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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: セザンヌの描いたシャツ  
コラム名: 私日記 第57回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2004/09  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2004年6月6日
東京駅に近い八重洲富士屋ホテルで、「八丁堀会」、つまり2年に1度開かれる従兄姉会に出る。私の父方の本家は京橋八丁堀の出なのである。一族に東大などを出た秀才も皆無ではないのだが、特徴は律儀で正直なこと。善良で平凡な庶民の遺伝子が濃厚にあるということである。遺伝子というものは選べないものなのだから、あまり破壊的でない限り、国家社会にとっていささかでも役に立つことをよしとしなけれぱならない。

6月7日
35歳の時、白血病で亡くなった大学の同級生、尾関節子さんの37回忌に出席のため沼部駅近くの東光院へ。あれからの37年間に、世界は信じられないくらい変わった。亡くなった友に見せてあげたかった日本の変貌である。当時まだ幼児だった次男がアメリカ人の妻を得て、かわいらしいハーフのお嬢さん2人。これも見せたかった家族の姿だ。子供たちを育ててくださった後妻さんに我々同級生は深く感謝し続けて来た。

6月8日
奈良で奈良新聞政経懇話会のために講演会。それから大阪で大阪防衛協会設立40周年記念のための講演会を済ませて、遅い新幹線で帰京。まだ1日に2回の講演を立ってできる。さして疲れないから「いいんじゃないかなあ」と独り言。

6月9日
日本財団へ出勤。賞与支給の前に短い挨拶。話が長くなったら惚けの始まり、と思うことにしている。するとスピーチが短か過ぎてあの人はサービス精神がない、と言われるかもしれない。しかし一般的に言って、惚けよりサービス精神がない方がいいと思うが。
11時、国際部の事業説明。
12時、集英社、永田仁志氏。『狂王ヘロデ』を文庫にすることについて。
午後1時、日本財団のホームページに関するミーティング3時から海上保安庁政策懇談会。
6時、資生堂のレストラン・ロジェで日本財団評議員、鈴木富夫氏と会食。夫人晟子さんを亡くされてから初めてお会いするので、最後のご様子を直接聞きたかった。でも外見はお元気。内側は他人の踏み込めない聖域。

6月10日、11日
休み。淋巴マッサージ。溜まった英字新聞を読む。『毎日新聞』の連載を数日分。

6月12日
水沢江刺へ。そこから車で金ケ崎町町民総合大学で講演。この町の名前は「金が先」と覚えるといいのだそうだ。ユーモアのある話は楽しい。

6月13日、14日
暇があれば『毎日新聞』の連載を書く。1日の原稿は約2枚半。100万人を殺した虐殺のクライマックスの場面にかかっているが、これは歴史書ではないのだから、決して総括的、全体的にではなく、極めて狭い視野を守って主観的に書かねばならない。その自制が必要、と自分に言い聞かせている。
14日の夜には、南アの根本神父さまが食事に来てくださった。

6月15日
日本財団へ出勤。執行理事会。
カメルーンでお世話になった国枝昌樹大使、おいでくださる。「アフリカの貧困を学ぶ会」の旅行の時、親身にお世話になったことのお礼を申しあげ、せめてわが社員食堂の350円のランチ(なかなか評判はいいのだ)をごいっしょに召し上がって頂こうと思ったのだが、健康診断の前日とかで、ご持参の特別スープのみとのこと。こういう大使がたくさんおられると、アフリカ政策も適切に的を絞れるのだろうが。
午後上智大学のローシャイタ神父さま。日通旅行の横田和美さんと、今年10月のアフリカ旅行のスケジュールを作る。どうせジンバブエに行くなら、ヴィクトリア湖を皆に見せてあげたいが、ジンバブエの援助先の正確な場所がわからないので、行けたら行くことにした。夜は聖心の同窓生の関屋英子さんと帝国ホテルの鮨源で何年ぶりかの会食。

