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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: だんまり  
コラム名: 私日記 第64回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2005/04  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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   2005年1月18日?20日
 日本財団が姉妹財団の日本科学協会のお世話で、平成11年度から中国の17の大学に日本語の図書を送り続けて、合計が120万冊を超した。日本国内の個人と出版社が本を寄付してくださったおかげなのだが、ここ10年以内に出版された本という一応の限定があるので、先方は新しい日本の姿を満遍なく読めるという利点があったはずである。主に自然科学系の出版物なのだが、相手国を知る上では文科系の出版物もお役に立っていることだろう。
 吉林大学、延辺大学、寧波大学などが非常に受け入れに熱心で、優秀な日本語学の学生が育っている。そういう大学の図書館から責任者が揃って来日され、今日はその方たちにお会いしたが、今回はそこに第1回日本知識クイズというコンテストの優勝者5人もご褒美に来日した。どんな問題が出たのか知らないが、恐らく私だったらあっさりと落伍していることだろう。中でも異彩を放っているのが黒龍江大学東方言語学院というところで、クイズの優勝者5人のうち4人までがこの学院の学生で、後の1人が哈爾浜医科大学の臨床医学学部の学生である。
 18日は1日中こういう方たちとお眼にかかったり、夕方の歓迎会に出て日本語学生たちと記念写真に収まったりした。その間に予算の説明を聞く。
 20日は、私が日本財団で働いた(無事に勤め終ればの話だが)9年半を振り返った本を出すことになっているので、そのために徳間書店の柳さんと木村裕美さんが来訪。NHKサービス・センターという製作会社が作るテープ収録の打ち合わせも。

 1月21日
 赤坂のオフィス街の昼休みの時間を利用して、日本財団1階のバウルームで、海上保安庁からスマトラヘ救援活動に行かれた若林邦芳氏と、気象庁の新井伸夫氏の報告会が行なわれた。こういう時宜に適した講演会を急遽開くために、日本財団の1階広間を利用できるのは嬉しいことである。ぎりぎりまで講義を聞き、7階の部屋で残務をこなしてから、成田空港へ行ってシンガポール行きの夕方の全日空に乗った。

 1月22日?31日
 シンガポールは2月9日に迎える中国の正月の準備で町中真っ赤っか。服も赤い。縁起もののおめでたい言葉を書いた飾りの紙も真っ赤。ホンバオというお年玉を入れる小さな封筒も必ず紅。マンションの守衛さんたちにもこの赤い袋に少額の紙幣を入れて渡す。縁起のいい言葉は私たち日本人は発音はできなくても意味はわかるので、楽しんで読んでいるが、中に「金玉満堂」というのがある。お金や宝石が溜まりますように、ということだろうが、朱門はそれをじっと見ながら「遠藤周作が生きてたらおもしろいことを言うだろうなあ」と言う。今は自分1人で遠藤風を演じなければならないので楽しくないらしい。
 とにかくここへ来れば、電話もなく静かな毎日だから本が読める。おかしな取り合わせだが、ヘロドトスの『歴史』、アントニー・ビーヴァーの『ベルリン陥落1945』、当地の本屋さんで買ったジーン・サッソンという人のアラブ女性の生活の内幕を書いた『イラクの娘マヤダ』と『王女』の2冊を1日中、ずっと読んでいられる。アラブのお話は、書かれていることが事実かどうかは二の次で、風俗や習慣など私の知らないことがたくさんあっておもしろいのである。
 書く方では、思いついて、4百字掌篇小説を書き出した。まだ3話だけだが、生きている限りこういう短篇は毎日、数篇はできるような気がする。
 運動不足を解消するのに大切だと思って食料品の買い物にはできるだけ行くようにしたが、中国系のデパートに行って、私たちが「ストッキング」と呼んでいる「竹笙」(竹の中に生える一種のキノコで水に戻すとストッキングのような編み目になっている)の乾物を探したが、どこにもない。これは鍋物などに入れるとおいしくてやめられなくなるのだが、中国正月の前にはこうした食材も売り切れてしまうのかもしれない。
 その合間には、いつもの通り、眼の前のタンブスの大木が風に揺らいでいる姿を見ている。そして始終自分の死までの日を数える。別に最近そういう癖になったのでもない。私は子供の時からずっとそうして毎日を暮らしているのである。
 1月31日の夜行便で帰国。

