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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 汚職のつけは貧困  
コラム名: 私日記 第61回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2005/01  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   2004年10月3日、4日、5日
 現地時間夕方パリ着。飛行機の中で、『毎日新聞』の連載小説「哀歌」2日分を書く。もう最後の場面まではっきりと見えているので、ただ原稿用紙の上に書きうつすだけ。
 空港近くのホリデイイン・ホテルに入って早速テレビをつけるとBBCがすばらしいことを言っていた。「汚職のつけは貧困である」。これが実感としてわかれば途上国の姿は変わって来る。私が33年間、海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)をやってきた間に体験した唯一の抽象的な敵は「汚職」の懸念だった。
 ニュースでは、イラクで給水装置の操業開始式に集まった子供たち三十数人が殺されたという。「ゲリラでも、子供なら殺さないでしょう」という日本人は今でもたくさんいる。しかし或る部族が給水の恩恵を受けて喜べば、それはその部族と敵対関係にある部族の不利益・不満である。同じアラブ人でイスラム教徒のサダム・フセインは暴君で、それが倒れることを望んだ人たちはいくらでもいるが、それでも、キリスト教徒で血縁のないアメリカが倒すのは全くでしゃばりそのものなので、そこでアメリカは全イラクに住む多くの違った部族の、共通の敵になった。だからアメリカの恩恵を受けて喜ぶような部族の利益は、子供を巻き添えにしようと破壊して当然なのだ。この厳しさを今でも分からないアメリカや日本の政治家がたくさんいるのである。
 4日は、朝10時50分パリ発の飛行機でブルキナファソの首都ワガドゥグヘ。パリ空港は、手荷物を持ってエスカレーターなしの階段を上がって下りる。人間の動線を無視したひどいもの。
 飛行機は直行便かと思ったら、ニジェールのニアメイに下りたので、私がスチュワーデスに「私たちワガドゥグじゃなくてボボデュラッソヘ行くんですけど、ついでにそこまで運んで下さらない?」と言ってみたら「この次の時、頼んでみてよ」と笑っていた。
 ワガドゥグ空港では、シス久ー・黒田小夜子さんから頼まれたという国会議員が迎えに来てくれていた。つまりそういう人がいないと、私たちがブルキナファソのために持って来た薬や品物のためにでも、税関は課税しようとするのだろう。再び「汚職のつけは貧困である」と思う。
 豪華な庭を持つソフィテルに入る。着くなり豪雨。椰子の木揺れざわめく。
 5日は早朝の飛行機で、ボボ・デュラッソヘ。私にとってこの国を訪問するのは三度目。ボボはこの国の第2の町である。短い飛行時間の間に出されたパンを同行者は食べなかったが、こっそり見ていると、スチュワードがものかげで集めて袋に入れていた。何となくほっとする。手を付けていないものは、誰か貧しい親戚の人に上げれば、これで空腹が防げるのだ。
 ボボ・デュラッソのホテルは玄関を出れば、すぐオートバイのお兄ちゃんがいたり、道ばたで男たちが並んでイスラムのお祈りをしたりしていて、皆情報集めに出るのに便利なのを喜んでいる。私の部屋は、トカゲが走り回るプール前の庭に面している。
 午前11時から早速シスター・黒田と私が働いているJOMASが関係した仕事の報告を受ける。シスター・黒田はその素朴な人柄の外見からは信じられないような事業家気質で、ただ単に周囲の貧しい人を助けるのではなく、事業をして多くの貧民を救うという発想。それができればいいのだが、できない、というのが私の体験的発想。シスターは今のやり方で行くと年間、160万円以上の赤字が出る計算だという。5千万円の基金を日本で集めると、この国ではその利子だけで赤字分を埋められるそうだ。そうなのだろうが、私はそういう「投資」をしなかった。そういうやり方がいかに危険かを知っているつもりで、しかも気が小さくてやれなかっただけのことだ。JOMASとしては、今まで通り薬とミルクの現物をお送りします、ということで、シスターの事業拡張の計画には参画しないだろう。
 午後は皆の希望もあって、まず市場へ。
 黒い燃しつけ用の木、大理石のかけらのように見えるカルシューム剤。砕いて飲むのだという。丸い手製の石鹸。私は、小袋の塩を10円で、オサマ・ビンラディンとブッシュのツー・ショットを入れた趣味の悪い黒いTシャツを800円で買った。私は自宅に、売ろうとしても完全に無価値なばかげたものばかり集めた「珍品博物館」なるものを(バーゲンで買った棚2つ分だけ)持っているので、そこの収蔵品にするためである。帰って良く見たらタイ製であった。

