共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ゴジラの卵船  
コラム名: 私日記 第58回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2004/10  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   2004年7月14日
 正午、『毎日新聞』の連載でお世話になっている学芸部の方々と、レストラン「アラスカ」でおいしい昼食を頂く。今日の掲載分がちょうど、主人公・鳥飼春菜の大きな心理的な転機になった場面である。明日から次の人生が始まる。

 7月15日
 午前11時、新宿のホテルで石原慎太郎東京都知事とテレビの録画撮り。「都知事はちゃんとお化粧の下地塗りだけはしてくださるんですよ」とメイクの女性が喜んでいるから、「だって昔は文士劇をしたんですよ。石原さんが助六で、私が揚巻をやったんです」
 と教えた。三島由紀夫さんが意休であった。
 日本財団に帰って、国土緑化推進機構の説明を受け、河出書房の太田美穂さんにひさしぶりで会う。
 夕方5時から、海洋に関する勉強会「ワカメの会」の会合を8階ダイニングルームで行う。名前は少し貧相で見場が悪いが、栄養と知識はすごい、ということになっている。

 7月16日
 正午出勤。国土交通省新旧官房長、お見えくださる。こちらが伺うはずなのに、きっと私が小説にかまけていて適当な日時を失したからだろう。
 午後3時、再び「船の科学館」へ。
 1992年、フランスで再処理した核燃料のプルトニウムを日本に運んで来た1隻の船がいた。「あかつき丸」である。この船は、グリーンピースなどの追跡や各国の入港拒否などを避けて約3万キロの無寄港航海を果たした。海上保安庁の巡視船「しきしま」がその護衛に当たった。私はその航海の現実に沿いながら、しかし主人公たちは全くの創作で『陸影を見ず』という作品を書いた。
 その「あかつき丸」を100分の1の大きさに正確に縮小して、僅か60日近くの航海の間に模型に作った船員さんがいた。その模型が、核燃料サイクル開発機構から日本海事科学振興財団の「船の科学館」に引き渡されて、入館者に見てもらうようになったのである。
 小さな式の間に、私は制作者が今日出席していないことを考えていた。そのことにも私はなぜか美しい自然さを感じた。その方にとっては作ることが目的だったので、後の作品の行き場所については、さして関心がなかったのであろう。小説も同じである。
 その後に引き続き、第8回海洋文学大賞贈賞式が行われる。「船の科学館」のプールは今日がプール開きだそうで、まだ人はまばら。玄関で清子内親王殿下をお迎えして、会場のマリン・ホールヘ。内親王さまはほとんどお化粧というものをしていらっしゃらないように見えるすがすがしいお顔である。
 今年大賞に高頭聰明氏、海の子供文学賞に菅原裕紀氏、特別賞に柳原良平氏が決まった。柳原氏が受賞してくださったことは皆喜んでいる。内親王さまのスピーチは毎年、ご体験をきちんと踏まえて、ご自分で書いていらっしゃることがよくわかる内容の濃い文章である。

 7月17日〜19日
 夏の巡礼に出発する日も迫って、まだ荷物はほとんどできていない。美容院で髪だけはカットしてもらい、後はマッサージに専念。足の裏の腫れが引いてしばらくしたら、今度は2日間だけ凄まじい蕁麻疹麻疹になった。今度はどんな「黒いヒミツ」が吹き出るか、と思うと怖いくらいだ。

 7月20日
 歌舞伎座で猿之助のお弟子さんたちによる『修善寺物語』と『桜姫東文章』の上の巻を観る。かなり痛快な暑さ。長谷寺の僧、清玄の市川段治郎は長身、頭が小さく、昔の歌舞伎の俳優さんにない体格。不気味さもよく出して新しい世代の台頭であろう。
 帰り道、講演に行くという朱門(夫)地下鉄を途中で降りて、私は帰宅。

