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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 海は広く、船は小さい  
コラム名: 私日記 第59回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2004/11  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   2004年8月14日
 商船三井の液化天然ガス・タンカー、「アルビダ」号の船橋では、朝7時にラジオ体操を2つやる。その後で乗組員たちは、日本人もフィリピン人も右手を組んで「安全第一、よし!」と言う。これも朝の1つの行事。
 その後、まずゴミ焼き作業の見学。海の上ではゴミを燃すことが、常に必要な仕事である。焼却炉は安全のため400度以上上がらないようになっている。ゴミとして出されている卵のケースは300個入りだった。
 再び船首まで散歩、といいたいところだが、同行の船長は、甲板の上に無数にある(と見える)弁をたえず錆つかないように動かして歩く。
 午後3時半頃、最初の軽いローリングを感じる。5時半、前方に見事な積乱雲。海、一部だけ切り取った鏡のように光る。
 午後5時、ロンド島を抜けてインド洋に出る。夜7時半から9時半まで船尾の海賊警戒当直に立たせてもらう。船中戸締りが厳重で、新参者はどこから出ていいかわからない。ただ鍵を締めるだけでなく、厚い幅広の金属製のベルトのようなものでデッキヘ出るあらゆるドアを内側から締めつけてある。やっと船橋からいくつもの外階段を下りて、エンジンの音が1番喧しい後部甲板に辿り着く。海賊を撃退するための高圧放水は続けっぱなし。降るような星空だが、煙突から煤も降る。手すりはべっとりねっとり。インドネシア側の空、全面の稲妻。海賊に襲われたら大変だが、海賊の出ない警戒もまた辛抱が要るものだ。

 8月15日
 スティブンソンの『宝島』のジム少年は、リンゴ樽の中に隠れて陰謀を聞いた。リンゴはどのくらい鮮度を保てるものか興味があったので、シンガポールで多分オーストラリア産と思われる小さな種類のを10個買って乗った。部屋に転がしてあるのを毎日1個ずつ齧る予定。
 朝食後、船橋に上る。肉眼でもレーダーにも見渡す限り船影なし。波頭青白く、海深く青い。ひきいれられそうに感じる、と同行の日本財団の山田吉彦海洋グループ長は言う。私は少しもそうは感じない。もしかすると鈍感という資質を持っているのかもしれないぞ、と嬉しい。スリランカのドンドラ岬を廻ると、少し揺れるかもしれないと言われて、今のうちに少し『毎日新聞』の連載小説『哀歌』を書いておこうかと思う。原稿は手書きで、インマルサットの衛星を使って送るのである。ところがインマル衛星は気分屋で、時々うまく行かない。ことに悪口を言うといよいよおへそを曲げて通じなくなるような気がするので、送る前に衛星を褒めることにした。
 しかし私はまだ船酔いも感じない。この船は、往路には液化天然ガスがごく僅かしか入っていないので、タンクの中は空に近いから、重心が低くなっていて揺れるのだという。三半規管が悪い人も酔わないそうだ。

 8月16日
 朝9時50分、VLCC(巨大貨物船)と言われる15万トンのオイル・タンカー「エネオス」号に遭う。その後、今日は機関室を見る。迷路のような複雑な通路を歩いて、工作室の広さに圧倒された。どんな機械でも作れそうな装置と道具が整っている。スクリューは1回転で7メートル前進する。1分間78回転、それで時速7・7ノットが出る。ホルムズ海峡を廻って湾岸に入ると、機関前の温度は80度になるということだ。
 今日は船影をたくさん見る。午後3時、川崎汽船のコンテナーと軍艦。その5分後にはおんぼろタンカー。煙突の煙が進行方向にたなびいている。私が初めて乗った戦時標準型の輸送船も、速度は7ノットしか出ず、煙突の煙が進行方向にたなびいていた。
 ローリング12、3度。ウィングの先端が大きく海を背景に上下する。
 オリンピックが始まっているはずだが、この船では関係なし。結果はニュースとして刻々入って来て船内の話題にはなるのだが、内容はオリンピックばかり多くて、奇妙な国際感覚である。

 8月17日
 多分、緊張の中だるみ。1日眠い。いつでも寝られる。申しわけない。
 今日は昼、フィリピン人たちの食堂を「急襲」して、彼らの食事を食べさせてもらった。ナスと肉の妙めもの、肉のステーキと野菜。食後にブドウ。つまり御馳走だが、日本人の食事の好みと比べると、油が多過ぎるということだろう。だから食堂が別なのだ。
 夜、船橋から出てウィングに立つ。かなり風がひどい。海の中で一斉に魔物が口笛を吹いている。1人で甲板に出てはいけないということだ。
 夜九時になると、談話室や私の部屋の時計が音もなくすうっと30分巻き戻される。気がついたら不気味なものだ。最後の日には朝と夜と2度巻き戻してこれで時差を調整する。

