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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: バウムクーヘンはいかにして作られたか  
コラム名: 私日記  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2005/07  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   2005年4月29日?5月9日
 4月28日に、障害者の巡礼のグループから一足遅れて帰国。そのまま連休に入ったので、三戸浜の家に行く。何という絢爛たる春だろう、と思う。プロテアも、ブラシの木も花盛り。ソラマメの初物が早くも採れる。皮ごと食べられる。
 私と同じ日にミラノから到着したモンティローリ・富代さんが、庭にサラダの種を蒔いてくれた。
 マダガスカルのシスター・牧野幸江、シスター・平間理子、コンゴ民主共和国のシスター・中村寛子が、お揃いで1晩泊まりに来てくださる。お鮨屋へ行き、安いマーケットでご帰国後に上がるふりかけなどを買う。
 ひさしぶりに車を運転。日本財団に勤めてから、運転を止めていたが、ほんとうはもう運転歴40年。ナナハンも乗れる免許である。ひさしぶりで怖いかと思ったが、そんなこともない。徐々に日本財団を辞めて作家生活に復帰する準備を自然に整えている。9日夜は義姉の小杉瑪里と友人の森美子さんが東京の家に夕食を食べに来てくださった。


 5月10日
 日本財団へ出勤。日本財団から巡礼の力仕事をしに来てくれたグループは、「今年ばかりはほんとうに疲れ切って帰って来ました」と尾形武寿理事にも言われて、可哀相だったが、でも苦労をするとその分印象も強いものだ。連休で少し疲れが取れたのか、揃って爽やかな顔で挨拶に来てくれた。
 執行理事会などあって午後から、新潮社、朝日新聞社、文藝春秋などの親しい編集者たちが来訪。財団を辞めた後の仕事の話もそろそろという感じ。
 夜、久しぶりでぺルーのフジモリ元大統領、お妹さんとそのご主人の有富弘夫妻、笹川陽平理事長、秘書課の星野妙子さん、三浦朱門と、てんぷら屋で会食。来年のぺルーの大統領選に出られることについて、おおまかなタイム・スケジュールの話が出る。日本に亡命されてから5年だが、お元気そのもの。人生で何が幸福かと言うと、お風呂上がりに縞のパジャマを着て、ベッドに寝ころがって本を読むことだ、という夫と、何という違いだろう。


 5月11日?13日
 自宅に光文社、新潮社など見える。
 13日夜には、フィリピンの聖心会のシスター・有田由佳が来られて、大れい子さんともども夕食。


 5月14日
 日本財団が助成している各団体やマスコミから、平和島の競艇を体験する会に70人ほどが参加して下さることになった。私が在任中にできる最後の感謝の催しなのだが、実はそのことをロに出せない。国交省は既に会長交代人事のすべてを承知しているのだが、総理官邸に上げてその承認を取ってからしかロにしてはいけない、と言われているからである。別に国民の税金を使わせて頂いているわけではないから、そんなことを言われることはないのに、と思うが、どうでもいいことは、お相手の望むように、というのが、最近の私の心境である。
 今日の催しに合わせて、介護車輛を作ってくれている自動車メーカー各社が、車椅子のまま乗り込めるタイプ、訪問入浴車など自社の製品を一斉に競艇場の前庭に並べて見せてくれている。日本財団は全国の支援団体からの要請を受けて、こうした介護車輛をこれまで約1万3000台買っている。
 競艇のお客さまの中にも、体の不自由な家族のいる方が多いのだろう、けっこう熱心に見ている人がいる。
 メーカーの中に観念だけで見端のいい設備をしているものがある。使ってみたら、果たしてこの手すりがこんな位置にあって利用できるのかというと、そうでなさそうに見えるものもある。どうして自社の製品といえども疑いの精神を持って自分で使ってみないのだろう。
 私の知人の中に地方から来ている人がいて、これで航空運賃が出た、これからホテル代を儲ける、と熱心に舟券を買っている。私と違って熱意があるからだろうか、着実に儲けている。やはり情熱というものは大事なのだろう。