6月16日
朝8時、産業労働懇話会の朝食を兼ねた会議がキャピトル東急で行われた。直ぐ日本財団に戻って、10時から12時半近くまで、事業評価報告をR&D社((株)リサーチ・アンド・ディベロップメント)から受ける。日本財団が助成金を出している数ヶ所を毎年選び、その事業が有効に行われているかどうかを第三者に調査してもらうのだが、その調査会社である。
こういう会社も日本ではここ1社なら、こういう制度を使っている組織もまだ日本にはごく少数だという。アメリカなどでは、この制度はあるのだが、依頼主の社長に対するおべっか報告的要素もあるといわれ、結果がよくない、という内容だと依頼主が怒って頼まなくなるので、たいていは依頼主を喜ばせるような報告になるという。私は日本財団にいいような粉飾報告を受けたら、逆にすぐ「ご縁を切ります」とオドカシテあるから、毎年きちんと真実を衝いたレポートが出るように思っている。
3時、日本学生支援機構の沖吉和祐氏。

6時から、お台場のホテル・メリディアンでアジア全域の海上保安機関長官会議が行われたので、そこで短いご挨拶。日本財団は会議開催費用として1260万円余を出している。石原国土交通大臣は欠席、祝辞もなし。代わって総理の祝辞が用意されていた。今日日本に集まった17ヶ国のコーストガードの長官や上層部は、日本のタンカー輸送を安全に行う上で、実に有効な人々だと思うのだが、大臣はそれを完全に無視している。何を考えているのだろうか。
出席者たちの中には一見してどこの国の方かわからない人もおり、「ようこそ」と日本語で言うと外国人、英語で言ってみると日本人で、何度も恥をかいた。私はどうも人一倍勘が悪いらしい。インドの代表と少しお喋りしたのだが、後でゆっくり頂いた名刺を見たらメータというお名前。かの有名な指揮者のズービン・メータのご親戚に違いない、多分ムンバイの拝火教徒で、ダイヤモンドを扱う財閥だろう、などと小説家は想像がたくましい。つまりその場で伺えばよかったということ。
帰りに秘書課の星野さんと運転手の中島さんとで、近くのレストランで中型のエビの丸焼きを食べて帰った。

6月17日、18日
お休み、淋巴マッサージ。

6月19日
朝8時半の飛行機で、青森へ。日本財団と笹川医学医療研究財団、ライフ・プランニング・センターの主催で「死を想え」という講演会を毎年各地でやっている。日野原重明先生が毎回、いいお話をしてくださるのだが、今回は私が前座を勤める。
飛行機着陸寸前の山の緑に感動。何という見事な山河を持つ国だろう。
今日は、私との往復書簡の本、『別れの日まで』の中でお付き合いくださった尻枝正行神父さまが書かれた手紙の部分から、人間が死ぬまでにどれだけ穏やかで充実した生を選びとったかという幾つかの話を、コピーして持って行ってお聞かせした。
尻枝神父によると、セザンヌは生前その才能をほとんどパリの画壇で評価されなかった人だった。「私はこの世で習性に逆らわず、時の法則に身をまかせて年老いてしまった人間の姿を見るのが、何より好きだ」というセザンヌの言葉を、神父は引いている。晩年は好んで老いた百姓や職人を描いた。庭師のヴァリエー老人もそういう意味で彼のモデルの1人だった。最後の絵が出来上がった時セザンヌは「どうやら、やっと(ヴァリエーの)シャツがうまくかけたようだ」と言って死んで行ったという。その謙虚さを神父は愛され、「私たちの人生も、そうあってほしいですね」という言葉で、ささやかに満たされた人生を示しておられる。

6月20日〜22日
嵐模様だが、ほんとうにひさしぶりに三戸浜の家へ行った。夜になると冬のように遠くの海岸の灯火が見えた。
21日には、この問のサマワの女性教師の来日に力を貸してくださった日本財団関係の方々がせっかく魚を食べに来てくださったというのに、魚屋はしけでいい地魚はなく、暴風雨というほどではないが、雨が降って散々な日。
庭のかぼちゃが大きくなっている。トマトも取れ出した。ブーゲンビリアは雨がいやだ、と言っている。

6月23日
夜、笹川陽平理事長、尾形武寿理事とうちうちの連絡会議。私はカトリックだが、日本文化の中心としての伊勢神宮の、後9年に迫ったご遷宮支援をしたいと提案しておいた。

6月24日
午後、飛行機で札幌へ。天使大学の公開講座に出る。天使大学は、マダガスカルで働いておられるシスター・遠藤能子さんの母校でもある。

6月25日
午後、マッサージを済ませて、早目の夕食を食べてからバレエを見に行くつもりでいたら、足の裏に痛みが来て、一歩も歩けなくなった。淋巴マッサージの一種のリアクションだとわかってはいるのだが、家の中も歩けない。しかたなく外出はやめにして家で寝ることにする。

