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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 蛍の光の波かき分けて  
コラム名: 私日記 第62回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2005/02  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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   2004年10月21日〜26日
 アフリカ旅行から帰って、丸一日は休んで次の日は出勤した。それから3日間は年を考えて仕事をしながら休み、すぐ三戸浜に行って小杉瑪里(夫の姉)の亡くなったご主人・小杉一雄氏の記念の集まりをした。愛弟子5人も来てくださって義兄もどんなに喜んでいるだろう。春のように、と言いたいところだが、夏のように暑い(?)海風の中でお墓参りをし、皆勝手に亡き方の思い出話。三崎の港に近い魚音ずしで会食。義兄はお振る舞いの好きな人だったから「盛大に食べるべし」という声も聞こえるようである。
 その日の夕方、夕食前に地震を感じた。
 NHKをつけると新潟が震度7の地震とのこと。ずっとテレビに貼り付けになる。NHKのアナウンサー、市役所の職員を呼び出して質問。その間全職員が他のことにかかっているのか傍の電話は鳴りっぱなしで、出る人もないのに、このアナウンサーは「こちらのインタビューはまた後でけっこうです。何か助けを求めておられるのかもしれませんから、先に電話に出てあげてください」とは言わない。NHKというところは、極く普通の人間的な感覚のない不思議なエリート集団のようである。
 26日は日本財団に出勤して予算の説明。その間にベトナム国会議員および地方指導者の訪問を受けた。
 28日に、呉に出張の予定がある。その道で、水害の兵庫県豊岡市に行くべきかどうかを現場に相談してもらった。日本財団は阪神淡路大震災から福井県三国沖のナホトカ号の油流出事故以来、必ず災害現場に人を出して支援活動をしている。お金も出したが、何より大きかったのは、その間にボランティア活動の現場を動かす方法について、専門家レベルのノウハウの蓄積ができたことだ。もちろん日本青年会議所や社会福祉協議会などと共に、働くのである。今回も日本財団からは公益・ボランティア支援グループの黒沢司さん他の数人の職員が入っているので、見舞いに行きたいのだが、私が行くとどうしても、滞在時間5時間ほどのいわゆる視察型になる。私がもっとも嫌うやり方である。小説家の取材はそんなものではない。最低二、三日はべったり現場にいる、というやり方を数年、十数年続けるのが常道だ。しかし「数時間行くことが失礼に当たりませんか?」と聞いてもらったら、それでもいいとのこと。早速切符の変更の手続きをする。
 
 10月27日
 朝5時、まだ暗いうちに、朱門が羽田まで送ってくれて、日本財団の秘書課の星野妙子さんと合流。まず大阪の伊丹へ。それから小さなプロペラ機に乗り換えて但馬空港へ。乗客の3分の1はマスコミ。私のほかにももう1人この晴天に長靴をはいている男性がいたが、この人はいかにも土木の現場を踏んでいるという感じの人。
 空港という場所には必ずタクシーがいるものと思い込んでいたのが大きな間違いで、但馬空港に1台のタクシーもいない。1台いるタクシーは大阪の朝日放送が借り上げて迎えに来たものだったが、運転手さんが親切な人で、市内に電話して別に1台廻してくれた。こういう時には相身互いと思い、同じように当てもなく待っている1人を「よろしかったら」と誘った。毎日放送だという。乗ってから、私たちより少し前に、小泉首相が視察に来られたことを知った。
「それでタクシーがいないんですか?」
 と聞いたら、総理とは関係なく、但馬空港には常にタクシーがいないとのこと。いい勉強になった。
 そこから黒沢さんたちが入っている現場に行くのに、地理がわからないもので、無線のやりとりの間に少し思い違いがあって、やっと橋の袂で下りた。毎日放送はどうなさるのかと思ったら、タクシーをそのまま使うとのこと。ここまでのタクシー代を星野さんが払うと言い張ったのだが、「いいえ、けっこうです」とあちらさまもいわれるので、私たちがただ乗りをさせてもらったことになった。
 黒沢さんたちは、頭に手拭いを巻き、腰のベルトに「七つ道具」をぶちこんだ革ケースを吊るし、褒めればまことに現場に溶け込んで頼もしげだし、悪く言えばいささかホームレス風の貫禄がついている。日本財団のもう1グループは、新潟中越地震の救援のために昨日から小千谷に入っているとのこと。
 豊岡で彼らが働いている現場は、細いうねうねした農道に沿った住宅地に土砂が入り込んだところである。倒壊はせずそのまま三、四十度傾いたように見える家、剥がした床下に泥がどっかと居すわった家、どれも後始末が大変なケースばかりである。