 5月15日、16日
 自宅で休み。淋巴マッサージ。

 5月17日
 日本財団へ出勤。執行理事会。財団のホームぺージの内容について打ち合わせ。会長辞任後も、いろいろなことで財団に関わるようにと言ってくださるが、私はそのような切れの悪い関係は持たない気持ちである。私がいてよかったこともあるかもしれないが、私がいなくなることでよくなることもあるはずだから。
 午後1時からホテル・ニューオータニで、清水栄一、池口恵観両氏と、『致知』誌のための座談会。池口氏のお話を聞いていて、私は肉体的な行というものを今までかつてしたことがないことをしみじみ思った。でもその引け目が、私を思い上がらせないでいる面がある。
 4時半、日赤社長の近衛忠輝氏が新任の挨拶においでくださった。お帰りの時、三枝成彰さん率いる六本木男性合唱団倶楽部で歌っておられるとおっしゃった。毎年暮れには三枝レクイエムを年中行事のようにして歌っている合唱団である。


 5月18日?20日
 再び三戸浜で庭のことを考える。
 トビの世界にゲームがあることがよくわかる。かわるがわる飛んで来ては庭のカナリー椰子の葉先に数秒間ぶらさがるのである。今日は椰子の葉だが、別の日にはプロテアの赤い花をむしれば得点ということにされたらたまらない。彼らの嫌がるテグスを庭に張ることを考える。


 5月21日
 笹川陽平理事長と尾形武寿理事が、お休みなのにわざわざ東京の自宅まで来てくださる。会長の任期が終った後、相談役だか、顧問だか、肩書はなんでもいいけれど、残るようにというおすすめが来訪の目的。心にかけて頂くということは、ほんとうにありがたいことだ。
 でも一度終った職場にいつまでもいることは、私らしくないことだ、と皆が思うだろう。私は6月末までは契約の精神できっちりと働こう。しかしその後は、私の本来の人生に戻るべきなのだ。小説というものは厳しくて嫉妬深い。他の仕事と二股掛けると、いい作品ができなくなる。


 5月22日
 朝7時半に家を出て、フジテレビの「報道2001」(生番租)に出演。テレビなどに出るのは、ほんとうにひさしぶり。
 作家は世間に顔を覚えられてはいけない。「隠れて悪いことができるように自由を確保しておくのさ」と若い時、先輩に言われたことが今でも脳味噌のどこかにこびりついているからだ。東京財団の会長の日下公人氏とごいっしょだったので、気楽にいつもと同じ調子でいられた。


 5月23日
 家で書いたり、片づけたり、お惣菜を作ったり。


 5月24日
 財団へ出社。講談社、光文社、徳間書店、それぞれの担当者見える。
 今日は午後執行理事会。森山真弓、広中和歌子、犬塚直史の3人の国会の先生方、申請のためにご来訪。トルコ・イスタンブール工科大学海事学部長オスマン・サーグ氏と神戸大学国際海事教育センター教授の古荘雅生氏見える。
 会長人事の交代を正式に官邸が認めたという国交省からの通知が再び遅れているので、明日の記者会見の通知ができない。「靖国問題もあるし、忙しくてそれどころじゃないんですよ。午後4時まで待ったらきっと来ますよ」と言っていたら、午後3時少し前に連絡があったという。すぐに明日の会長交代人事をも含めた記者会見の内容の通知を流す。


 5月25日
 午前11時過ぎから評議員会と理事会を続けて開き、私の辞任後、新会長に笹川陽平氏、新理事長に尾形武寿氏を互選し、評議員会後に国土交通大臣に対して新会長、新理事長の認可申請書を提出した。これですべて穏やかに予定通り、少しのごたごたもなく、手続き完了。
 午後4時すぎに、記者会見。
 日本財団が所有していたホテル海洋を今回売却したこと。新潟県の被災地の山古志村で伝統の「牛の角突き」行事を支援したことなどと共に、新会長と新理事長の人事を発表。私に対して記者から両氏の印象を求める質問があったので、笹川陽平氏に対しては「1番財団のことをよく知っていて、1番働く人」、尾形武寿氏については「必要とされる時と場所に必ず穏やかな表情でいる人」と言った。理事会の席で、理事の1人から尾形氏は財団の「ホープ」という表現もあった。ホープにしては少し若くないなあ、と思ったが、本当に傑出した人材である。
 私に対しては「やめた後、何をしますか」という質問が再び出て、私はまたびっくり。私はそもそも作家なのだから、改めて本来の道へ戻ります、というだけ。でも10年間こんなことをしていると、私が作家であることを知らない若い新聞記者もいるんだろうなあ。しかしつい数カ月前まで『毎日新聞』の朝刊に小説の連載をしていたんだけど、などと心の中でぶつぶつ言っていた。しかしとにかく肩の荷を下ろしたような気分になりかけていることは事実。