6月26日〜28日
朱門は、足の裏が痛いなどというのはおかしなことだから病院に行け、としきりにいうが、私は痛みは徐々に取れると確信しているので、ただ怠けて家にいた。

6月29日
果たして出勤日までに足の裏の痛みはきれいに治ってしまった。この健康さが、私の悲しい素質である。靴もきちんとはいて普通に歩くから、昨日までかなり深刻な不自由を忍んでいたことなど、誰にもわからない。
今日は1日忙しい。退職金を渡し、アフリカ旅行の財団職員の顔合わせ。ついで東京財団主催の「虎の門DOJO」でイラクについてのパネル・ディスカッションに出る。
終ると2時半からニューヨーク・シティマラソン・レースディレクターのアラン・スタインフェルド氏の一行が来訪。

4時、イスラエル大使、エリ・エリアフ・コーヘン氏がいらっしゃる。「『エリ』というのは神ということでしょう、すぱらしいお名前ですね」と言うと「私の神」という意味だと教えてくださった。今東京で、柔道などの道場を開いて小さな子供に教えておられる、という。今度イスラエルについて、ご講演ください、とお願いしておく。
夜は国立劇場で『フォルスタッフ』を観る。

6月30日
昼に東京会館で聖心女子大学の卒業50周年の記念クラス会。「部屋の入り口にそう書いたりするから、年がばれてるわよ」と皆をオドシたのだが、誰もあんまり気にしていないらしい。3人のシスターも珍しく出席された。大阪組が途中で新幹線の遅れに捕まって、車中から何度も電話がかかる。
3時から、生命倫理専門調査会。答申の意見が対立してどうにもならない。真っ向から対立して譲らない科学者の意見を「調整する」ことなど、誰にもできないだろう。

7月1日、2日
三戸浜。ひたすら『毎日新聞』の連載を書く。その間に思いついたようにブーゲンビリアの手入れなど、これは庭仕事ではなくお遊び。早く「現役の半端人足」復帰しなければ。

7月3日
イタリアから友人のモンティローリ・富代さんが来られているので、新橋の美術倶楽部と渋谷の東急ハンズを覗き、夜はオーチャード・ホールで東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会。「遊んでいればどんどん歩く。書いていると全く歩かない。だから仕事は体に悪い」という偉大な真理を発見して幸福。

7月4日
夕方、皇太子殿下が「日韓友好特別記念」の催しの一環として、日本民藝館でヴィオラをお弾きになる。日本民藝館は1935年柳宗悦氏によって作られた古い建物で、私はまだ見たことがなかった。
今日の演奏者は、皇太子さまのほか、韓国人のピアニスト兼指揮者チョン・ミョンフン、世界的なチェロの名手ミッシャ・マイスキー、ヴァイオリンは東京フィルハーモニー交響楽団のソロ・コンサート・マスターの荒井英治の3人である。昨日の東京フィルハーモニー交響楽団では、チョン・ミョンフンが指揮をしたが、この方のピアノの方が私はずっと好きであった。、ミッシャ・マイスキーはラトヴィア生れで、音楽に詳しいモンティローリさんが、この方の演奏を聴ける私を羨んでいた。
皇太子さまがヴィオラを弾かれたのは、モーツアルトのピアノ四重奏曲第1番ト短調K・478で、とにかく弦楽器をこれだけ弾きこなすということは「皇太子のご趣味」の段階ではない。私は日常生活もご性格もほとんど存じあげないけれど、学究肌でとことん突き詰められる方だろう。何をしても玄人になるご性格だ。だから、どんな困難も大丈夫である。

7月5日
午後、新しいパソコン(私の場合ワープロ機能しか使わない)のプリンターの説明を受ける。日本の電気製品のサービスはなっていない。シンガポールでは日本語のパソコンの修理はできない。リボンも売っていない、という。シンガポールには3万近い日本人がいるのだ。彼らも日本語パソコンを使うと思うのだが、どういうことになっているのだろう。
夜は新国立劇場で『カルメン』を観る。大村博美さんのミカエラに大きな拍手。ここのところ楽しい遊び続きである。

