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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: トマトの水畑  
コラム名: 私日記 第56回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2004/07/09  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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   2004年5月8日
 連休中ずっと東京に来ていた太郎(息子)夫婦は、別に何もせず家にいたが、これが太一(孫)と喋る最高の時間だった。しかし彼らも4日に関西に帰り、7日には私が金沢に出かけた。去年に引き続いて金沢郊外の雑木林にはびこる孟宗竹を切る「竹切りボランティア」に行くためである。ここでは非常にうまく組織ができていて、一般の市民、防衛大学校のOBたち、私たち日本財団職員などが、いっしょに竹切り作業をする。
 7日夜は駅前のホテルに1泊。8日朝、駅前で関係者と集合。
 約200人くらいの人が、10班に別れて、竹林の指定区域に入る。1班ごとにそれぞれ森林組合員の「先生」がつくから、わからないことはこの先生に聞けばいいのである。
 私のような高齢者でもそれなりに雑仕事は必ずあるところがおもしろい。切り倒した竹は2等分か3等分に切り、それを決まった場所に運んで積み上げる仕事など、誰にでもできるが、誰かがしなければならない作業だ。
 もっとも今年は3年目だから、仕事の手順は大体わかる。どの竹から切って行ったら途中でひっかからないか、少しは読めるようになっている。もっとも今年の竹はよく擾ねる。甘く見てはいけない。
 日本財団が1億円を助成した心身障害者の複合授産施設「ワークショップひなげし」からも30人のお手伝いが来てくれた。自衛隊のOBが10人、現役組は9人。土曜日を犠牲にしての参加活動である。瞬く間に、何10年と暗く閉ざされていた森に陽が入り始める。小さなナラ、シイ、クヌギなどの実生の若木が既に弱々しく生えているが、これが来年までには、かなり邊しく育つだろう、と思う。こうした森がいい水を作る。その水が豊かな川の流れを作り、やがて健全な海に奉仕する。金沢の魚がおいしいと言って食べる人は、私をも含めて1日でもこうした森にお仕えする日があっていいのだ。
 夜は、奥様とボランティアに来てくださったニッポン放送社長・亀渕昭信氏夫妻、札幌大学教授・鷲田小彌太氏、画家の新保甚平氏、笹川スポーツ財団専務理事の藤本和延氏などとお寿司屋さんで会食。皆が初対面なのに、30年来の知己みたいな話しぶりに呆れる。

 5月9日
 朝7時半、ホテル発。「ワークショップひなげし」の新しい建物を見せて頂いてから、浅野川病院に同級生を見舞う。長く入院しているのに肌が美しいのにびっくりする。午後1時半から広坂のカトリック教会で講演。「イエスにガール.フレンドはいたか」という話までした。


 その帰路、空港への道で、これも去年財団がパン焼きの設備のための助成金を出した聖ヨゼフ苑に立ち寄って、べーカリーの機械が順調に稼働している様子を見せてもらい、イタリアのジェラート(アイスクリーム)もごちそうになった。この施設をやっているカワルザン・ジォワンニ・クリストフォロ神父は、イタリア人である。

 5月10日
 友人の大れい子さん昼食に来訪。ご主人を亡くされて以来、食べられなくなっていた食欲が、かなり以前に戻ったのが嬉しい。

 5月11日
 忙しい出勤日。執行理事会。マルタ島でお世話になった通訳、佐藤聖子さん来訪。正午からニッポン放送で竹切りボランティアに関する録音。
 午後2時、海の安全を守るための「海守」運動の協力団体会議で二言お礼を述べる。
 3時、商船三井本社に行って、夏に便乗させて頂くLNG船について改めて鈴木邦雄社長にご挨拶。他の商船には随分乗ったけれど、タンカーの体験だけはない私は、約10日間の船旅の体験記を書く予定にしている。
 4時半から、今度サマワから招聰する女性教師の日本での受入れについて、『週刊文春』と打合せ。もし我々もまたイラクに、開放、民主主義、男女同権を望むなら、アメリカのように愚かなおしつけ方をせず、そのような社会を具現している日本を黙って見せることだと思い、小学校の女性の先生を2人、招く企画を出していたのである。
 5時半、読売新聞社会部植木康夫氏取材。長い1日。

 5月12日、13日、14日
 ついこの間ヨーロッパから帰ったぱかりなのだが、19日からまた、ミャンマーの出張があるので、ひたすら『毎日』の新聞小説『哀歌』を書き溜める。首都のヤンゴンにいるのではなく、シャン州という北東部の田舎に入るので、原稿は途中から送れないのである。

 5月15日
 岡山に日帰りで出張。「生と死を考える会」の講演会。

 5月16日、17日
 髪をカットしてもらい、マッサージ。
 朱門「もうそろそろ遠い旅はやめなさい」と説教する。ハイハイ、と口先だけ従順。

 5月18日
 出勤日。財団の中で雑用あれこれ。
 もっともお昼に長い間私の本の装丁を引き受けてくださっている神長文夫氏に初めてお眼にかかり、長年のお礼を申しあげる。『陸影を見ず』という航海小説の文庫の装丁も、最近氏のお手になるもので、この上なく詩情に溢れたものである。果してその表紙に「ひっかかって買った」という読者の方からのお手紙も頂いていたので、そのお話もして「やっぱりひっかけられるんですよねえ。中身より表紙が大切」と喜びを新たにした。
 午後、海軍兵学校76期の方たちの集まりで講演。イラク戦後のアメリカ側と、一部日本人の識者たちの見通しの誤りについてアラブ特有の文化から話す。

 5月19日
 午前11時、JALでバンコックヘ。
 日本財団は、2002年と2003年度にそれぞれ約5000万円をかけて、ミャンマーのシャン州で、小学校の増築や改築計画を進めている。5年間で100校を完成する予定である。そのプロジェクトが大分進んだので、そのうちの1校の完成式、他の学校の視察をすることになっている。こうした企画はすべて国の税金ではなく、モーターボートの売り上げ金の一部を遣わせて頂いているので、施工者側を代表して丸亀市長の新井哲二氏、青梅市長の竹内俊夫氏のお二人と、国際開発ジャーナル社の鳥養珠さんの3人にも参加して頂くことになった。
 バンコックの空港で乗り継ぎの手続きをしていたら、不思議な知人に出会った。数秒間、知っている人なのだがここで会うわけがないと考えている。東京財団の片山正一氏で、驚いたことにバンコック経由で例のサマワの女性教師たち一行をクウェートまで迎えに行って下さるのだという。ここでお会いするとは思ってもいなかった。長い道のりをほんとうにご苦労さまだが、イラク側の7人(宗教指導者2人、医療関係者3人、女性教師2人)にクウェート国境で会い、その場で、ヴィザを発給してもらって、やっと日本に来られる。その世話が必要なのである。イラクとクウェートとの間には、現在国交がないのだそうだが、それでも物も人も動いている。この不思議さを認識することだけでも中東理解は一筋縄では行かない。

 待合室で少しお喋りができて、ほんとうによかった。私たちは夜遅くヤンゴン着。暗い町を抜けてドゥシット・インヤ・レーク・ホテルに入る。床は寄木で年月を感じさせる落ちつき(翌朝見たら、人気のない庭にはココヤシ、痩せたブーゲンビリアが咲いていた)。夜、皆で集まって、日本財団からの駐在員斉藤栄さんなどからこの国の話を聞く。国民のほとんどが熱心な小乗仏教徒。少し雨が降れば町中水浸し、灯火はまぱらですぐ停電するが、軍政で賄賂はなく、自然はこの上なく芳しい。皆それなりに満足して暮らしている。豊かなインフラを整えながら、国民の多くが満足していない日本の政治家は、その理由をもっと徹底して分析するべきだろう。

 5月20日
 朝、出発前に、日本財団評議員・鈴木富夫氏夫人、晟子さんの計報が届く。数年前、車椅子の晟子さんと、「聖地巡礼」の旅でイスラエルにもいっしょにでかけた。部屋の便箋で弔電代わりの思いを書いてファックス。
 11時発の飛行機でヤンゴンからへーホーという町へ。そこから車で約1時間半。セージーパンドー小学校に着く。36メートル×9メートルの建物で、日本で言うと3教室分くらいのぶち抜きの部屋が出来たわけだが、講堂にもなれぱ分割して教室にも使えるのだろう。そんな場合、日本だったら隣の教室の声が聞こえて勉強ができない、などと文句が出るのだろうが、ここでは誰もそんな賛沢は言わないのだ。日本の教育も、もっと耐えることを教えたらいい。このプロジェクトでは、必ず父兄がわずかでも醸金をし、労働奉仕もしている。
 川魚の揚げ物などのご飯を頂いて、生徒たちの歓迎の太鼓や銅鐸の中をはずかしいほど晴れがましく歩く。ここではシヤン族とポーオ族が、こうした晴れの日には、めいめいが自分の部族の晴れ着を着て来る。そうした固有のアイデンテイティを自覚した子供たちがいっしょに学ぶことの意味は非常に大きい。
 その夜は細長いボートでインレ湖上に浮かぶゴールデン・アイランド.コテージまで行って泊まった。食堂から部屋に帰るにも、桟橋を伝って歩くのである。部屋の入口の蛍光灯に羽アリの大群。

 5月21日
 ボートで湖上を南下すること約2時間半。どれだけ時間がかかるかはっきりしないのは、水が減っているので、船の通れる水路が確定しないからである。しかし涼しくて気持ちがいい交通手段である。
 突然湖の中に夢のようにトマト畑が現れた。まさかという感じだが、これが水耕栽培の現場である。その「水畑」の中を少し行くと、子供たちが集まった水上小学校校舎の岸にドーンと船が乗り上げた。ほんの僅か大地があるのだが、日本財団が出したお金も、水に浸った基礎部分の棒杭の腐食などの補修費用である。学校の建物の床は古い板を再利用していて、お寺の本堂にいるような安らぎがある。
 帰りは再び船に約3時問乗った。その間かなりの時間雨に降られた。2本の傘で防備するのだが、足がずいぶん濡れた。
 やっと陸上に着いて、そこから1時間ほどの車の中で、私は眠ってしまったらしい。タウンジーという古い町のホテルに入った。

 5月22日
 夜半までは眠ったのだが、夜中に節々が痛くて眼が覚めた。薬を飲みに起きたら、洗面所に5センチ近くありそうなゴキブリがいた。よせばいいのにそれを叩いたら(こいつが部屋の方に移動して、私の髪の中にでも入ったらどうしようと思ったのだ)、そのついでにひどく滑った。瞬問肋骨を折ったかと思ったが、どうやらうまく転んだらしい。
 ただしその後は熱っぽくてうつらうつらした。あれっぽっち雨に濡れたくらいで、こんなになる筈はない、と思ったが、負け戦には従順というのが私の信条なので、翌日は見学をさぼって、市長さん方に視察団代表をお願いした。その方が威厳があっていい、という声も聞こえたのだ。私は半日ホテルの部屋で眠り通した。おかげで、午後1時過ぎの出発に間に合って、一行と空港で落ち合う。
 夕方ヤンゴンに着き、日本大使館で宮本雄二大使ご夫妻にご招待頂き、日本食と知識と2つの御馳走を頂く。

 5月23日
 出発までヤンゴン市内見学。まず日本人墓地へお参りし、その後で1945年に作られた連合軍墓地にもお参りする。日本人墓地は、それぞれの縁故者が勝手に作った感じ。連合軍墓地は整然と平等だが、それぞれの献辞が胸を打つ。英国王室砲兵隊の砲手として戦死した34歳のバトスという人の墓碑には、次のように記されている。「誰か優しい手が、私のために花を捧げてくれるように」。 マーケットで漆や貝細工など小さなお土産を買って夕方空港へ。バンコックでは川岸のシェラトン・ホテルに入る。

 5月24日
 市長さん方は今朝早く日本に発たれたが、私は1日だけバンコックに残った。その部分は私費で払う。もう何年も市内を見ていないので、ジム・トンプソンの家や王宮などを巡る。昼はドシタニ・ホテルでベトナム料理、夜はシェラトンでタイ料理。メナム川の夕映えが舞台面のようだった。

 5月25日
 夕方成田着。留守中溜まっている新聞がベッドの周りに山のよう。幸福な悪夢。

 5月26日
 早速出勤。
 執行理事会。11時からの評議員会を、少し早めに退席して、イラク、サマワからの女性教師お二人と初めて日本財団で会った。昨日の夜は宝塚。今朝は、お台場に碇泊中の海上保安庁の巡視艇「まつなみ」の女性船長にお会いして来たはずである。
 アフタカールさんはベニー・ハーシミー族の出身で50代。フセイン政権時代、親族をたくさん殺されていて、戦後教師の職を復権された。ナディアさんはベニー・ワーイル族の出で20代の美術の先生である。直接身の上話を聞けないのがもどかしい。
 バスでまず上智大学へ行き、ウィリアム・カリー学長をお訪ねし、昼食を頂くのだが、その前に昼のお祈りをしたいというので、手足を洗う場を教えて少し待った。「西(メッカ)の方角はどっちですか」と聞かれる。
 上智大学の構内を歩いて学生風俗に触れてから、浅草の浅草寺へ、お団子や人形焼きなどの甘いものは、ハラルと呼ばれる食事規定にも抵触せず、お気に召したようだ。お賓銭箱の前で拝み方を教えて、と言われて少しほっとした。その後で月島の前田建設工業のビル建築現場で、女性の優秀なクレーンのオペレーターの、男性に伍して働く姿を見て頂いてからわが家へ。家庭料理を差し上げることにしている。しかし貝も魚も食べ馴れないからあまりお好きではないらしいので、急逮スパゲッティ・トマトソースと、ジャガイモの揚げたのを作った。遊牧民の文化は、何日でも、毎食毎食同じものを食べて当たり前とする。私たち農耕・漁業民文化に属するものは、同じおかずが続くとすぐ文句を言う。