 7月21日
 朝から出勤。執行理事会で、三条、高岡、福井などの水害の復旧支援に出たボランティア支援部から報告を聞いた。日本にも確実にボランティアの活躍のネットワークができている。
 午後4時、社会貢献支援財団の今年度の表彰を受けてくださる方を決める選考委員会。
 審査員(複数)が常識的な発想に縛られていないので、笑いが絶えない審査会である。時に厳しく痛烈に、時にほろりとしながら、選考基準の眼が変わったことも認めつつ、比較的短時間にすんなりと決定して、肩の荷を下ろした。今日は12時間くらい財団にいた。

 7月22日
 朝から雑用に走り回る私を、窓の外のアサガオ(実は改良種で半分ヒルガオ)が覗いている。『Voice』の日記の原稿をできた分から送る。夜、小杉馬里(朱門の姉)が食事に来てくれた。

 7月23日
 毎年行っている障害を持つ方たちとの第21回目の旅行。

 今年のコースは、シンガポール、オーストラリアのパースとエアーズロックを巡った後、再びシンガポールに戻る日程である。信仰の場所とはあまり関係がないが、共に助け合って生活するのが旅行の目的である。それに今年はヨーロッパのどこもアテネ・オリンピックの流れで人がいっぱい。それならいっそのこと涼しい南半球に行こうということになった。
 今年は指導司祭の坂谷豊光神父以下、42人。
 あまり大きな声では言えないが、私が一生懸命準備したのは、魂の問題ではなく、シンガポールでの食事をおいしいところで食べて頂こうということであった。常識的な観光ルートに載せると、「有名で高くて不味いレストラン」へ行ってしまう。その為シンガポール在住の友人の陳勢子さんに旅行社の現地オフィスの人と、私たちの行くレストラン全部に行って中国語でメニューを決めてもらった。業者さんも儲けなければいけないが、安くておいしい献立というものが、中国料理なら必ずあるのである。
 私はこれから約1月以上、日本に帰らないので、昨夜は連載の資料を集めるのに、少々くたびれた。自分の衣服と薬だけを持って旅にでかける日を憧れている。
 シンガポールで、関西空港から来た組と無事落ち合い、今夜はブラス・バシャス通りの力ールトン・ホテル泊まり。同じホテルの「ワー・ロック」というレストランで最初の食事。皆おいしいので喜んでくださる。

 7月24日
 9時半のカンタス航空機で、パースヘ。
 ホテルに入る前にていねいに市内をドライブしてくれた。
どのビルも貸室の広告だらけ。不景気なのかなあ、と思う。キングズ・パークの植物園を歩いて、この土地独特の植物であるカンガルー・パウやバンクシャの花を見てもらう。私はここにバウバブという『星の王子さま』に出て来る不思議な木の赤ちゃんが生えているのを見てもらいたくて、皆を少し歩かせてしまった。
 ホテルはインターコンティネンタル・バースウッド・リゾート。市の郊外にある豪華ホテルなのだが、イベント会場やカジノと繋がっていて、落ちつきなくやかましい。部屋の趣味はまるっきり連れ込みホテル。私は小説で連れ込みホテルのことを書いたことがあって、その時から「通」なのでぴんと来るのである。経営者が日本人だと聞いて納得が行った。
 しかし空気はよくて気持ちいい。