 2月1日
 朝、7時半、成田着。そのまま日本財団へ出勤。朱門もフジテレビで行なわれる会合に出る。私は執行理事会とホームページの連絡会の後、中東調査会、日本大ダム会議の方々が、原稿や講演の打ち合わせのために来てくださったのにお会いした。
 夕方家に帰り着いて、ほっとして淋巴マッサージ。

 2月2日
 NHKサービス・センターの「命を見つめて」の音声収録。スタジオは上北沢の住宅地で、なかなか見つからず、かなり迷った。
 6時半、劇団四季の『エビータ』を見る。
 アルゼンチンの人は、ペロン夫妻に関してはさだめし不愉快な思いを持っているのだろうが、私はこのミュージカルの曲が好きなので映画も何回か見てしまった。ただ今回の舞台は、ミス・キャストではなかろうか。
 こういうことは誰も言いにくいので黙っているだろうが、肝心のエビータが小柄すぎるのだ。声もすばらしい美しい方なのだが、小柄なエビータでは、「ああ、夢のようにきれいな服を着ていた。ああ、成り上がり者にしても実に豪華で他の人を威圧するカリスマを持っていた」という役柄の印象を与えて、その悪や善を観客に納得させられないのである。
 現実のペロン大統領夫人エヴァが、実際にどれだけの身長の女性だったのか私は知らないし、それは作り物としての戯曲の中では重大な要素ではないだろう。しかし伝説のエビータは、豪華で驕慢でぜいたくな衣装の似合う女性でなければならない。そこで1つの公式が出て来る。西洋の正式の服をみごとに着こなすには、誰であろうと、或る程度背が高いことが必要条件だ。きらびやかな衣服の生地が、一定の長さと面積を持って人の眼に触れることが必要なのである。小柄な人がロングドレスを着ると、童話の中のお姫さまになってしまう。私の言いたいのは、大柄な人は大柄なりに、小柄な人は小柄な人なりに、独特の持ち味があり、役どころがあるはずだということだ。
 チェ役の芝清道さんが圧倒的なうまさを見せている。何より自然である。達者ということは自然に見えるということに帰結するのだろう、と思わせられた。

 2月3日、4日
 蔵王に樹氷を見に行く。この歳まで見たことがなかったので、予定を組んだのだが、ついでに、日本財団の仕事も1つすることにした。
 白石蔵王駅まで新幹線。樹氷の見える山の上まで上がるのは明日なのだが、その前に心身障害者通所授産施設「社会福祉法人はらから福祉会」の経営する「蔵王すずしろ」の様子を見に立ち寄ることにした。この施設には日本財団が車椅子対応車、送迎支援車、施設整備などにお金を出している。
 主な仕事はお豆腐の製造である。集まって来る人たちは年齢もまちまちだが、人懐っこい表情で、挨拶も明るいし、すぐ先生のところに寄って来て肩を揉んだりする。こんなかわいい生徒は、今どきなかなかいないだろう。できたてのお豆腐は、何もつけなくても自然の甘さがすばらしいことを知った。お豆腐は日に1,000丁から2,000丁作って、近所の郷土料理の店などにも下ろしているという。
 樹氷はただ氷が木の枝に凍りつくのではない。0℃以下でも凍らない過冷却水滴が、この時期特有の北西からの強風によってアオモリトドマツなどの枝で結氷したものが、樹氷になるのだという。ガイドさんは、「エビの尻尾のような形の氷がつく」と説明してくれた。
 バスを雪上車に乗り換える時、ブリザードが吹いて、私はまともに歩けない。スキーヤーもいるのでスキーをはいたオートバイが先導し、幅の広いカタピラーをはいた雪上車は、たえず警笛を鳴らしながらゲレンデを這い上る。今日は吹雪になっている上に視界もよくないので、「残念ですねえ」という声がしきりにあたりで聞こえるが、私は「これがこの土地の普通の天候」というものに会えたことが最高だと感じている。
 帰りにお豆腐料理を出してくれる食事の場所に行ったが、そこのお豆腐は「はらから」が作っているのである。
 東京駅に帰着してから、まっすぐそのまま三戸浜に行った。