 5月26日
 家の中の片づけをして、夕方から、同級生の飯倉誠子、森川洋子さんとオペラシティの音楽会に。3人でウナギを食べてから、ワーグナーを聴く。『ローエングリン』より「第一幕前奏曲」、楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛と死」。どちらも長編を書く前にさんざん聴いた曲なのに、まだ聞きたい。そのためなら、オペラシティまで出かけて行く。


 5月27日
 夜、上坂冬子さんと中曽根康弘元総理のお誕生祝いに行く。元総理は今朝横須賀の軍艦三笠の上で行なわれた記念式典にも出ておられたのに、立ったまま、20分間のご挨拶を堂々となさった。三笠での式典のことは、朱門も出席していたので、そのことが分かったのである。朱門は「ポクは色が白いから三笠にいただけで日焼けして、おでこがひりひりしている」と言う。上坂さんは「着物を着て行くからあなたも着なさい。あなたは自分で着られるんだから、お金も掛からなくていいじゃないの」と言うが、お金が掛からなくても面倒なことは面倒、と私はアイソが悪い。二人で夕食を食べることにしたら急に意見が一致して、伸良くなった。


 5月28日
 柏市の麗澤大学で行なわれる文化講演会へ。緑の深いキャンパスに感動する。


 5月29日
 呉の文化ホールで呉水交会主催の日本海海戦100周年記念講演会へ。朝8時、新横浜発の新幹線に佐久間一元統幕議長とごいっしょ。もっとも私は日本海海戦について喋れるような勉強をしてないので(というよりこういう関係者はその方面の専門家ばかりなので)私はさんざん辞退したのだが、別の角度から、世界の中の日本の立場を少しでも複眼的に見るということでよろしい、ということになり、呉行きになった。
 講演の後で、海上自衛隊の呉音楽隊の演奏があった。「戦友」などひさしぶりに聴いた。これはそもそもは軍歌ではなく村の青年の一代記だそうだが、私たちはその途中の部分しか知らないわけだ。友が傷ついた時、「軍律厳しき中なれど、これが見捨てておかれようか。しっかりせよと抱き起こし」というのは、プロの軍人としては決してしてはならないことだという。
 その後で呉水交会の主催の祝賀会に出席。食事中あまりたくさんの方々が声をかけてくださるので、私が食事をし損ねるかと佐久間さんが心配されて、お1人の方が憎まれ役の人ばらいを買って出てくださった。「はいはい、名刺はこちらで預ります。今ソノさんは食事中ですから、話は後で」という具合である。この方は元護衛艦の艦長でいらしたと伺って楽しくなった。まさに「護衛艦」という感じの方だったのである。


 5月30日
 海上保安大学校へ。日本財団で寄贈したシミュレーション・センターを佐久間さんと昨夜のご同僚の方々にも見て頂く。マスコミも一社、財団からも数人が参加。夕方5時半頃、新横浜着の新幹線で帰着。


 5月31日
 財団へ出勤。執行理事会。来客。賞与評価。
 午後から市ヶ谷で日本学生支援機構・政策計画会議に出席。夜は産経新聞社の方々とお会いして楽しい雑談。


 6月1日
 休日。髪の手入れ、片づけ、おかず作り、庭の雑草とり、淋巴マッサージ。何となくもう財団を辞めた時のような生活態度に変わりつつある。


 6月2日
 全国横断『正論講演会』のためにまた大阪へ。列車の中で、29日の夜、財団が私のために送別会をしてくださるというので、その時出席者に初刷りを差し上げる予定で『日本財団9年半の日々』(徳間書店)のゲラを読み直す。
 講演会が終ってから、近くのホテルの中華料理店で、聖心女子大学同窓生5人と会食。その後、新幹線で名古屋まで出て泊まる。