 8月18日
 朝、少し古くなりかけた食パンでフレンチ・トーストを焼く。蜂蜜をたっぷりかければパンは生き返っておいしくなる。私の悪い癖。すぐ料理に手を出す。
 午前アッパーデッキに塩の塊が流れの形そのままに溜まっているのを見る。午後4時、ウィングに赤い「アラビアの砂」が既に溜まっているのに気づく。ここはインドのムンバイ(ボンベイ)の南360マイル(660キロ)の地点である。
 砂と風は偉大だ。ただで660キロ以上を旅行して来る。直径36メートルの巨大な球形の液化天然ガスのタンクの上に溜まった赤い砂は、どこでどうして洗い落とすのだろうと心配していると、「手近なところにあまり航路からはずれなくて済む積乱雲があれば、わざとその中へ入って行って、スコールで洗い流すんですけどね」とのこと。 
 夜は手巻き寿司。タコもトロもある。

 8月19日
 朝9時、東経68度、北緯16・5度の所を走っている。船橋の台の上に拡げられた海図には、全く陸地がない。視界13マイル。ウィングに立てかけてあるモップ、女の子の髪のように風に吹きさらされている。ローリングは12、3度。午前中から眠る。軽い船酔いなのかもしれないが、自覚なし。部屋を歩くのは少しむずかしい。平らなはずの部屋が、急に上り坂になって歩くのがきつくなり、今度は突然下り坂になって、弾みで行かなくていい所まで駆け降りることになる。机も、私が持ち込んだ古色蒼然としたワープロも動かないのだが、椅子がくるくる廻る。それに抵抗してキーを打つのもくたびれるので、エネルギーがもっとも要らない方法を取ることにした。つまりベッドに寝たまま、原稿を手書きで書くことにした。ひどく酔うと皆に心配をかけ、迷惑をかけ、ろくなことにならないから、「転ばぬ先の杖」ではなく「先に転んでしまった」のである。
 原稿用紙をライティング・ボードに挟み、シンガポールの文房具屋で買って来た、インクの容器に3千ヘクトパスカルの高圧をかけてあるボールペンで書く。これだと、重力と無関係に仰向きになって書いてもインクが出る。うまく行ったので、私は大満足。これだと年を取って寝たきりになっても、アタマさえしっかりしていれば書ける、と人生の問題はすべて解決したようないい気分になれた。

 8月20日
 アラビア海は、モンスーンの季節の最後で、西風を受けて波高は3、4メートルにはなる。北上する船はまともに横波を食って、ローリングはほんの1、2回だが20度に達した。帽子とか紙類とか、くだらないものは棚の上でざあっと流れたが、眼鏡とか、電子辞書とか大切なものは、すべて工夫して止める装置をしておいたので、被害は皆無。
 閉所恐怖症の私は、エレベーターが途中で止まったらどうしようと怖くなって(そんなことはないのだ。機関長がきちんと揺れの度合いを計って運行の限度を決めてある)階段を上り下りする。揺れると階段は却って動き易い。
 午後3時頃から、アラビア語のテレビが入り出した。アル・ジャジーラだか、アル・アラビアだかわからないが、よくない宣伝放送である。漫画じみた怪物がまず現れ、その底からアメリカ軍の戦車や、兵士が浮かび上がる。その放送を繰り返し繰り返しやっている。私はアメリカがイラク戦争をしかけたことには反対だが、アメリカはイラクに大量破壊兵器が見つからないことを正直に認めた。怪物ではない。
 今日は金曜日。夜私たちのサヨナラ・パーティーを開いてくださる。事前にプログラムが届けられた。「アルビダ」号の船橋から撮った写真が表紙、その次に船員全員の名簿。最後のぺージにはすばらしい詩の一節も記されていた。
「おお神よ、海はあまりにも広大で、
 そして私の船はあまりにも小さい」
「誰の詩ですか?」と私は尋ねた。
 ケビン・コスナー主演の映画『十三日』の中にあったのだという。すばらしいセンスのあるフィリピン人乗組員たちである。

 ギターつきのコーラスとビンゴもやって、大騒ぎ。私は芸者模様のキモノ風ナイトガウン2枚を景品として寄付。こういういいものはシンガポールでしか売っていない。

 8月21日
 最終目的地のラスラファン港の接岸は22日午前7時となっている。船はその時間に合わせて、速度を調節する。漁船が多くなってワッチの神経は張りつめる。機関部ではタンク内の温度を接岸時までにマイナス161・5度に下げるように微妙な調節を始めているはずだ。アッパーデッキの燃料取り入れ口の整備作業。船員は明日上げる国際信号旗を用意する。まず白とエンジ色のカタールの旗。商船三井の社旗。赤の燕尾旗(危険物搭載中を示すB旗)。赤と白の「水先案内人乗船中」を示すH旗。
 船橋にハエ2匹。山田さんは水鳥と蝶を見たという。午前10時45分、トンボ1匹が一瞬船の前で停止するような飛び方を見せる。この地点は、オマーンヘ45キロ、イランヘ55キロ。
 午前11時23分、ホルムズ海峡に入る。海峡の西側の土地の1番突き出た所は、オマーンの飛び地である。
 11時35分、不思議なモーター・ボートの二群に出会った。オマーン側からイランヘ向けて、どちらも5隻ずつ。隊を組み、乗組員は2人ずつ。しかも船は空船で、まるで競艇のような速さで、本船の前を凄まじい速度で横切った。無理をして横切るような感じである。
 常識で考えれば、これらの船はイラン側から何か不法な品物を積んで再びオマーンに帰る時、「官憲」に追いかけられても逃げ切れるための速度を持っている、と考えるより他はない。急ぎのお客を乗せる船タクシーとも思えない。
 午後、大きな丼でおやつにぜんざいが出る。今日で航海も終わり。夕景のウィングに出たら早くも猛烈なアラビアの暑さが覆っていた。
 夕食の時、改めて「アルビダ」号の皆さんに深くお礼を申し上げる。明日私たちはラスラファンに着くと、そこから100キロを車で飛ばして首都のドーハに出る。夜の飛行機でアラブ首長国連邦のドバイ経由、乗り継ぎの夜行便でシンガポールヘ向かう。
 しかし驚いたことに「アルビダ」号の乗組員たちは、ドーハにさえ行ったことがない、という。日本のどこかの港から15日かかってラスラファンに着くと、厳戒体制の中で約24時間で液化天然ガスを積むとすぐ出航。15日かかって日本のどこかの港に着くと、そこでまた24時間かかって液化天然ガスを降ろす。そこでも自宅に帰ることさえできない。そして再びカタールヘ向かう。それを繰り返すこと、長い人では10ヶ月。船の生活はそれほど厳しい。そうした人々の人知れぬ誠実な働きのおかげで、日本のエネルギーは確保されているわけだ。

 8月22日
 5時30分、目覚めた時には、船尾の遠くに小さく「夕陽色の朝日」が上っていた、と私はメモに書いている。「夕陽色の朝日」とはおかしな表現だが、赤い熟柿色の力ない太陽で、夕陽みたいだ、と思ったのだろう。デッキでは水夫長が昨日用意していた国際信号旗を上げていた。マストに上がっている時には小旗のように小さく見えるが、実は矩形の短い方の1辺が、ゆうに1メートルはある。そして旗はボロボロだ。旗はボロボロの方が美しい、とその時初めて思う。
 5時45分、おもしろいものを教えられる。海の1部に深い藍色の渦ができていて、それがこちらへ走って来る。魚群だという。この辺の海は浅くて水深も45メートル以下になっている。上げ潮下げ潮は激しくて、潮流は最大2ノットに達するという。
 それから船内検査。麻薬、銃器など持っていないか、船室が片づいているか、を日本人士官たちが調べるのである。フィリピン人たちの船室はきちんとしている。それに比べて日本人の部屋は雑然としていて、必ずダンボール箱が積んである。
 舵手が久しぶりに小さな舵の前に立ってマニュアルで舵を取り出した。
「スターボード、テン」
「スターボード、テン、サー」
「ミジップ(船中央)」
 6時、半速。6時12分、極微速。後進テストのために7ノット以下に速度を落とす。いつでも後進をかけて止まれるような態勢を整えるテストである。
 6時20分、海図台の上の海図は、ラスラファンの港だけを拡大したものに替わる。
 6時22分、エンジン・ストップ。水先案内人乗船のための舷門が下りる。
 6時35分、H旗。
 6時50分、パイロット・ボート近寄る。鮮やかなブルー・グリーンの船である。水先案内人自身が本船にボートを寄せる指示をして、54分、水先案内人乗船。英語を話す白人である。