 2月5日、6日、7日
 この寒いのに、庭には既に草が生え始めている。長い間農作業から遠ざかっていたので、手袋が破れているのには参ったが、やはり少し草取りをする。爪は真っ黒。つくづく人と会う職業でなくてよかった、と「じっと手を見る」。
 6日、お客さまのためにこんにゃくのぴり辛煎り(何というのが正式な名前なのか知らない)と、鶏そぼろ入りのおからも作る。母が生きていたら、こんなもの、お客さまに差し上げるものではない、と言うだろうけれど、最近は好きな方は召し上がる。誰も気持ちが自由になったのだ。蕗の薹は去年蕗の古葉を刈り過ぎたらしく薹の出が悪い。
 6日の夜10時すぎ、ご近所の海際にお住いの北方謙三氏より電話。海風こそ聞えなかったが、海鳴りの似合うお声であった。

 2月8日
 日本財団へ出勤。個人情報保護法というのができるので、その仕組みを職員全員が学ぶことになった。そのための集まりで短い挨拶。実はこの中で私が1番わかっていないような気がするので、その通り不安をロにして、代わりに皆さんがよく勉強してください、と挨拶した。
 私は根本が理解できていないのだ。個人情報を守れ、というだけなら、私はよくわかる。作家は取材先を明かさないものだし、モデルがわかるような書き方は決してしないことになっている。しかし個人情報を保護することと、情報を開示せよという風潮とは、基本のところで相容れない。世間の人は、皆わかっているのだろうか。
「1人の人間の命は地球よりも重い」というのと、「生む生まないは女の自由よ」というのも相容れない。
 指紋登録は人権蹂躪だから反対だ、と言う論調が一時社会の主流になった。しかし子供の誘拐が頻発するから、今は盛り場毎に監視カメラが設置され、ATM詐欺を取り締まる方法がないと、銀行業務の安全のために、指紋どころではない安全確認の処置が取られようとしている。死体が必要なのは、DNA鑑定である。こういう時代になると、指紋登録にさえ強硬に反対した人々は、なぜか黙っている。
 死刑反対論者もそうだ。子供が殺されたり、先生が刺されたり、一家全員が放火で焼き殺されるような事件が頻発する時にこそ、死刑反対は思想として唱えるべきだろう。しかし彼らもまた今はだんまりである。
 私はこの対立することを平気で主張する社会の心理が理解できないので、それに筋道を立ててくれる人がいたら、それを学びたい、と思っているだけだ。
 午後、神田法人会で講演。
 夜、うちで海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。フィリピンヘの奨学金に203万円、ボリビアの治る希望のない重度の精神障害児施設に270万円、マダガスカルの寺子屋教室の雨漏り修繕費に240万円、チャドの若い女子と未亡人たちに裁縫やお菓子作りを覚えさせるための費用に20万円など、計4件、733万円を決定。
 チャドからはシスター・脇山が一時帰国されて出席してくださった。数年前癌を病まれたのだが、今はほんとうにお元気で、日本へ帰ると「白いごはん」がおいしいのでたちまち10キロ太るというアフリカで働くシスターたちの先例を踏襲しておられるよし。シスターは私より少し年上だから、75歳に近い。それでもこうしてアフリカの厳しい土地で働いておられる。ただ同じくチャドにいらしたシスター・三宅は先頃日本で亡くなったという。シスター・三宅はいつも台所で働かれ、お母さんのような存在だった。台所にお母さんの姿が消えると泣けてくる。皆すばらしい存在感のある生涯を送られたのだ。

 2月9日
 風邪気味をいいことに、家の中の整理、淋巴マッサージ。

 2月10日
 11時頃、平和島の競艇へ。
 去年から、外れ券10枚を持って行くと、お醤油とかティッシューとかに交換する「お母ちゃん、ありがとう、キャンペーン」というのを始めているので、その手伝いをするためである。お父ちゃんを競艇場に送り出してくれるお母ちゃんに、せめて小さなお土産を、という運動だ。日本財団の尾形理事は「券は1枚だけど、金額が大きいからいいだろう?」と交渉してみたが財団の若者に「だめです」とはねられ、長光理事は「券、2、3枚なくしたんだけど何とかならない?」と言ってみたが、これも列から追い出されたよし。皆笑っている。

 2月11日?13日
 三戸浜で草取り。庭のカナリー椰子がもう20メートルくらいの高さになっている。そろそろ葉を切るのが大変になった。
 ほんとうは今日、イラクの女性教師の一行が日本に着くはずだったが、日本財団の秘書課から電話で、突然クウェートから出国できず日本に来られなくなったという。総選挙が終れば、もっと状況も落ち着くだろうと思われるのに、出国できなくなった理由がわからない。

 2月14日
 産経新聞社の正論講演会で講演をするため、仙台に日帰り。列車の中で雪をほとんど見ない。冬の旅には雪がつきものなのだが、土地の方たちのことを思うと、暖冬がいいにちがいない。

 2月15日
 日本財団へ出勤。
 三枝成彰氏来訪。5月のはじめにキューバで六本木合唱団の方々が『レクイエム』を歌われるという。キューバではハバネラかなんか歌いながら名物の葉巻を巻くから、葉巻がおいしくなるのだそうだ。葉巻は確かに音楽を聴いているのである。
 午後日本青年会議所機関誌『We Believe』の対談のために、第54代会頭の高竹和明氏が財団の私の部屋まで来てくださった。教育について、こういう若い方たちにも危機意識は強いようだ。

 2月16日
 関西から太郎(息子)と暁子(太郎妻)上京。今日は千葉まで行く。日本の景観がこれほどまでに見事に変わっていることに驚く。どこもかしこもよく手入れされて整然としている。
 ひさしぶりに息子と話をすると相変わらず変わったことばかり言う。もし裁判員に選ばれたら、この人物は不適当と思われる方法を考えている、と太郎は言う。私は年齢でもう選ばれることはないので、ほんとうに幸せだが、彼の年ではまだその恐れがあるからだ。私は1999年から2001年にかけて「司法制度改革審議会」の委員だったので、この問題に関して法務省への個人的な答申を出している。私の場合、裁判員制度は、「素人には良心に照らして、全く無理で無意味で不可能」という内容であった。仮に罰則を受けても私はその任を忌避するだろうと、その時決心したことを記憶している。
 そんなことは息子に1度も話したことはなかったのだが、奇妙なところで親子は同じ反応を示すことがあるものだ。
 太郎の方法は、適性審査の面接を受ける時、「死刑絶対反対」か「全員死刑」と書いたTシャツを着て行くのだと言う。
「どっちでもいいんだよ。要は最初から偏見の持ち主だと思われればいいんだから。さもなきゃべろべろに酔っぱらって行くか、精神疾患を装うか、だな」

 2月17日
 日本財団に出勤。
 聖ヨハネ会のシスター・岡村初子さん見える。シスターになれば、清貧に甘んじる修道院の暮らしをすればいいのだから、お金の苦労などしないはずなのに、彼女は病院建設の資金を億単位で集めるのに苦労している。ほんとうに人生とはすべて番狂わせ、と昔の同級生「初ちゃん」の顔を見る度に思う。財団の食堂の250円のライスカレーをいっしょに食べて行って頂く。

 2月18日?22日
 自宅で執筆。2月下旬と3月初めに渡す連載分まで、早々と書いて送ったので、編集部に驚かれた。3月末には南インドに行かねばならないので今から少し用意をしておこうという気持ちである。
 ここのところ、朝日新聞とNHKの喧嘩が少し下火になったと思ったら、ライブドアという会社がニッポン放送の株の大量取得を図ったという話ばかり。自社の株が大量に動いたらその最初の日におかしいと感じる人がニッポン放送には1人もいなかったのか。これも「日本人はいい人ばかり」の油断の結果だろう。
 アメリカのライス国務長官には、子供の時ホワイトハウスを見て、「いつか必ずここへ来る」と誓ったという伝説があり、ライブドアの堀江社長という人は、会社を世界一のものにする、と言う。どちらもよく似た精神構造で、そういう単純な目標がどのような結果を生むか結果を見守るのも楽しみである。            (以下次号)
 



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