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著者: 笹川 陽平  
記事タイトル: 人類からハンセン病をなくすために  
コラム名: 人権とーく  
出版物名: (財)人権教育啓発推進センター  
出版社名: (財)人権教育啓発推進センター  
発行日: 2005/05  
※この記事は、著者と人権教育啓発推進センターの許諾を得て転載したものです。無断で複製、翻案、送信、頒布するなど人権教育啓発推進センターの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  【対談】ゲスト 笹川陽平 日本財団理事長 WHOハンセン病制圧特別大使
          宮崎繁樹 (財)人権教育啓発推進センター理事長

世界を駆け巡っておられるからだろう、身体にも言葉にも「若さ」が漂う。そのたくましさが、「地球上に千数百万人いたといわれるハンセン病患者さんが、今は45万人にまで減りましたよ」と、とてつもないことをさりげなく言ってのけさせる。ハンセン病問題を、地球レベルの人道上の大テーマとして世界に認めさせた笹川さん、終始、淡々と語ってくれた。

人類からハンセン病をなくすために

◆きっかけとなった韓国での体験
宮崎 最近の読売国際協力賞をはじめ、ロシア友好勲章、ミレニアム・ガンジー賞、チェコ・ハベル大統領記念栄誉賞等々、価値ある活動の証を幾多もお持ちでいらっしゃる。今も1年の大半は海外へ出かけられ、文字通り東奔西走のご活躍とお聞きしています。そのエネルギー源は何なんでしょう?
笹川 いや、ごく自然な日本人だから、と思いますね。日本人がDNAとして持っているもの、人間の心というか気持ちでしょうか。それを自然に行動に出せる環境にいるということを、私は感謝しています。そういうことをやりたいと思ってやれない方も大勢いらっしゃるわけですから。したがって、当然のことをやっているに過ぎないわけです。
宮崎 いえいえ、ご謙そんを。そうしたご活躍の基盤といっていいのでしょうか、その源になっているのが地球上のハンセン病克服という重厚なテーマかと思います。ハンセン病に取り組まれたのは、お父様の原体験からと仄聞しておりますが。
笹川 そうですね。
宮崎 ご自身で具体的な行動を起こされたのが三十数年前、お父様と一緒に韓国へ行かれたのがきっかけだったとか。
笹川 ええ。韓国に父、良一がつくったハンセン病の病院があります。そこへ連れられていったんです。実はその旅は、私にとって父と一緒に行く初めての海外旅行でした。ですから、あちこちの方からせんべつをいただいておりました。全部合わせれば10万円単位であったような気がします。ところが、ホテルへ到着したとたん、父が聞くんです。「お前、いくらお金を持ってきた?」と。金額を言ったら、「そりゃよかった。全部、病院へ寄付しろ。気持ちがいいぞ」って。私にしたら、せんべつをくださった方々へお土産を買わなくちゃ、と思っていたんですが、父の言うとおりにしました。その時に感じたインパクトの強さがその後の私の活動の大きなきっかけの1つになったような気がします。
宮崎 今でこそ日本も、国が「間違っていた」と100年弱にわたるハンセン病への考え、取り組みを全面転換しました。しかし、ついこの間まで社会には、スティグマといってもいいほどのしみこんだ偏見、差別意識がありました。長年の政策がもたらした結果の差別の文化だったと思います。笹川さんも、そういう文化の中で育たれたわけですが、ある種の拒否反応みたいなものは感じられませんでしたか?
笹川 全くありませんでしたね。全然、です。
宮崎 私どもには、それが元で何かをやったということではありませんが、かつて「らい病」と呼ばれていたハンセン病に対しては、やはりマイナスイメージを植えつけられていた時期が、正直言ってありました。笹川さんは、ご自身のお考えももちろんでしょうが、やはり、お父様の影響もあったのでしょうか?
笹川 ええ。なにしろ父は、自分の体に「らい菌」を注射した人間ですから。
宮崎 えっ?
笹川 いや、本当の話です。父もWHOの親善大使をやっていたのですが、ハンセン病のワクチンを開発しようということになったんですね。根本的に撲滅するにはやはり、ワクチンが必要だということで。それで、私も加わったのですが、ずいぶん努力してようやく最初の試作ワクチンができた。その第一号を父は自分の体に打ったんです。もちろん、大丈夫でした。それで父は世界に向かって「らい菌は危険じゃない」と発表したわけです。
宮崎 理屈ではなく、身をもって行動された。
笹川 父はそういう人間でした。弱い立場にいる人々への思いやりは非常に深い人でした。言うだけでなく、行動することを信条にしてきた人でした。