 7月25日
 朝セント・メリーズ・カテドラルでこの旅最初のミサに与った。空気が透明で輝いている。梢にはまだ春の兆しは遠い。私は薄いヤッケを着ているが、それでちょうどいい。今日はパースの北方の砂漠で「ピナクルズ」と呼ばれている場所を見に、1日600キロほどをバスで走る。道ばたにワトルと呼ばれる黄色い花が咲いている。ガイドさんの女性は、気分のいい賢い人で、植物の生態系に山火事も必要だという話や、隣まで60キロある農園では子供たちをとても学校に通わせられないので家庭教師をつける話や、オーストラリアからサウジアラビアに羊を10万頭1隻の船に積み込んで行く話など、この大陸生活の匂う話をしてくれる。10万頭積み込むには昼夜ぶっ通しで1週間以上かかる由。
 途中海岸の近くの砂漠で、観光用の不思議な巨大四輪駆動車に乗った。サンドバギーと呼ばれるものらしいが、20人ほどを載せて砂丘を駆け登り、走り下りる。わざと重心を上げて揺れを大きくしてある。ほんとうの砂漠走行のための必要性とは大きくかけ離れた車だが、乗客には評判がいい。確かにこの方がローラーコースターよりおもしろいし、私はこれだけ揺られると腰痛が治る、と実利的である。
 セルバンテスという田舎の町外れで食事。脂身のないステーキを食べて三浦朱門は「これは日本で食べられないおいしさだ」と喜んでいる。
 ピナクルズは高さ3メートルほどの石灰岩の像のような岩が砂漠のあちこちに立っている広大な地域である。すぐそこは心躍る青い海。空気は美味。この奇観を初めて見つけた人は、遭難した船の乗組員たちで、助けを求めて陸路を歩いていて、この不思議な地域を発見した。一時代前の探検や旅行は、命の危険と引き換えだがロマンもまた大きかった。
 帰路、灌木の中にエミュとダチョウを見る。午後7時、ホテルに帰着。煩くて落ちつかないホテルだが、中国料理はおいしい。

 7月26日
 オーストラリア大陸のまさに中心にエアーズロックという巨大な岩がある。そこまで飛行機で行く。BAe146というおもしろい四発ジェット機である。

 荒野の中と言いたいところだが、今年は6月初めに2日続きの雨が降ったので、こんなに緑が多いことは珍しいとのこと。岩はアボリジニと呼ばれる先住民の聖地である。ここのガイドさんも真摯で感じはいいのだが、その話す日本語のおかしなこと。どうしてこういう言葉が定着したのだろう。そしてどうしたら直してもらえるのだろう。おそらく無理だろうが。
 夕方、エアーズロックに夕陽の落ちるのを見る。巨石が次第に夕闇に包まれて、死相を帯びてくるのはすさまじい。

 7月27日
 朝、皆はまだ暗いうちに日の出を見るために出て行ったが、私はホテルで原稿書き。帰ってきた人たちの中には、寒くて「凍傷になるかと思った」という人もいた。
 午後の便でパースへ戻る。

 7月28日
 町中のビルの2階にある「諸聖人の教会」でミサの後、フリーマントルヘ。港の刑務所跡や古い町並みなどをゆっくり歩いて日差しの透明さを満喫した。空港への途中の海岸の「インディアーナ」という新婚旅行か旧婚旅行に適したような落ちついたすばらしいレストランで食事。ここも陳勢子さんがお勧めの場所である。大きなチョコレート・ケーキはおいしいのだが、ジャンボ過ぎる。
 その後、空港へ。シンガポール着後、皆は前と同じホテルに戻ったが、私たちはナシム・マンションの自宅へ帰った。生活を整えないと、残りの日を、原稿を書きながら暮らしていけない。洗濯物を洗濯機に放り込む。

 7月29日
 朝7時、皆さんが宿泊中のホテルの斜め前の「よい羊飼いのカテドラル」でミサ。その後、グループはセントサ島の観光にでかけられたが、私はナシムの家に帰った。連絡のファックスの紙が羊を飼えるほど溜まっていて、お急ぎのところばかりだから、仕方がない。昼食のコプソーン・オーキッド・ホテルで合流した。
 ここも陳勢子さんのメニュー。とにかく皆さんに、生涯で1番おいしいと言われるお料理を差し上げようという意気込みである。
 お魚に煩い長崎県人2人(その1人が坂谷豊光神父さま、もう1人は日本財団職員)から「おいしい」と言われたというので、朱門も喜んでいる。ここで一応感謝とお別れの会。いつも思うことは、障害や病気を持っておられる方がいらっしゃるから、グループがこんなにまとまるのだということ。来年は、何とかしてイスラエルヘ行きましょう、ということになる。「来年はエルサレムで」という挨拶は、まさしくユダヤ人の悲願の言葉である。
 その後、私は皆さんのお買い物の手伝いをするつもりだったのだが、皆さん自分1人でいらっしゃれそうなので、一旦自宅へ。
 夕方関西組は、夕食を食べた後、そのまま空港へ行かれるので、東海岸の活魚料理屋へ。蟹のチリ・ソースや、伊勢海老のおそば、など、食べきれないほどのごちそう。雨が降り始めた中を、関西組、明日発つ成田組のバスを見送って、私たちはナシムの自宅へ帰った。