 まもなくけなげな4隻のタグボートが取りつく。押したり引いたり。山田さん「なるほど、タグはまず船に寄り添ってからキスをするんですね」。つまり押す前に本船と平行に寄り添ってから徐々に船尾を遠ざけて、頭だけで押す姿勢になる、ということだ。
 笑っている間も暑い。やっと地上波で電話をかけられるようになったので、止まったようにのろのろと進んでいる船上からシンガポールの家に極めて手短な第一報を入れる。
「今、ラスラファン着いた。港と遠くに工場やパイプラインが見えるだけ。暑い、カンカン照り。草木1本なしのところに、煙突で火を燃してあっためているから、ますます暑い」
 3本の煙突で、ボイルオフしたガスを燃やしているのである。
 港には全く緑は皆無。日本の自然は、天国のようだ。
 皆部署についているので、最早ご挨拶もできないまま下船。港の建物の1つで入国手続きをして、商船三井の関係者に会い、カタール石油の広大な工場を見学した後で、ドーハに向かった。途中はまっ平な土漠。65万人の人口とは言っても、全員がカタール人ではなく、外国から働きに来ている人も多い。正真正銘のカタール人は、デシダーシャと呼ぱれる白い長着の上に、白いカフィーヤという頭巾をかぶっている。どちらも純白。
 ドーハでは海沿いのしゃれた魚料理屋で、スズキやらエビやらを頂く。私は肉料理が好きだからケバブ。それから新しいショッピング・モールでアイススケートをしている子供たちを見た。古い市場では、1500円でカバンを買って、ワープロの徽の生えた古いケースを捨てた。深夜ドバイのだだっぴろい空港を延々と歩き、無事、シンガポール便に接続。

 8月23日
 昼過ぎ、シンガポール着。
 夜はシンガポールの商船三井の方たちと帰国ご報告の食事。話すとおかしくて楽しかったことばかり。

 8月24日、25日
 太郎夫婦、マレー半島から帰って来る。私も忙しかったけれど、この2人も出入りが激しい。家の片づけとカバン詰め。洋服屋のミス・オーヤン、仕立て上がったものを持って来てくれるが、上着が少しだぶだぶでサイズを直してくれる、という。
 庭の木で初めてリスを見る。20メートルくらいの高さまで木登りをしていることになる。オオサイチョウもひさしく来ないので、もう死んだかと思っていたが、私の留守にばさりと羽音を立ててやって来たというので嬉しい。

 8月26日
 前々からの約束で、陳勢子さんと私たち一家4人とで、ベトナムのホーチミン市へ行くことにした。前回ベトナムヘ行ったのは、1973年のパリ和平協定署名直後だった。
 日本の新聞が「これでベトナムに平和が来た!」という調子の論調で書いている時に、1人のベトナム人は言った。
「なあに、ほんとうの平和なんてものはないですよ。ただ、波みたいにちょっと穏やかな時と、少し荒れる時とがある。今はちょっといい時になったかなということです。それが歴史ですよ」
 事実その後に75年のサイゴン陥落まで、ベトナムが「これで平和になった」ことはなかった。
 それから30年ぶりの訪問である。
 空港を出るまでにたっぷり1時間。入国管理官の仕事の遅さにも帽子の高さにも、まだどことなく社会主義国の香りが残っている。
 昼ご飯は町中の観光客専用のようなレストランだったが、お好み焼き、釜飯、生春巻き、牛うどん、すべておいしい。ベトナム料理はフランス料理と中国料理の間のハーフだから、昔からすばらしい芸術だった。
 午後は昔の大統領官邸「トンニアット宮殿」へ行く。私はここへ来る前に、以前駐ベトナム日本大使だった矢田部厚彦氏の『ヴェトナムの時』という名著を読んで来た。私は感動した個所に赤線を引かないと気の済まないたちだった。これは本を汚すことで申し訳ないとも思うのだが、この赤線が多ければ多いほど感動も深かった印だし、私の思想的血肉になったということになる。氏の著書は、どの頁も真赤になってしまった。
 その中で、氏はサイゴンについてこう書いておられる。
「B52の猛爆撃に耐えた、忍耐強く、農本的なハノイは、貧しくも英雄的であるが、サイゴンには、米国と傀儡政権と資本主義に身を売った娼婦の過去があり」
 何という簡潔で正確な表現だろう。その町にうしろめたさがあるからこそ、私のような者が心惹かれるのであろう、とこの明晰な書物は教えてくれていたのである。(以下次号)
 



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