坂を上りきると平戸の市街と東シナ海から玄界灘にかけて一望できる小高い丘の上にでる。この丘は、「遠見」と呼ばれる場所である。おそらく杢石エ門は、来る日も来る日も、この御部屋之坂を登り遠見の丘に立ち、空模様を見ていたのだろう。
 「日の出東西南北雲色同模様の節日和の次第」という天保三年(1832)に書かれたニ分冊の古文書がある。これは、杢石エ門が文政二年から文政十一年までの期間、一日も欠かさず記録した空模様を「天気見伝書」 の記載に照らし合わせ、天気見を検証した記録である。気の遠くなるような話だ。
 杢石エ門が、天気見を検証し始めた初日の記録は次のとおりである。
「日の出
東西南北ならびに青雲の模様のこと文政二年正月元日、東西南北打ち曇る(さっと雲に覆われる)、東方に青雲があったところ、日中打ち曇り大雪が降る、西風の嵐となった」
 この記述を天気見伝書に当てはめてみると、「天気見様口伝」中に、「日の出前青く雲みゆるは風の気なり」とある。また、「日和之書」中に「日の出る時青く光なきは大風なり」と記載されている。この元日の記述からは、日の出の時刻に青雲が出ており、後嵐(大風)になった、つまり口伝が当たっていたことになる。
 松浦藩の藩船の航海に関しては、雲の色が重要硯されていた。杢石エ門の記録も日の出時の雲の色、動きを重点に書き残され分類されている。藩の記録の中に「雲色を見て難風を知り船出する」と残されている。水軍松浦党の天気予報は「雲」を見ることにあった。
 松浦熈の天気見に関する最後のコメントは「当たるものもあったが、当たらないものもあった。」である。何とも言い難い。この言葉を杢石エ門が知ったら絶句したことであろう。
 確かに、天気見様の中には迷信的なものもあるが、雲の色などの具体的事象に関する記載では、かなりの精度で的中している。
 松浦熈は、航海に関して「心力を尽くして、まことに天命をしるほかなきなり」と書き残している。心力を尽くす、そのひとつが天気見伝書であったのだろう。
 熈は、時代が大きく変遷する幕末を平戸から見届け、明治維新の前年(1867)この世を去った。
 



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