 7月30日〜8月2日
 シンガポールにずいぶん長く来なかったので、その間に古いファックスが壊れた。勢子さんが新品を買っておいてくださったが、テレビは映らない。別にオリンピックを見たいわけではないので、太郎(息子)夫婦が着いてから買ってもらうことにした。私の趣味としては、1鉢たった800円の蘭を買いに行くくらい。
 2日夕方、太郎と暁子さん(息子妻)が着いた。「お米10キロ持ってきて」、と言ったのを背負って来たのだという。重かっただろう。

 8月3日〜8月10日
 12日から、商船三井のご好意で、カタール行きのLNG(液化天然ガス)船に載せて頂く。カタールのラスラファン港まで、9日間の船旅である。私はぼそぼそと持って行く荷物をまとめ始める。1番大切なのは、どんな読本を持って行くか、ということだ。帰りはカタールの首都ドーハからアラブ首長国連邦のドバイに出て、そこからシンガポール行きの飛行機に乗り換えて帰ってくるのだから、あまり重いものをたくさん持ち込みたくない。しかしいつも私の大荷物を嫌がる朱門は、デカルトを持って行けとか、勝手なことを言う。「デカルトは悪訳の上、重いからいやです」と言うと、「10万トンだ。本の1冊や2冊問題じゃない」と反論する。
 9日の日だけ、太郎夫婦と付き合って、クランジの競馬場へ行った。なかなかきれいな競馬場である。しかし私は賭け事にはすべて本気になれないので、やれぱ必ず損をする運命になっている。
 その日私がおもしろかったのは、「ナマコ」という名前の馬がいたことだ。海のキュウリがナマコである。暁子さんに言わせると、お尻が小さくてどう見ても勝てる馬ではないという。おそらく中国料理に欠かせない干しナマコ屋の社長が、大金儲けて買った馬に違いない、と勝手にストーリーを決めた。しかし「ナマコ」はやはり勝たなかった。

 この間に、4日には時事通信社の「シンガポール・トップ・セミナー」で講演した。主にマラッカ・シンガポール海峡の保安のために日本財団が何をしているかということだったが、私のことだから当然脱線した部分のほうが多かった。
 9日には海上保安庁の訓練船「こじま」がセントサ島へのケーブルカーの通る真下の海面に接岸していてレセプションがあったので、伺う。世界一周してきて日本への帰路である。女性の練習生とも長くおしゃべりをした。海が好きで一生続けたい人がいてくれるのは、希望そのものだ。

 8月11日
 日本財団から山田吉彦・海洋グループ長到着。
 いっしょに積み荷の買い物に行く。チャイナタウンのデパートでお菓子やカップ麺、高島屋でチョコレート、月餅など山のように買い込む。陳勢子さんが燥製の鴨を4羽注文しておいてくださった。1羽は留守中食べる予定で、3羽を冷凍しておいて、明日カタール行きの船に積み込む。なあにどれだけ嵩張っても10万トンだから大丈夫なのである。
 夜は、関係者と会食。