 午後、皆はシスター・黒田の知人の何軒かの家庭を訪問したが、私はバスの中にいた。外はかなりの猛暑。私は風邪気味で体がだるい。的場順三理事も夕方からは休まれるというので、今日はシスター・黒田の所で日本側が作るカレー・パーティーをするのも失礼してホテルにいた。夕食は的場理事と日本財団の石井靖乃さんと3人で、ほの暗い食堂で、痩せて味のいい鶏と素晴らしく柔らかい十六ササゲをソテーしたもののついた定食を食べた。アフリカと人生を語りながら(体は少しだるいのだが)豪華な食事だと思う。

 10月6日、7日
 6日は朝4時半に目覚めた。時差のせい。起きて新聞小説1回分を書く。やがて曙の気配。朝はアフリカの祝福の時間なのである。透明、清澄、純朴、生命の横溢などを思わせる香が、アフリカの朝にただよう。
 今日はシスターのやっている栄養失調児センター見学。立派な塀で囲まれているのは、泥棒を防ぐため。この建築費用もJOMASが出した。
 やがてマラリアで高熱を出した子供が運び込まれて来た。シスターは看護婦さんだからすぐ注射をし投薬をする。ここでは払える人からはまず日本円で100円ほどをもらい、何回来ても後はただなのだ、という。100円は土地の人にとって大きな出費だと思うが、一度でいいとなれば、親たちも安心するだろう。それも払えない人は、その分働いてもらうシステムである。
 午後は、離れた場所にある農場2ヵ所を見学。働く人たちは、子供2人までは連れて来て昼ご飯はいっしょに食べさせてもらい、夕飯の分は材料で貰って帰るのだが、現金の労賃は払われないのだという。ここではまだ「農奴」的空気が残っているように見えるのだが、国全体が貧しくて他に食べられる場所がないのだから、仕方がないのである。それにしても、硬い粘土質の大地を手で何年もかかって開墾するなどという労働はどんなに大変だろう。しかしJOMASはシスター・黒田から申請があってもトラクターを買う費用は出していない。トラクターがあっても、故障した場合、修理する手だてが確立していないからである。世銀のプロジェクトだという数十台のトラクターなどの重機が、壊れたままゴジラの集団自殺した跡のように放置されている現場を私は見ている。
 7日は午前中の出発前に、おもしろいモスクを見た。いくつもの塔を集めた形の日乾し煉瓦建てで、塔には足場の杭が残ったまま、内部は柱だらけ。私はこのあたりからマリに多いこうした建築様式がガウディの有名な「サグラダ・ファミリア教会」の元になっている、と言っては、美術通に顰蹙されている。それほど印象が似ているのだ。
 ここで同行の記者さんの1人が、南京虫に食われた。私は南京虫を防ぐ方法など散々耳学問はしたが、体験はなし。よかった。こういう体験をさせることが、日本財団の旅行のハイライトなのである。
 空港でピザを食べながら遅れた飛行機を待つ。再びワガドゥグヘ。ホテルで原稿書き。

 10月8日
 ワガドゥグからコート・ジボワールのアビジャンヘ出て、そこの空港で10時間待って一路アフリカ大陸を南下、南アのヨハネスブルグまで夜行便に乗るという辛抱を強いられる移動日。10時間の待ち時間に何をするか、めいめい考えて過ごすだろう。お酒を飲む人、眠る人、本を読む人。「作家などという人種はいかに性格が偏っていて付き合うのに大変か。この旅行では1人しかいないから(私のこと)何とかなるけれど、これが3人もいたらどんなに大変か」を財団の若い人たちに懇々と語り聞かせてくれる人、など、まあバラエテイーに富むいい時間が過ごせるはずだ。
 私は手書きの原稿を少し書く。「哀歌」の最終回を書き終わるまで飛行機が落ちないようにと思って、急いでいるのだが。

 10月9日、10日
 朝、ヨハネスブルグ着。空港で、安倍昭恵さんと合流。安倍晋三幹事長代理の夫人で、私の聖心の後輩。おおらかで慎ましい性格で、自費参加である。ご主人は忙しくて、アフリカの田舎まで入ることは生涯おできにならないだろうから、昭恵さんに見て行って頂くことは大きな意味があると私は思っている。