 わずか5時間の滞在で知り得たこと。
(1)二屯ダンプでさえ表通りにしか入らないから、こうした災害地には軽ダンプがもっと必要。その場合、後捨てタイプではなく、横捨てタイプが望ましい。
(2)こうした災害時には、議会の承認や稟議書が必要で、しかもお金が出るのが遅い機関はほとんど何も働けない。青年商工会議所や日本財団のように、即刻現金が動かせる組織が働かないことには何もできない。役所も非常事態の場合には、現場の裁量で動かせる現金が常に金庫の中になければいけない。
(3)堤防決壊以来既に1週間経っているせいでもあろうが、救援の食料は余りがち。捨てているケースさえあるという。
 それに対して、最早使えない材木やゴミはその場に山をなしてるのだから、ボランティアたちは、その辺で石3個を置いた臨時のへっついを作り、そこでお湯を沸かしたりご飯を炊いたりすればいいのだと思うが(そんなこと、私だったら作業の片手間にできる)材木はすべて災害ゴミとして捨てている。
(4)災害後、3週間経ったら、どんなにまだ仕事が残っていようと、ボランティアは一旦引き上げるべきだという。被災者が他人といることに疲れてくるらしい。こういうことがわかることが非常に大切だ。
(5)小学校では、明日から始まる授業再開に備えて、水に浸かった生徒の私物を先生が泥を洗い流していた。小学校一、二年でも床の掃除や泥を洗い流すことくらい自分でやらせたらどうなのだろう。お客さまのように、きれいになったところで学校に帰って来るのでは、せっかくの災害を勉学体験に生かしていない。
 泥道には誰が撒いたのか消毒薬の匂いがぷんぷんしている。黒沢さんと共に働いている人たちに会い、長年のおつき合いのお礼を言う。事件後真っ先にトラック数台を置かしてくれた駅近くのお寺さまにも立ち寄って、奥さんにお礼を述べた。それにしても、日本は自国の力だけで復興できる。何とありがたいことか。
 午後3時近くに出る列車で姫路経由、その夜は広島泊まり。

 10月28日
 正午に日本財団の海洋グループの山田吉彦さんと呉の海上保安大学校へ。今度日本財団が6億8千万円を出して、学校の中に不審船などに対する射撃練習用のシミュレーション・センターを作った。その竣工式に出席するのである。
 巡視船は、いきなり不審船を射撃するのではない。その前に停船命令を出し、それでも止まらない時には警告の後威嚇射撃を行う。その場合射撃は正確に「当てない」ことが必要だ。正確な射撃の技術がなければ、正確に当てないこともできない。しかし射撃は、外洋に出れば、事故の恐れもあり、お金もかかる。それで基本の訓練をシミュレーション・センターで行うのである。
 私はものを知らないので、今日まで出来上がったものは大きなテレビゲームなのだろうと思っていた。しかし一歩巡視船の船橋を模した部屋へ入ると、人間の視野と同じだけの外界、つまり海に取り巻かれているように見えるので、足元が少しふらふらする。
 波高を3メートルに上げると、恥ずかしいことに私は傍にある計器に掴まった。立っているのはセンターの建物の床なのだから、視野が揺れているだけで足元がふらつくわけがないのだが、ヴァーチャル・リアリティはかくも簡単に現実と架空を混同する。誰かが後で「午前中に公開したマスコミの中の全国紙の記者が、船酔いで吐きそうになって出て行った」と教えてくれる。それほど臨場感溢れた画面ができている。これを一般公開できれば、「東京ディズニーシー」以上の観光の目玉商品になるだろうけれど、目的はあくまで海上保安官の訓練のためだから、そこがむずかしいところだ。設計施工は株式会社日本海洋科学。往年の船長経験者たちの凝りと執念の作品だという。
 夜9時過ぎ、帰宅。

 10月29日
 午後から厚生労働省、防衛庁、国土交通省に、先日アフリカ旅行へ若者たちに出張を許して頂いたことに対する報告と御礼に行く。その後、6時から帝国ホテルで、笹川陽平理事長が、読売国際協力賞を受けられたお祝いの会に出席。長年のハンセン病撲滅を目指す働きに対する贈賞で、ほんとうによかったと思う。

 10月30日、31日、11月1日
 毎日新聞の連載小説『哀歌』の最終部分を書き続ける。1日、瀬田のマリアの宣教者フランシスコ会に、シスター・斎藤ハツエさん、シスター・梶川邦子さんを訪問。アフリカの同会の活躍を見せて頂いたことの報告と御礼。

 11月2日
 財団に出勤。月末に福岡で行われるアジア知識人会議の冒頭にする予定のスピーチの内容をロ述する。それを英訳しておいてもらうためである。
 午後は日本学生支援機構の政策企画委員会に出席。急いで家に帰り、6時から海外邦人宣教者活動援助後援会を我が家で。シエラレオーネからシスター・根岸美智子さん、ボリビアからシスター・斎藤クニ子さん、パキスタンからシスター・岡野真弓さんがいらしてくださった。
 今日のミーティングで、カメルーンの奥地にピグミーの子供たちのための寄宿舎を670万円で建てることを決定。
 ピグミーの子供たちは、蛍の光の波かき分けるほどの自然の中で、木っ葉を重ねたような小屋に住んでいる。もちろん電気も水道もない。太古と同じ自然の中である。
 その子供たちを町まで連れて来て、通学のために寄宿舎に住まわせる。土で出来た廃屋に近い宿舎に今までは住んでいた。空気にはイタリアの森林伐採会社の大型トラックの排気ガスの匂いがする。そんなことに耐えられなくて再び蛍の里に逃げて帰る子もいた。今度、電気もシャワーの設備もある寄宿舎に住むようになると、彼らは別の意味で父母の住む森の暮らしに戻れるかどうか。大きな賭けのような気もする。
 その他、インドのスクールバスなどで総計1163万円の援助を決定した。外国帰りのシスターたちのことを考えて、夕食はササニシキのご飯、おでんと塩鮭の焼いたものとタクアン。もちろんすべてうちで用意した。

 11月3日
 今日『哀歌』を書き終えた。11月25日付けが最終回で389回になる。明日ニューヨークヘ発つので、何とかしてそれまでに完成しておきたかった。これで万が一飛行機が落ちても小説は未完にはならない。ただ感謝あるのみ。
 淋巴マッサージと美容院。

 11月4日
 正午成田発。同日午前10時半、ニューヨーク着。目的は11月7日に行われるシティマラソンの運営を見るためである。
 最近アメリカの入国は厳しくなったというので、空港で延々列をつくるのかと思ったが、両人指し指の指紋を取る間に、顔写真も撮られてほとんど待つこともなかった。
 宿はセントラルパークに面したホテル・ピエール。普通なら財団のお金では決して泊まらない高いホテルだが、マラソンのゴールが見えるというので止むなく今回のみここへ泊まる。午後、打ち合わせ。

 11月5日
 エクスポ会場で、マラソン参加者の登録風景を説明された。約3万5千人が走るのである。同時に、我々の身分証明書も発行してもらった。これでさまざまな大会の場所に出入りできるようになった。
 この大会は、1970年にできたものだという。出発点のスタテン島から、セントラルパークまでニューヨーク市の5地区すべてを走り抜ける。沿道には約200万人が応援にかけつけ、1万2千人のボランティアがそのために働き、経済的波及効果は154億円余と言われる。
 午後はタクシーで本番と同じコースを見るために廻る。ユダヤ人街では、黒い長コートに黒帽子、長い揉み上げの毛をくるくる巻いたユダヤ人たちが、夕暮れと共に安息日に入る直前の時間を歩いていた。

 11月6日
 朝8時前、国連広場前に集まる。前夜祭ならぬ前日祭の催しものとして「フレンドシップ・ラン」というたった6キロの競走が行われるのである。これは走る人もいるが、遊び半分に歩く人もいる。星野さんはスポーツウーマンだから、早速走るという。
 縫いぐるみを着ている人。法被姿の日本人、おかしな帽子をかぶって楽しむ人。競走というより遊びの要素が強い。東京シティ・マラソンが実現した時には、この前日のフレンドシップ・ランを大切にしたい。東京独特のさまざまな遊びを創出できる。たとえば、お祖母ちゃんの車椅子を孫2人が押して1番安全そうな路面を選んで1キロを走る競走はどうだろうか。何よりお祖母ちゃんが世界的ランナーと同じコースを走れる。そして東京の町々の旦那衆とお姐さんたちが、趣向を凝らして自分たちの町を走り抜けるランナーたちに、町の歴史を生かした応援をするだろう。その際、マスコミは今までの「このマラソンは自社の独占」だから、他社の参加も取材も放送も許さない、というような狭量な習慣は捨てなければならない。紙面で理想論を述べるなら、普段から報道公開の原則は守るべきだろう。