◆DNAに打ち込まれた差別意識
宮崎 ハンセン病が危険な病気ではない、ということが国際的にも確認されたといいますが、認識されたのが1960年代です。でも、日本ではそういう事実を官僚も医師たちも知っていたはずなのに、依然として隔離政策を採り続けた。お父様は、とうの昔にそうした国際状況を科学的にも承知しておられたのでしょうね。
笹川 ただ、ハンセン病問題の深刻さというのは、本当に科学だけでは解決できない面があるんです。例えばインドでは、紀元前6世紀ころの本にハンセン病が出ていたということです。ですから、ハンセン病に対するさまざまな意識は数世紀にわたって、人々の心にあたかもDNAのように打ち込まれてきたわけです。それを考えれば、偏見や差別意識がそうそう簡単になくなるわけではありません。
宮崎 まさに太古の昔から、地球上の大きな人権問題だった、ともいえますね。
笹川 本当に不思議なことです。大昔といったら交通手段も通信網もほとんどないわけです。つまり、国々の情報はそう簡単には相互に伝わらない。それなのに、ハンセン病に関しては、まるで世界中が申し合わせたかのように、排除の論理を働かせてきたことです。島を持つ国は、どこも患者さんを島に隔離してきたわけです。日本でも、長島愛生園しかり、大島青松園しかりです。世界中がこぞって患者さんを島に捨ててきた歴史、これが不思議でなりません。
宮崎 確かにそうですね。
笹川 普通、病気になれば最低限、家族の支えがありますよね。さらに友人知人の支援、社会の声があり、為政者に反映されていくわけです。ですがこのハンセン病だけは、数ある病気の中で罹患したとたん、家族からも捨てられていた。それは、患者さんは社会に存在しないものとして生きていかなくてはならないことを意味します。そういう悲劇の歴史がハンセン病問題の深刻さですね。
宮崎 その悲惨さが、いつの間にか患者さん自身の人間性をも奪ってしまうのでしょうね。
笹川 この間、マダガスカルの奥地に行ったんです。そこで出会ったシスターの話によるとハンセン病患者の人たちが住んでいる村へ薬を持って行くんです。2日も3日も山道を歩いてたどり着くのですが、みんな逃げちゃうんです。他人が来ると逃げる習性がすでについているんですね。仕方がないから薬だけ置いてくるとのことでした。そういう世界が今でもまだあります。
宮崎 コロニーのようなところでしょうか? 世界にはたくさんあるのですか?
笹川 ええ。インドでは400?500とも言われています。中国では、600?700か所です。でも正確な数字はありません。
宮崎 現地の公的機関がつくっているのでしょうか?
笹川 いえいえ、病院から追い出されたあと、回復者が集まって、ごく自然にそういう形で生きているんです。
宮崎 では療養施設ではない。
笹川 もちろんです。まあ、病院としてはすでに治っているわけです。でも、生活環境が変わらない限り、いったん末梢神経がやられてしまって手足に障害を持ってしまった人は、痛みを感じませんから障害の度合いがさらに進行する恐れがあるわけです。ですから、われわれは薬を届けているんです。

◆大幅に減少した患者数
宮崎 世界を駆け回って薬を届けておられる。一言で言えばそうなりますが、膨大な人材、資金が投入されているのだと思います。WHOは決して裕福じゃありませんから、日本財団が援助しておられるのですか?
笹川 もちろん、WHOはWHOとしての立派なお考えがあり、それなりの資金もあります。でも、国連機関も各国政府も担当者は人事異動でどんどん代わってしまいます。30年以上、人が代わらないで続けているのはわれわれだけですね。勢いどうしても、われわれが中心になってしまいます。人件費も含めまして、ほとんどの資金をわれわれが負担しているといってもいいかと思います。
宮崎 特別大使になられてもうどれくらいですか?
笹川 3年です。
宮崎 今年のハンセン病特別大使としての目標は、残っている9か国のハンセン病を撲滅することだそうですね。
笹川 ええ、インド、ネパール、ブラジル、アンゴラ、モザンビーク、マダガスカル、タンザニア、中央アフリカ、コンゴ民主共和国の9か国です。
宮崎 前にお出しになった著書を拝見すると、主に笹川さんが活動してこられた20年間で、世界のハンセン病の患者さんは50万人に減ったそうですね。ものすごい減少率ですね。
笹川 今はもっと減っています。80年代だけで1400万人を解放したといってもいいかと思います。残っているのは世界で45万人でしょうか、概算で。
宮崎 やはり、全く治療が行われていなかった時代と比べたら、薬の提供、病への考え方の啓発など文字通り、制圧のためにさまざまなことを根気よく続けてこられた。その成果が数字にも表れているのでしょうね。
笹川 確かに言葉で言えば、そういうことになりますが、ここへ来るまでの多くの関係する皆さん方のご苦労は大変だったと思います。たとえば途上国では、他の問題をいっぱい抱えていますから、極端な話、「2万や3万人のためになぜ、そんなに一生懸命やらなくちゃいけないのか」という声も出るほどですから。
宮崎 そういう場面は結構多いのでしょうね。
笹川 ええ。私はこう言います。「この病気は、差別の原点といってもいいもの。いわば人権の問題で、市民も行政もメディアも、もっと敏感にならなければいけないはず」と。人権というアプローチをすると、考え方が相当変わりますね。とくにメディアは。

◆国連人権委員会で報告し大反響
宮崎 人権の視点といえば、国連人権委員会で特別報告会をおやりになったんですね。ハンセン病に関して初めて国連の場で実態が明らかにされた画期的な報告会とお聞きしています。あれは国連の要請だったのですか?
笹川 いや、私のほうからの、言葉は悪いですが「押し売り」でした。
宮崎 それはそれは。
笹川 あの時は、当事の人権高等弁務官がイラクで爆死されたという不幸な出来事があった直後でした。臨時に代理をされていたラムチャランさんという方にお会いしてお願いしたんです。非常に鋭い方で私の話をお聞きになってこう言われるんです。「人権委員会ができて半世紀たつが、ハンセン病問題が地球上でそんなに深刻であるという話は一度も話題になったことがない。ぜひ委員会でアピールしていただきたい」と。最後はまあ、要請を受けた形ですね。
宮崎 それもこれも笹川さんの実績と熱意の表れだったのでしょうね。反響はいかがでした?
笹川 各国のハンセン病回復者にも来てもらったり、写真展も見てもらいました。その時はそれほど反応がありませんでしたが、去年は大きな反響がありました。
宮崎 昨年もおやりになったんですか。
笹川 ええ。でもご存じかと思いますが、人権委員会の総会では世界の何百というNGOが発言するわけです。ですから、制限時間は3分間。時間が来たら有無を言わさずぱっと切られちゃうんですね。3分間アピールできるといっても、3分は3分でしかない。ですので私は、その小委員会の各国代表の方々に呼びかけたんです。昼食会をやって詳しく説明もしたいと。そうしたらなんと26人の委員のうち24人の方々が参加してくれたんです。
宮崎 それはすごい。小委員会のメンバーたちも初めて聞く話だったんでしょうね。
笹川 ええ。異口同音に「そんな話、聞いたことがない」って。でも、ハンセン病歴のある人は、世界でざっと2000万人に上るわけです。しかも、回復しても社会的差別が根強くて職にも就けない。結婚できない、子どもたちは学校に行けないなど、さまざまな人権上の問題がおきているわけです。患者、回復者の家族というくくり方をすれば、家族が5人として1億人が差別に苦しんでいることになります。親せきまで入れたら数億人でしょう。それほどすさまじい人権上の問題が、今まで、この人権委員会の場で議論すらされてこなかったということ自体、大きな問題だったのではないかと思っています。
宮崎 おっしゃるとおりですね。でもようやく、実現した、笹川さんがおやりになった。今度は反響がすごかったのでしょう?
笹川 ええ、それはもう。英字紙も大きく取り上げてくれました。

◆若い世代への啓発が重要
宮崎 ハンセン病問題を人類の人権問題という視点で、地球上の問題としてアピールされ、ようやく、国連でも認識されるようになった。そのこと自体、ものすごいことですが、回復者の方々が国連の場で話をされた、ということも忘れてならないことでしょうね。
笹川 ええ。皆さんがやっとカミングアウトされたのですから。でも世界では、多くの人が病気を隠しています。ある国では首相にまでなった人もいますが、隠しています。そうした人々を、私どもは今、一生懸命勇気づけ、国際舞台で発言してもらおうと機会を作っています。「あなた方が主役ですよ。これからの時代は、あなた方が苦難を乗り越えて今の自分があるというヒューマンストーリーを発表することが、世界の人々からハンセン病への理解と共感を得る最大の方法なんですよ」と訴えています。
宮崎 すばらしいですね。本当にハンセン病問題に関しては、病を制圧するということと同時に、いかに社会の意識を啓発するかということが大きなテーマですものね。
笹川 ハンセン病制圧という百里の道は九十九里まできました。しかし、ハンセン病問題はある意味で、人間社会の負の遺産です。だとするなら、学校教育などできちんと教える、教科書にも取り上げるということをやってもらいたいと思っています。世界でハンセン病を教科書に入れているのが、私の知る限り、ベトナムとネパールです。ただ、ネパールの教科書は不十分で、ベトナムが唯一といってもいいかもしれません。小学校の教科書にきちんと記載されています。治る病気である、と。
宮崎 ひるがえって日本では一昨年、熊本県のホテルで、回復者の方々の宿泊を拒否するという事件が起き、二重三重の悲劇をもたらしました。
笹川 本当に残念なことでした。人間にとって、頭で理解することと、行動で理解することは全く別個のものなのですね。長い間、頭の中に、DNAとして入り込んでしまっている人々に対する啓発、教育もさることながら、やはり私は、若い人たちにきちんと理解してもらう訓練というか啓発が非常に大事だと思いますし、それが私たちに課せられた使命ではないかと考えています。
宮崎 今日は、ハンセン病問題について地球規模で私どもも知らなかった多くのことをお話しいただきました。過密なスケジュールで飛び回っていらっしゃるとのこと、どうかご自愛のほどを祈ります。本日は、本当にありがとうございました。
 



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