 私は午後、的場順三理事、鈴木富夫評議員と、元三井物産におられた大北修二氏のお宅を訪問する予定だったが、ごちそうになるのは昼御飯か夕御飯かわからなかった。いろいろ様子をきくと、安全上の理由で日暮れまでにヨハネスブルグに戻ることが望ましいとのこと。遅い昼御飯をゆっくり頂くことになった。つまりヨハネスブルグという近代的な町は危険で、町を自由には歩けないだけでなく、車の通行も郊外では暗くなったら避けるべきらしいのである。私は今度のメンバーにできるだけ質素な宿に泊まらせることを計画しているのだが、ヨハネスブルグではいつも郊外のホテルとショッピング・センターが繋がった「安全特別区域」みたいな一流ホテルに泊まることになる。そして毎回言うのだ。「決して外を歩かないでください」と。
 大都市で日中、自由に外を歩けない土地があると日本人は信じられない。はっきり言えば、金目のものを持っていないか、その人自身が誘拐・身代金要求の対象にならない人は歩ける。それでもレイプや殺人などの対象にならない、という保証はない。外国人はすべて危険がないとは言えない。
 大北家は車で1時間近くの郊外のゴルフ場の中にある。保安も完全な別天地。おいしいお肉やお魚をごちそうになりながら、アフリカについての貴重な話を聞く。
 10日は、朝、根本昭雄神父のやっておられるボッツバーグの末期のエイズ患者のためのケヤーセンターへ全員で出掛けた。ここはJ0MASの大きな仕事先で、今回は代表の私が行くというので、最近隣接した土地に建てたアルコール中毒患者のための更生施設の開所祝別式をしてくださった。JOMASの運営メンバーの中には、アルコール中毒の人に対する援助には絶対にお金を出さない、それは当人の意志が弱いからだ、という強硬派が過半数いる。だから国内のこうした施設にはなかなかお金が出ない。しかし南アの施設に出したのは、ここの中毒患者たちは、本気で治療する場所がないと、すぐ性的な行為に走りエイズ感染の原因になるというからである。
 開所式では私たちのグループと職員たちが集まって祈りを捧げ、私たちのグループも「ルルドのマリア」を歌う。神父が聖水を戸口や室内にかけて廻る。病室は2人1部屋で、清潔で惨めさが少しもない。同行の1人が「ここなら僕の収入でも入院できます」と囁くので「でも最低でも2ヵ月入らなきゃいけないのよ」と言っておいた。
 それからエイズ・ホスピスの方に行ったら、同行の新聞記者たちが写真を撮っている。あれれ、撮ってもいいと当人が言ったのかしら、と思ったのだが、患者は女性で、なかなかわがままな人だという。わがままも、人生の最期の時になったら、ほっとするいい性格だ。ホスピスには、短い人だと入った日か、翌日には亡くなるのだが、彼女はやや長く入院している人らしい。体中が痛いと言って、若い日本人の神学生に足を揉ませているのだが、揉み方が悪いと言って文句をつけているので、私が少し代わった。私はこれでもマッサージ師になろうとしたことがあるので柔らかくも強くも揉めるのである。
 皆が霊安室を見学に行っているので私も追いついた。中には痩せて小さくなったミイラのような遺体が一体家族の迎えを待っていた。今朝亡くなった人だと言う。この日本から贈られた霊安室は相変わらずフル稼働しているという。一月に30人前後が死亡するからである。
 皆が食事に行った間に私は、事務棟にファックスを出してもらいに行った。終わって庭を横切ると、霊安室から遺体運搬車が病棟に入って行くのが見えた。いつもよく会うボランティアの婦人に「どうしたのですか?」と聞くと、「今亡くなったんですよ」という。朝からもう2人目である。「いま遺体を清めて、これから霊安室に入れるんです」というので、最後の送りについて行くことにした。
 死者は2人部屋の廊下側のベッドで息を引き取ったのであった。力ーテンを引いたもう1つのベッドには、白人の青年が横たわり、椅子には見舞いに来た母が座っていた。気配ですべてを察していただろうが、看護婦は母親に廊下に出て貰って、痩せて文字通りミイラのようになった死者を白布に包んで、運搬車に載せた。
 誰もあからさまには言わなかったが、約50床のベッドに横たわる病人の中で、彼がただ1人の白人であった。母はケープタウンから来ており、病気の息子は既に意識がやや混濁しかけているという。母にとっては辛い時間だが、病人が確実に迫って来る死をよく理解できなくなっているとすれば、それは救いだと私は思う。
 いつもながら修道院で用意された温かい食事を頂いて、私はホテルに帰った。午後は原稿書き。ほんとうは心理的に疲れていた。