7月6日
日本財団へ出勤。
辞令交付。執行理事会。国際部案件説明。
午後から、『フォッグ・オブ・ウォー』の試写会を見に行く。実録的映画で、マクナマラ元米国防長官の独白が主になっている。映画を観るのは実に数年ぶりかもしれないが、マクナマラという方には、米日財団理事時代に何度もお会いした。イスラム教徒は酒を飲まない、ということになっているが、サウジ王家は飲んでいらっしゃる、と言われたことを記憶している。
夜東京財団の佐々木良昭氏にイラン料理のレストランに連れて行って頂く。六本木の「アラジン」という店。羊の肋肉のローストは絶品だった。
今朝、従兄の大和正道が亡くなった。長い年月、私のたった1人の兄のような人だった。複数の女性を愛し、詩集を身近におき、旅と温泉を愛し、指し物を好んだが、世間的には怠け者だった。日本でなければ実現できなかった生涯だろう。私は晩年の彼に、「そんなことを言っていると奥さんに捨てられるわよ」と身勝手とわがままを諌める役だった。世界に私1人が、彼にとっては女性ではなかったからちょうどよかったのである。

7月7日
前々から約束していた友人たち4人と、青山のありそ亭で
会食。暑い暑い日だったけれど、おいしいものを食べると元気が出る。しかし町中温かい。ヒートアイランドとか言う現象だろうが、ビルとビルとの間に樹木を植えないからである。シンガポールの方が最近では東京よりずっと涼しいのもその違いである。

7月8日
稲毛の光明寺で大和正道の葬儀。「お経も戒名もいらねえのになあ」という声が聞こえそう。彼自身は早く母を亡くして育ててもらった祖母のためによくお経を唱えていた。私はカトリックの「主の祈り」を唱える。故人の娘がお住職に「今年、新盆をしてよろしいのでしょうか」と聞いている。あの世でまだ落ち着いていない人を呼び戻すようなお盆の行事は、今年はしない方がいいとのこと。朱門、それを聞いて「ずっとしない方がいいよ。あんなわがままな人に出て来られちゃ大変だから」と笑っている。

7月9日〜11日
自宅で『毎日新聞』連載を書き続ける。少ない時で9日分くらい。多い時で24日分くらいの先行。しかし新聞小説はスタート前から書き上げてあるという吉村昭氏のような気力はとうてい持ち合わさない。
10日の土曜日には、小説の最後の場面となる状況を確かめるために、朱門にも手伝ってもらって東京駅から田町まで電車に乗ってノートを取る。

7月12日
「船の科学館」の30周年記念のお祝いのためにお台場に行く。前会長が開館漕ぎつけられるまでの苦労話を皆さんがされるのが大変おもしろかった。まだこのあたりは泥々の埋め立て地で地番を言っても誰もわからず、地図もない。仕方なく道を教えるのに「高速を下りたら、イチョウのマークの東京都のゴミ収集車の後をついて来ると、やがて船の形の建物が見えます」と言うと1番よく通じたという。夢の島もまだハエの湧く場所で、「船の科学館」の窓ガラスがハエで真っ黒になった日もあるという。お客さまに1本ずつハエ叩きをお渡しした。そういう時代を経て、今日があるのである。

7月13日
財団に出勤日。電光掲示板原稿選定ミーティング。7月23に出る「障害者との巡礼旅行」の財団メンバーと昼食を共にしながら打ち合わせ。
午後、集英社の永田仁志氏と『狂王ヘロデ』についての打ち合わせ。筑波大学にいらした石田友雄先生に解説を頂いていい本ができそうになった。ほんとうは石田先生ほどユダヤについての物知りはそうそう日本におられないから、厳しい批評を頂いたらどうしようと、びびっていた面もある。しかしこれで読者に対して、せいいっぱい配慮した本ができた。
その後ホームページ『私はこう考える』についての編集会議。
5時、階下のホールでミニ・コンサートをしてくださるテノールの上原正敏氏にちょっとお礼のご挨髪をして、私は急いで自宅へ。今日は海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会の日で、3人のシスター、神父さまお1人、2人の支援者、3人の財団関係者などで総勢16人になった。よく椅子があったものだ。今日、決定した援助の額は、ボリビア、チャド、フィリピンなどに対して1279万4千円になった。(以下次号)
 



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