 11月9日、10日
 9日帰国。10日、淋巴マッサージ。

 11月11日
 日帰りで高知工科大学へ行き、社会システムエ学科で公開の特別講義。空港でおでん種を買って帰った。

 11月12日
 アフリカから帰って以来、まだまともに休んでいない、とオーバーなことを言う。溜まった郵便物、雑物の整理に追われる。

 11月13日
 夕方から丸の内本店の丸善で、短い講演会とサイン会。この日記連載が3冊目の本に集められたものが、『人生の雑事すべて取り揃え』の題で海竜社から出版された。サイン会を終えた後、鶏の水炊きの老舗で夕食。財団をやめて暇になったらおいしい料理を作るのが私の夢なので、このスープにも挑戦しよう。同じようにはできなくてもいつかはと思ってやっていることが私は好きなのである。

 11月14日
 もと私の秘書として働いてくれた杉浦紫津子さんのご主人、杉浦知弥氏が心臓の手術中に急死された。まだ48歳だという。下町っ子らしい付き合いのいい方だったようで、告別式では結婚式の披露宴のような温かい思い出話が続いた。友人の話を聞きながら私も心が動く場所で、10歳の遺児の理恵子ちゃんが涙を拭く。感受性の特別にいいすばらしい子供だから、よく育つように。

 11月15日
 社会貢献支援財団の表彰式。毎年、常陸宮ご夫妻をお迎えして、さまざまな形で社会のために働いた方たちに100万円ずつを贈るのである。
 今年も、特定分野の功績の部門で、三木茂廣さんが船舶の建造に不可欠な立体構造を平面に展開する「現図」の製作で、伊東久助さんが漁網の研究で、平光重夫さんが船舶に搭載される大型発電機や電動機のフレーム加工の技術で、受賞された。私はこうした地味な分野で長年働かれた方たちが大好きだ。
 午後は、カトリック放送のために、先日のアフリカ旅行で撮影されたテレビに解説を入れる作業に行き、夜はザルツブルク・イースター音楽祭のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、サイモン・ラトル指揮の『フィデリオ』を生れて初めて聴いた。べートーベンの作った唯一のオペラである。
 正直に言って、私にとってはまことに感動のない筋である。始めに音楽があって、その後で脚本を選んだというから、そういう作り方をすると、こういうことになるのかもしれない。音楽やその他の芸術によって、「表立って」人間性をうたったり平和を希求したりすると、すべてつまらないものになる。しかし舞台装置は新鮮で強烈な印象が残った。

 11月16日
 日本財団へ出勤。執行理事会の後、お隣の日本たばこ産業にお礼に参上。社屋のすてきな前庭をお借りして、財団が全国に贈るさまざまな仕様の福祉車両を公開しているのである。
 午後はもっぱら予算説明を聞く。夜は笹川陽平理事長と尾形武寿理事と、何ヵ月かに1度「とことんむだかもしれないことまで話し合って連絡を密にする会食」をする。

 11月17日
 明日からシンガポールなので荷造り。

 11月18日〜29日
 18日の正午に上野の日本芸術院まで朱門を迎えに行き、そのまま成田空港へ。夕方の全日空で出発。夜10時シンガポール着。
 やっとほんとうの休み、と思ったせいか、ナシムのマンションに着いてから3日間は徹底して怠けた。
 大きく風に揺らぐタンプスの枝を窓全面に眺め、本を読む。電話の音もないから本の中身が頭に染み込む。古いTシャツと寝間着を捨てる。棚の挨を拭く。人生、整理が大切。捨てて買わないと、胸の中の素晴らしい空間にも風が吹き渡る。高知空港で買ったおでん種をわざわざ持って来ておでんを作ったのだが、材料がいいのだろう、絶品だった。
 24日に、日本財団がチャーターした沖ノ鳥島視察船が那覇の泊港を出た。マスコミ、学者、ゼネコン、漁業関係者、など、それぞれの立場から、この小さな島をどう使うかを考えられる人たちである。この島を中国は単なる岩だと言い、日本は島だと解釈している。いずれにせよ、放置することは他国の占領を許し、日本は最大200カイリの排他的経済水域を失うことになる。日本財団が700万円ほどをかけて船をチャーターし調査を計画したのも、日本の中に(高圧的ではない)自由な関心と世論を喚起するためであった。
 海が少し荒れた、と聞いたし、万が一現場でどこかの船と遭遇して不安な思いをしないだろうかと心配していたが、現場に海上保安庁の巡視船がそれとなく警備に現れてくれたようで、皆から思わず喚声が上がったという。
 船は荒天のため予定より少しおくれたが、無事島にも上陸し、5日目の28日の日曜日、無事泊港に帰着した旨の報告が財団からシンガポールに入った。                                 (以下次号)
 



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