 8月12日
 11時にケッペル港の1部に行く。そこから40分ランチで走って錨地に泊まっている「アル・ビダ」号に行く。どれが「アル・ビダ」かと眼を凝らしていると、遠くに巨大なLNG(液化天然ガス)のタンクを5個積んだ船が見えて来た。私が密かに「ゴジラの卵船」と呼んでいるタンカーである。
 初めの計画では7ノットに減速した船へ、代理店のランチからお互いに走ったまま乗り移る予定だったが、今回は船が停まってくださっているので、少し安心。ただ舷門はかなり急勾配になるからと言われていたが、私は高所恐怖がないので、16メートル上の甲板上まで昇るのは別に怖くなかった。
 船蔵和久船長以下乗組の皆さんにご挨拶。士官は三等航海士と三等機関士以外、8人全員日本人。後の甲板部、機関部、司厨関係は24人全員がフィリピン人。長年乗り込んで訓練も積んでいて、信頼関係ができているメンバーらしい。
 10万トンは船の長さも約300メートル。誰にとっても「うちから駅まで」くらいの長さがある。エレベーターは1番下から、船橋まで12階。
 この船はカタール・プロジェクトに属する10隻の日本船籍船の1隻で、2021年まで毎年600万トンの液化ガスを日本に運んで、電力5社とガス3社に供給している。15日間走ってカタールに着き、1日でガスを積み込み、また15日走って日本に帰着。1日で積荷のガスを下ろして食料や水など必要品を積み込み翌日出港する、というローテーションだという。
 5個のタンクにはそれぞれ2万7千立方メートルのLNGを積むのだが、この直径は約37メートルである。その脇を鋼鉄の網を床に張った点検用の道ができている。走り出して天候が悪いと、強風でこの上を歩けないこともあろうかと思い、その午後、つまり停泊中にさっそくこの上を歩くことにした。今日はまだ錨地泊まり。明日の朝7時の出航に備えて、身の回りの整理をした。

 8月13日
 13日の金曜日だというが、「きっといいことがあるでしょう」と私は答えておいた。イエスが苦しんで亡くなってくださったのは、人間を救うためである。
 6時45分、出航準備を見るため、オモテと呼ばれる船首へ。途中で若い中国人の水先案内人に会ったので会釈した。「今日は時間通り来てくれたので助かりました」とのこと。
 船首では錨を巻き上げる前に、錆付きを緩めるためだろう、あちこちハンマーで叩いている。やがてコンプレッサーの音が激しくなり、声も聞こえない。錨巻き上げが始まると、錆が散るのを防ぐために放水をし続ける。それでも三等航海士は防塵眼鏡を掛けている。先頭のガス・タンクが霞むほどの挨である。
 ふと見ると、シンガポールの町はまだ夜だった。澄んだ町の灯が静かに見送っている。
 7時5分、アンカー・チェインの音が止み、停泊中を示す黒球が下ろされた。
 7時10分、付近の島が動いた、と感じた。実は船が動いたのである。
 7時20分、水先案内人が下りた。たった10分間のお勤め。迎えのランチが素早く走り寄る。水先案内人はこれから陸へ上がって、熱いピータン入りお粥の朝飯を食べるのだろう。

 7時45分、左舷前方に船首が低い小さな船が近寄って見送ってくれた。日本財団の資金でインドネシア政府に贈った設標船「ジャダヤ(南十字星)」号である。船橋に日本財団の緑色のバンザイ・マークが見える。決して私がわざわざ呼び寄せたわけではない。ちょうどすぐ傍のニパの灯台の補修をしていたので見送ってくれたのだ。こうした船が、狭いマラッカ・シンガポール海峡の船の運航にさしさわりがないように、燈台浮標などの設置や補修をし続けてくれている。「ジャダヤ」に乗り込んで技術指導をし続けてくださっているマラッカ海峡協議会の業務課長、佐々木生治さんから16チャンネルを通して声が入る。
「お元気で行っていらして下さい」
「そちらこそ、お暑いのにご苦労さま。よろしくお頼みいたします」
「アル・ビダ」の船橋は海面上45メートル。ビルの上から見下ろしているようなものだ。一方「ジャダヤ」は船縁を海水が洗っている。恥ずかしく思う。しかし「ジャダヤ」のインドネシアの乗組員に、10万トンの堂々たる日本のLNG船を近くから見せるのも悪くはないだろう。「ジャダヤ」の船長も顔見知りの仲である。
 9時30分、「アル・ビダ」は19・24ノット。両岸見えず。しかし船橋には、思いがけずインドネシア側の野焼きの匂いが漂った。(以下次号)
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation