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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 空の高みからの愛の視線  
コラム名: 私日記  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2005/10  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  2005年7月1日
 日本財団を辞めて自由人になった第1日。財団にいた時に
そんなに不自由だったのか、と言われるとそんなことは全く
をかったのだが、財団の職員は準公務員だとは意識してい
た。公務員にしては、勝手なことを言い続けて来たものだ
が、今や身分の規制が解かれて爽やかな風通しのいい気分に
なったのは事実。
植木屋さんが来てくれたので、仕事の手順の打ち合わせ、
それからいつもの淋巴マッサージを受ける。
「昨日地震が来なくてよかったのよ」
とマッサージの先生に言った。
 「どうして?」
「最後に東京に被害が出れば、簡単に『はい、さようなら』
とも言えなくなるじゃない。責任の期限は昨日まででも、職
員の安全も確認しなければならないから」
 今日から、10年前の生活が始まる。2人の秘書は、子育て
を終って2度目の勤めに来てくれているのだから、10年以上
前の私の生活を知っているから何でもない。でも家事を手伝
ってくれているブラジル国籍のイウカさんは、私たちと暮ら
すようになってからまだ私が家で作家としてお客さまと会っ
ている光景をあまり見ていない。
「私は自慢じゃないけど、天下一品お茶をいれるのが下手な
の。死ぬまでにはうまくなりたいと思ってるのよ。でもイウ
カさんはずっとうまいから、私の代わりにおいしいお茶をお
いれして」と改めて頼む。
 午前中から原稿を書き始める。書くという作業の心理的な
流れが、少しも不自然になっていなかったのでほっとした。
パソコンを改良してワープロ機能だけを便利なように残して
もらっている機械には、財団で仕事をしているが故に必要だ
ったかなりの数の固有名詞の省略登録がしてあった。たとえ
ば日本財団という名前を出すには「に」と打って変換すれば
いいようになっていた。それらを机の上を整理するのと同じ
気持ちでまとめて消去した。今日のところ生活上の整理と言
えばそれだけ。
 毎日、ダリアが咲く。それを朝のうちに切って生ける。そ
れだけで家の中が少し落ち着くような錯覚。


 7月2日
 大学時代の友人のゼッカ延子さんとお壊さんと、新橋の美
術倶楽部の骨董市に行った。私の周囲には、ハンドバッグな
どどうでもいいけど、食事の時にはどうしてもきれいなお皿
で食べたいという人が多い。校風なのかと思う。私の校風病
はあまり重くはないが、まだ完治してはいないからこういう
ところへ時々出入りするのである。でも今日は陶器には手を
出さず高さ80センチはありそうな広口のガラス瓶を買っ
た。グラジオラスの花をまとめて切った時など、差す花瓶に
今まで少し不自由していたからだ。
 孫の太一と夕食。


 7月4日
『夕刊フジ』『いきいき』編集部などのインタビュー。夕方、
三浦朱門も誘って頂いて、日本財団の理事さんたちと野田岩
で送別会をして頂く。この方たちは、これから何年も働かれ
るのだ、偉いなあ、というのが実感。


 7月5日
 私が昔土木の勉強をしていた時、「先生」のお一人だった
元間組社長・松本幹生氏のお葬式に生田まで行く。生田まで
どの道で行こうかあれこれ迷ったが、行きは二子玉川乗り換
え、帰りは南武線を利用して、行き帰りに違う道と風景を味
わうことにした。
 松本氏とは長野県の七倉ダムの現場でよくお金いした。工
事中に、七倉ダムとはぼ同じサイズのティートンダムが、ア
メリカで崩壊した。現場全員がその事故原因を勉強していた。


徹底的に誠実に「国づくり」に手を抜かなかった1人の
「土木屋」の見事な生涯があったのだ。
 帰りにおなかが空いて、家に帰り着く前に武蔵小杉駅前の
店で、若者のようにハンバーガーを食べた。

 7月6日
 午前中、もっぱら原稿を書きたいのに、その辺の紙類を片
づけていたら、あっという間に10時になった。午後、河出書
房新社の太田美穂さん来訪。
 夕方4時から日本財団へ。関連財団の社会貢献支援財団の
日本財団賞の選考委員の任務が、まだ今年だけ残っているの
である。でも選考委員会そのものは、かなり全員一致という
感じで、簡単に決まってほっとした。

 7月7日?8日
 三戸浜の家へ行く。とは言っても、どんな状況になってい
るかな、と放置したことのお詫びという感じ。8日は早く帰
って、知人の女性がフリーマーケットに出してくれるという
ので出しておいた雑物を、箱3ばい渡す。日本財団を辞めて
から1週間の間に目に止まったものだけを集めたのである。
 この女性は、骨董屋の娘さんとして育って目も知識もある
のだが、別の職業の人と結婚してしまったので、今は知識を
生かして時々上野の不忍池の周辺に出るフリーマーケットに
店を出す。一方私は、長年思いつきで外国で買ったり、頂い
て愛用したりした品物を、そろそろ片づけにかかっている。
死後残されると、家族が始末に困るからだ。品物が減ると、
家中に酸素が多くなる感じがするのは奇妙なものである。


 7月9日
 午前中に表参道の日本看護協会で講演。
 表参道で地下鉄を降りて、ぶらぶら歩く。地下鉄や東京近
郊の鉄道の乗り方を書いた小冊子や地図を必ずでかける前に
眺める。私は東京生まれだから、乗り方は一応知っているの
だが、最近の電車は思いがけない相互乗り入れをしているの
で、どこへ行く時も事前に地図を眺める。それに時間より早
く行くから、町や人をゆっくり眺めて歩く。こういう生き方
も時間も10年ぶり。心が躍る。大げさに聞こえるだろうが、
人生を取り戻した、という感じがしないでもない。
 明日、シンガポールへ発つので、持って行く荷物を詰め
る。聖心女子学院時代の恩師、野坂健三先生が亡くなられ
て、そのお通夜もお葬式も12日以後なので、出席できな
い。思い出を書いたものを、お届けするようにする。先生を
初めてお見かけした小学生の時、先生は陸軍の軍服を着て軍
刀を吊っておられた。その当時からいつも先生は穏やかな風
貌と口調で、すてきな紳士だった。それにもかかわらず、毎
年皇后陛下のお誕生日のお祝いに、恩師として来ていらっし
やるのにお会いすると、私はよく「私が算数ができないの
は、先生のおかげ」とイヤミを言ってからかうことにしてい
たのだ。

7月10日?27日
 文学の世界における東北地方の「ご領主さま」三好京三氏
が、夫人の京子さんとごいっしょに、シンガポールの私の家
に来られるという。京子さんは初めは足のお具合がよくなか
ったのだが、私も飲んでいる薬を試されたら次第にいい具合
になられたので、安心して同行できることになった。
 ところが成田空港でお待ちしていたら、三好氏の方がパス
ポートを自宅に忘れて来られた。幸いにも今日発つのは私と
家事をしてくれるイウカさんだけなので、京子さんは私の自
宅に泊まられ、三好氏だけがパスポートを取りに岩手まで戻
られて、明日来る三浦朱門が同行することになる。なあに、
何が起きたって人生では大したことはない。
 さてイウカさんは、シンガポールが大変気に入った。窓の
眺めは大木のそよぎに包まれている。外を歩けば、湿度も温
度も生まれ故郷のブラジルとそっくりだという。それに明ら
かに、ここは東京より涼しい。
 翌日全く同じ便で三好夫妻と三浦は予定通り着いた。三好
夫妻は、私から見るとロのきれいな方たちで、一日に一食く
らいしかまともに食べられない。それなのに私たちときた
ら、まるで食べるために生きているみたいに、三食きちんと
作ってまともに食べる。
                 
 昼はこの土地に住んでいる陳勢子さんもイウカさんもいっ
しょに各地の中国料理を食べ歩き、夜は必ず我が家でいい加
減なお惣菜の日本料理を作る。勢子さんが、「ご当地第一の
日本料亭『三浦』」と認めてくれたからである。
 今回は珍しく3つの仕事があった。12日には時事通信社
が主催している「シンガポール・トップセミナー」で講演
し、その後でシンガポール航空の機内誌のインタビューを受
けた。会場が昔の中央郵便局を改築したフラトン・ホテル
で、内部を一度見たいと思っていたので嬉しかった。
 18日には早稲田渋谷シンガポール校で生徒たちに講演を
した。東南アジア唯一の在外高等教育施設で、寄宿生もいる
という。私は若い人たちだけに講演することはめったにない
のだが、外国で暮らすということは、少なくとも現在の日本
では、やや「苦労を知った青年」を作ることになる。日本に
いれば「何が起こつてもすべて学校の責任」で済むが、外国
で生きるということは、そんな甘い気持ちではいられないか
らだ。そのせいか、生徒たちの表情は、ずっと真撃な知識を
求めていをように思う。
 シンガポールばかりにいては、東北の「ご領主さま」ご夫
妻にも申しわけないので、マレーシアに行きましょう、とお
誘いしておいた。そのうちの一つの目的は首都クアラルンプ


ールで16日の夜に行われる盆踊り大会に出席することで、
もう一つは18日にクアラタンジュン沖に88体の遺体と
共に沈んだままになっている旧海軍の伊号第166号潜水艦
の慰霊祭に列席することである。クアラルンプールまで行っ
て、慰霊祭にお誘いするのはどうかと思ったが、「ご領主さ
ま」は、常日頃遺骨の収拾にも手助けをなさっているらしく
喜んで列席します、と言われる。盆踊りの方はご夫妻は「踊
り馴れた」ものだろう。
 この踊りは、毎年日本人会が音頭を取って行っているもの
で、3万人が参加するという。今年は三浦朱門が理事長をし
ている日本民謡協会から民謡民舞の玄人のおじさま・おばさ
またちが、100人近く参加なさるという。
 陳勢子さんがクアラルンプ?ルまで行くならバスがいいと
切符を取ってくれたので、約350キロ、5時間半ほどの
バスの旅をした。
 私が初めてシンガポールに来たのは1956年である。当
時シンガポールはまだ英国領だった。ジョホールへ一歩足を
踏み入れればゲリラの危険地帯だった。ジャングルやゴム園
の続く道では何があろうと車を停めてはならない。道路の前
方に風倒木があるように見えたら、そこがゲリラの待ち伏せ
場所なのだ、とそんな頃から私は習ったのである。
 その後私は、近衛師団のマレー作戦を書くためにこの暑い
半島を、ムアール川の激戦地の跡まで入った。その頃はまだ
至るところにゴム林が続いていた。
 しかし今沿道には油椰子の林が多い。天然ゴムの需要は極
度に減ったのであろう。バスはそれほど贅沢ではないが、ビ
ーフンのお弁当まで出て往復で約7千円である。
 クアラルンプールの3万人の盆踊り大会はもうすっかり地
元の人々に定着したようだった。インド系の人もマレー系の
娘たちも、浴衣を着てやって来る。マレーのイスラム教徒は
浴衣の上にスカーフをかぶっている。中央にしつらえられた
舞台の上で日本人の踊り手が踊るのを見ながら、少なくとも
数千人の人が見よう見まねで「炭坑節」や「東京音頭」を踊

るのである。
 ただ気になることが2つばかりあった。マレーシア政府の
観光大臣と日本大使がおられたからかもしれないが、日本か
らの名人の踊りや三味線が披露される時も貴賓室目当てで、
大衆はほとんど見えないようになっている。それと会場は松
下電器の工場のグラウンドなので、大きな電光掲示板があ
る。その記録を示す時計が止まったままなのである。3万人
に松下のエレクトロニクスはすばらしいものだと宣伝できる
いいチャンスなのに、これではみすみすマイナスの印象を植
えつけることになってしまう。日本人は東南アジアの市場を
なめているのか、と思うことがよくあるが、単に広報の油断
なのか、社長に聞いてみたいものだ。(シンガポールから帰っ
てしばらくしたら、私のエッセイ集が完成した。忘れていたのだが
題は『社長の顔が見たい』というのであった)
 伊号第166号潜水艦の慰霊祭については、私が日本財団
にいた頃、耳にしていた案件である。伊号第166号潜水艦
の沈んでいる場所を割り出して、できることなら引き揚げら
れないかとまで言ってくださったのは笹川陽平会長なのだ
が、沈んだ潜水艦らしきものもたえず海底の砂の上を移動し
ている上、水深もかなり深くとてもすぐに引き揚げられる状
態ではない。日本財団はしかし推定沈没場所の近くに沈船ら
しきものがあるという捜査をするために、400万円近くを出
したと思うのだが、それは戦死者を悼むという社会と国の姿
勢としては当然のことだと私も考えていた。
 内輪話をすれば、今回の洋上慰霊祭が、こんなにも温かい
国境を越えた友情の元に実現したのは、日本財団がマレーシ
ア政府にマラッカ海峡のシーレーンを守るための標識(浮標
や灯台など)をたえず補修しながらパトロールする最新鋭の
設標船「ぺドマン」(羅針盤)号を贈っているからでもある。
お金のことは言いたくないのだが、この船は新潟鉄工所で建
造され、約7億8千万円ほどがかかっている。日本の石油を
運ぶ船の実に80パーセントがマラッカ・シンガポール海峡
を通過するのである。日本としては他国の眼の前の狭い海峡
をたえず日本の大型タンカーが走っていることを自覚しなけ
ればならない。誰かの家の庭先の小道に始終大型ダンプを走
らせているようなものだから、せめて道の安全くらいは協力
させてください、ということだ。
 しかし根本はマレーシアの関係者が海に生きる者同士とし
て、任務に倒れた海の男たちや肉親を失った家族の悲しみを
深く思ってくれた、その人間的な同感と友情があってこそ、
沈没地点での洋上慰霊祭もできたことなのである。
 ご遺族、報道関係者、日本財団関係者、私たちのような参
列を許された者など総勢50人がポートケランの港から「ぺ
ドマン」号で走ること約3時間。沈没場所は北緯2度48
分、東経101度3分である。読経があり、献花やお菓子、お
茶、お酒などが捧げられた。ご遺族はもう、子供、孫の世代
である。姉妹という方もおられたが、かなりのご高齢だか
ら、この暑いのに健康を害されねばいいと思う。
 中のお一人が、父は海底に眠るのでほなく、この明るい空
の高みから自分たちを見ていてくれるのだと思う、と言われ
た時、私の心も晴れた。死者たちは、どのような死に方をし
ようとも、残された愛するものたちが、幸福に未来に向かっ
て歩いている姿を見たいものだ。
 しかしいやな話も聞いた。この船上慰霊祭には南日本、産
経、読売、共同、時事、朝日などの新聞通信社、テレビもT
BSとフジが来ているのだが、マレーシアの日本大使館の関
係者は誰一人出席していない。きちんと知らせているのだ
が、その時大使館で、「肩書上の偉い人」ほ誰が来ますか、
という意味のことを聞かれたのだという。「ご遺族は皆さん