 6月3日
 7時5分名古屋発、8時23分上松着。木曾谷国有林で行なわれる第62回神宮式年遷宮の御杣始祭(みそまはじめさい)に列席するためである。20年ごとのご遷宮は、『延喜式』に基づくもので、平成25年に行なわれるものは62回目だという。紀元690年持統天皇の時に斎行されたのが第1回目。神官では、ご遷宮の造営用の木を200年先の分まで計算して育てている。つまりご用材は常にそして永遠に供給できるように考えられている。そういうことが世界的にみてどれほどのすばらしいことか、私はそれに感動するのである。
 日本財団は、私が会長のうちに、ご遷宮のための応分の寄付をすることを発表した。私はカトリックなのだが、これは宗教と関係ない。日本人の精神の基礎と繋がる行事だからだ。
 御杣始祭は最初の2本の檜、御樋代木を切り出し、それを約1週間かけて伊勢まで運ぶ奉搬に続く儀式である。御樋代木は御神体をお納めする器を作るための御祝木である。2本は水の近くに生えており、切り倒した時梢の先が×の形になるようにする。
 天気予報では雨だったのに、素晴らしい快晴になった。いつでも御杣始祭の日は晴れるのだ、と神官の関係者は自信を持っていたという。
 深い木立の中にしつらえられた場所で、西洋なら音曲が必ずつくであろうが、すべては完全な静寂、鳥の囀り、蝉の声の中で行なわれた。祝詞は全く聞こえない。生きた鶏や海の幸、山の幸が供えられ、またしまう。この神饌が供えられると、どこからともなくハエが飛んで来る。昔もそうだったろう。
 祭儀がすべて終った後で、伐採は斧を使って行なわれる。直径1メートルほどの木を切るのに、どれくらいかかるのかわからなかったが、1時間ほどできれいに所定の位置に倒された。斧を使わせると、馴れた杣頭の腰の座り方が、若い人々と違って端正に際立っている。私の両脇は、国有林の関係者で、つまり私は専門家のお講義つきで一切を見せて頂けたわけである。退屈するどころではない。
 切り株の下に散った木屑を拾って来た人が私にまだしっとりと冷たい一片をくれた。いい香りがして、しかし見た目と手触りは、まさにお菓子の「バウムクーヘン」とそっくりだった! 最初にあのお菓子を作ったドイツ人は、間違いなく樵の家庭だったはずだ。
 直会の席にも出席して、夕方の列車で帰京。


 6月4日、5日
 4日に豪雨の中を東京ドームで野球を観戦した他は、お休み。少し風邪気味。


 6月6日
 今日は海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)の記念日。これから33年目の活動に入る。長崎では坂谷豊光神父がこの活動に関わってくださったすべての人たちと物故者のためにミサを捧げてくださっているはずである。
 夕方、廃校になった旧淀橋第三小学校の古い校舎を改築して作った庶民の芸能活動の基地「芸能花伝舎」の「芸事はじめ」の式にお祝いを述べに出席。日本財団がそのリニューアルのために3480万円を出したのである。お祝いの席にもっとゆっくりいたかったのだが、何しろ風邪で仕事が遅れているので、式典が終ったところで帰らせてもらうことにした。新宿という土地にこうした場所ができることは、古い町に灯がともるように感じられる。


 6月7日
 日本財団に出勤。執行理事会。賞与支給。イースト・プレス社来訪。『婦人画報』のインタビュー。午後、三枝成彰氏来訪。六本木男性合唱団倶楽部のキューバ遠征のご報告。
 午後4時、皇后陛下に一時帰国中の5人の海外で働く神父と修道女の方々をご紹介するために皇居に向う。皇后さまがお会いになる方々は、南アの根本昭雄神父(フランシスコ会)、ボリビアの倉橋輝信神父(サレジオ会)、マダガスカルのシスター・牧野幸江とシスター・平間理子、コンゴ民主共和国のシスター・中村寛子(共にマリアの宣教者フランシスコ会)の5人。私はご紹介役である。
 皇居のお堀の緑と原生林の面影を宿した光景が、荒れたアフリカや南米の土地を見馴れた方々の心をまず感動でいっぱいにした。
 お住まいの御所の中の静かな客間で、皇后さまが一人一人からその国の現状と活動の内容をお聞きくださったが、皆が驚いたのは、皇后さまがその国の政治経済の実情を実によくご存じなことだった。昔ご訪問になったコンゴのことも、私だったら地名さえ忘れそうだが、すべてをきちんと覚えていらっしやる。小さなことも片隅のことも大切に慈しむ方でなければ、ああいう姿勢にはならない、とシスターたちは言う。
 今日は神父さまとシスター方にとって濃密な時間が続く日である。夜は財団で、貧困視察の旅行でこれら四国を訪れた人々が、新聞社や官庁からも集まり、シスター方から近況を聴いた。「アーメン・ハレルヤ」の聖歌を合唱しシスター・牧野はアフリカ流に踊り、再会を喜び合った。 (以下次号)
 



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