 5月27日
 日本財団理事会。午後、イラクの人たち7人の記者会見、夜、全日空ホテルでレセプションに立ち会う。

 5月28日
 イラクからの招聰者と伊勢神宮へ。モハメットの直系の後継者だという宗教指導者もおられる。まず外宮へ。自分たちの信じるアッラー(神)以外には頭を下げません、と言われたらどうしようかと思っていたが、お神楽の席に連なり、神宮の関係者に優しく迎えて頂いて、心が和んだらしく、私たちと同じに柏手を打って拝まれたので、私は一瞬呆然。
 私たち女性は、こういう場合は、男性のグループの後ろを歩く。イラクの方たちは親族以外の男性とはあまり話さない、と聞いていたが、アフタカールさんもナディアさんも、同行のドクターたちと私たちの前方をいかにも楽しそうに喋りながら歩いている。アメリカは力ずくで民主主義を植えつけようとしたが、私たちはそんなことをしなくても「自由」をお見せした。
 宗教指導者は、初めエレベーターから出る時、当然のように1番先に降りようとされた。それを同行の病院長がぱっと抑えて、私を先に出させた。すぐに宗教指導者もレディファーストの習慣にお馴れになった。堕落か解放か。
 伊勢神宮参拝を企画したのは、日本財団と姉妹財団の関係にある東京財団の佐々木良昭氏と私だった。佐々木氏はイスラム教徒、私はカトリック。しかしこの企画は間違っていなかったと思う。サマワからのお客さまたちは、自爆テロをすれぱ行ける、とアルカイーダたちが言う天国を、この世で見たのだ。五十鈴川の清流、周囲に続く緑滴る森、お神楽を奉納する巫女たち。誰もが穏やかに暮らす日本。女性教師たちは帰りたくないらしい。この現実を静かに見せてお帰しすることが、私たちの計画だった。

 5月29日
 一行は広島に、私は東京に帰る。朝早いのでこっそり発つつもりだったが、病院長がもう起きていらっしゃった。ご挨拶すると向こうから握手の手を伸べられた。イラン、イラクでは、保守的な男性は決して女性と握手などしない。自然に変わられたのだ。

 5月30日、31日
 帰国以来、やっとお休み。古新聞に眼を通しハマッサージ。31日は財団に半日しか出なかった。

 6月1日
 日本財団へ出勤。執行理事会、組織改革がスタートするので、職員に短い感想を述べる。
 午後、スーダン大使、ムーサ・ムハンマド・オマール・サイード閣下来訪。早稲田の卒業生で、秋にもスーダンに来るように勧めてくださる。

 6月2日、3日
 嬉しい休み続き。しかし休みというと原稿をたくさん書くので、それがよくない。休みは休みだ。原稿もやめだ。

 6月4日、5日
 朝8時、新宿発の列車で、松本に向かう。私が『湖水誕生』という小説に書いた新高瀬川発電所ができてから25周年になるので、ダム屋さんたちとして最高の経験と技術と思想を持った当時の所長さんたちが、現場に連れて行ってくださるというのである。
 もっとも、施主である東京電力側の4人の現場所長さん方のうち、1人が亡くなられ、お二人は夫人を亡くされた。そのお話も1度はじかに伺いたい。
 松本から大町入り。雪が次第に山から里に下りて来る季節の、深夜近く取材のため1人タクシーで葛温泉まで入ったことを思い出す。あの世にいるような清別な夜であった。私でさえあちこちに強烈な思い出が残るのだから、現場で働かれた4人の方たちは溢れるほどの感慨だろう。
 今日、町も山も一点の曇りもなく輝いている。七倉ダムから下流方向を眺めると、樹海が豊かに広がっていた。当時から暴れ沢だと言われていた不動沢から、予定より多くの土砂が流出しているから、やはり積極的に小さな砂防ダムを作る必要があるのだろう。
 ふと気がついて見ると、ここに取材に入っていた頃、私は今ほど視力がなかった。『湖水誕生』の連載を始めてまもなく、私は眼の手術を受け、生まれて初めて人生を鮮明に見たのだ。今日は山の稜線までがくっきりと線描で見える!(以下次号)
 



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