 10月12日〜17日
 1983年に私は取材のためにこのマダガスカルのアンタナナリボにやって来た。そして南へ約170キロのアンツィラベというフランス領時代には避暑地だった土地で約3週間を取材のために使って『時の止まった赤ん坊』という作品を書いた。
 今度もマダガスカルでは、私はすばらしい3人のシスターたちと空港で再会した。首都のアンタナナリボで活躍する平間理子さん、アンツィラベの産院を切り盛りする牧野幸江さん、今ではひどい奥地の診療所にいる遠藤能子さんである。私たちはすぐに翌日、アンツィラベに向かうことにした。
 マダガスカルでは時は決して止まっていなかった。アンツィラベヘの道にしても、今は舗装になっている。昔は轍にはまり込むと、道本来の表面の高さが、座席に座った私の眼と同じ高さくらいになるほどの悪路だった。5時間以上はかかったと思うが、今は3時間半くらいで行ける。
 私の小説に出て来る「アベ・マリア産院」もかなりきれいになった。しかし難産の人が出る度に、当時洗濯室で働いていたお婆さんのシスター・アンジェルが助けを求めてお祈りをすると、不思議とよく聞き入れられるというマリアさまの像もそのままだった。ただしシスター・アンジェルは既に亡くなっていた。
 産院の庭にはよく手入れされた花壇ができている。私はその基礎を作った人を知っている。20年前に当時高齢ながら花壇を作ることに情熱を燃やしていたフランス人の修道女がいた。この人は、恐らく最後の母国訪問となるだろうと思われる帰国からマダガスカルに帰ったばかりだったが、彼女はフランスからだぶだぶのスカートの下にたくさんの花の種をかくし持ってきたのである。彼女は当時石鹸さえも買えなかった貧しい産院の庭に、花を育て続けた人だった。「どんな場所でも、花を植える人がいるかぎり、そこには人間の心があるのよ」と言ったアメリカ人の修道女に、私は南米のチリの貧民窟で会ったこともある。このフランス人の修道女も、既に亡くなっていた。
 私たちはアンツィラベに着くなりすばらしいドラマに逢った。分娩室でちょうど赤ちゃんが生まれたのである。日本人は、身内の死も病院で迎えてしまうし、まして最近では赤ちゃんが生まれた瞬間の「フギァフギァ」という泣き声など聞いたこともない人が多い。
 病室にはもう1人、17歳の娘が陣痛に耐えていた。大学資格試験に受かったところで妊娠がわかったのだそうで、娘の妊娠は大きな予定外のことだったろうが、初めてお祖母さんになる女性は42歳で、この17歳の娘をシスター・遠藤に取り上げてもらったのだという。今は初孫ができるので嬉しそうである。もっともインド人の助産婦さんは、「ここ数日はまだ赤ん坊はあまり生まれないわよ。19日あたりから満月に近づくから、ラッシュになるでしょうけどね」と、今でも満月と出生との素朴な関係を否定していない。
 私たちのグループの一部は、丘をいくつも越えた奥地にあるハンセン病の施設に行った。まさに地の果てに棄てられた人々の住まいという感じだったという。人間より動物の生きざまに近いような貧しい暮らしぶりと、施設内にいる子供の多さに、訪問者たちは言葉を失って帰って来た。それは取りもなおさずその土地の、いや人類全体の持つハンセン病に対する偏見ではないか、という話が出た。しかしシスター・遠藤によると、その施設は数年前にシスターが訪問した頃には、北欧のNGOが入っていて、実に清潔に温かく運営されていたという。その人たちが土地の人に運営を任せて撤退した後に状況はこのように悪化したというべきで、それはむしろ政治の貧しさだろう、と私たちは段階的に事情を見せられたような感じだった。
 私たちは再びアンタナナリボに戻った。JOMASがたった800万円で作って頂いたサン・ヨセフ学校の新築校舎で開校式に出席するためである。前の校舎は80年使っていたが、古くなって壊さねばならなくなった。とすると今度の校舎も80年くらいは働いてくれるだろう。
 会場となった校庭にはテントが張られ、数百人の生徒や父兄が集まっていた。ラウド・スピーカーは割れた音でガアガアがなりたてるし、ミサは長くて出席者はかなり辛抱が要ったと思うが、たった800万円でこれだけの校舎ができるというのを見るのは楽しい。

 マダガスカルでもう1つおもしろかったのは、現地の大豊建設の現場でバイパスエ事を見せてもらえたことである。水田の上に作った道路の両脇に「おさえ盛土」を伸び伸びと作っているが、こんな一見何でもない工法を私は見たことがなかった。用地買収に多額の資金が要る日本では、こういう「のんびりした設計」はできないのだという。
 マダガスカルの最後の夜、私たちはいつもの通りホテルの一部屋に集まり、椅子のない人は床の上に座って、それぞれの印象を語った。決して若くはないシスターや神父たちが、同じ日本人として、こんなにも苛酷なアフリカの各地で、健康の危険も承知の上で、日本人が当然のように求める生活上の安逸も楽しみもなく、しかし生き生きと働いておられるのを見たことは、日本人として大きな誇りだという人が多かった。私たちはたった18日間の旅で人間の生と死にさえ立ち合った。こんな旅も普通はないのだ。
 10月20日朝、日本帰着。旅の終わりはいつも同じ思いである。飛行機の車輪が成田の土に着いた時、安全に皆をそれぞれの家族の元にお返しできたことにただ深く感謝した。
                                                             (以下次号)
 



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