各方面でご活躍ですが、肩書の偉い人は誰もいません」とい
うと、それなら当大使館としては出席する理由がない、とい
う返事だったという。霞が関というところはいったい何を考
えているのか。常軌を逸した判断というべきだろう。マレー
シア政府に感謝を示すためにも、そして戦死者を悼むという
国家としての尊厳のためにも出席して当然だ。
 しかしシンガポールの旅は、毎日おいしいものを食べて楽
しかった。日本に帰る日に、再び三好ご領主さまは、空港で
迷子になり、一時は飛行機が飛ばないかと思ったが、これは
家来の三浦朱門がちゃんとお供をしないからいけないのであ
る。
 7月28日
 お昼、虎ノ門パストラルで、塩川正十郎事務所主催の「時
事問題研究会」でスピーチ。小泉総理は郵政民営化が参議院
で否決されれば解散に持ち込むか、という話題がにぎやかだ
が、永田町の住人からおもしろい話を聞いた。
 公明党という党は、選挙が近くなると創価学会のあちこち
の集会でお習字の練習をやる、というのだ。私も時々習字を
したいと思っているので、そんないい教室があるのか、と興
味津々で聞いていると、そのお習字の文字は公明党からの立
候補者の名前なのだという。練習してきちんと書けるように
なっていれば、投票所にでかけても、まちがいなく胸を張っ
て書ける。嘘かほんとうかわからないが、巷間にそういう噂
はあるのだろう。
 午後は砂防会館で、国土緑化推進機構の「緑の募金事業審
査会」の報告を受ける。申請の内容が総額しかわからないの
で、「煩い奴だなあ」と思われそうだ、と思いながら、「苗木
一本はいくらで予算を立てていらっしゃるんですか?」など
と質問する。日本財団にいた時には、鍬一本いくら、講師の
謝礼一人いくら、と書いてもらって眼を通していたので、そ
の癖が抜けないのである。


 7月29日?31日
 鏡台の掃除。恥ずかしいほど、使いかけの古い化粧品が残
っている。ここにも10年ぶりのゴミが残っていたのか、と全
部きれいに捨てて少しさっぱり。淋巴マッサージ。
「ここのところ、体いいね」
 とマッサージの先生に言われる。こりもむくみも、ストレ
スと運動不足が原因だというが、ストレスがあったなんて自
分では思えない。


 8月1日
 鮫洲の試験場へ自動車の国際免許を取りに行く。月末から
東欧を自動車で3週間ほどの旅行をするのである。朱門が私
が勤めを辞めるのを待って、行きたいと言っていた土地であ
る。私は運転をさぼるつもりなのだが、いざという時にはし
なければならないだろう。
 午後2時から、ボリビアで長い間活躍していらっしやる倉
橋輝信神父が、ボリビア政府からシモン・ボリバル大十字勲
章を受けられるので、お祝いに大使館にでかける。神父が現
場にいてくださるからこそ、私たちもボリビア援助を続けら
れたのだ。調べてみたら私の働いている海外邦人宣教者活動
援助後援会からだけでも、1億600万円余がボリビアの貧し
い人たちのミルクや食料、医薬品、学校建設に送られてい
る。
 中でも私が嬉しいのは、全く快復も好転も期待できない重
度の精神障害者を保護している施設があって、その経営のた
めに海外邦人宣教者活動援助後援会はずっとお金を出してい
ることだ。貧しい社会では、貧しい人を救う余力がない。だ
から障害児は捨て子が多い。その施設で暮らしている子供た
ちの面倒を見ているのも、ボリビア人ではなくコロンビアと
かペルーとかの修道士たちだった。しかし施設はきちんと経
営されているし、私が顔を覚えた20歳くらいの青年も、数
年後に再び様子を見に行った時にもちゃんと生きていてくれ
た。倉橋神父とそのイタリア人の友人の神父たちがきちんと
お金の見張りをしてくださっていたのである。 
 

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