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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: アブグレイブ刑務所  
コラム名: 透明な歳月の光 114  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2004/06/18  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  【未来に残すべき犯罪の痕跡】

 イラク暫定政府のヤワル大統領という人は、一応の知恵者だという印象である。その理由は、米軍のイラク人捕虜に対する虐待の実態が明るみに出たアブグレイブ刑務所を解体する意志はない、とアメリカのABCテレビに対して言明したからである。

 人道的でない行為が行われていたから、刑務所を解体する、というのは体裁のいい証拠隠滅であって、そのような痕跡の場所が存在しなくなることほど、加害者にとって都合のいいことはない。

 池田小学校も、惨劇の校舎を解体した。上九一色村も、オウム真理教の教団の施設だった一連の建物を解体した。まるで解体すれば事件がなかったような、或いはその不快な記憶が癒されるような結論の出し方である。

 もちろん、人は自分の好みにしたがってこの人生の時のやり過ごし方を決めて構わない。しかし取り壊して忘れる、ということはもっとも安易なやり方で、地球上の多くの国民がやらない愚である。

 ユダヤ人は、ナチスによって受けた大量虐殺の跡を決して解体しないであろう。イスラエルからポーランドにあるオシュベンチム(ドイツ名アウシュビッツ)強制収容所に修学旅行に来たユダヤ人の生徒たちは、青いダビデの星をつけた大きな国旗を掲げていた。そして彼女たちは静かに涙を流しながら、自国の先輩たちが命の限りを生きた最後の場所に立っていた。

 私が上九一色村の村長だったら、決してオウムの施設跡を壊すことを許さなかったろう。どんなに金がかかろうとも、私はあれをずっと現状のまま修復し続けて、それを「犯罪博物館」として保存したと思う。それこそ現実と歴史を少しも歪めない、村の最高の観光名所として多くの人を長い年月に渡って呼び込めるはずだ。

 犯罪は自分が犯さずに人だけが犯すものだ、と非難の眼をもって眺めるから、痕跡を消したがるのだ。しかし自分もまた、単純な無知や思い上がりから、似たような犯罪を犯す可能性もあるとすれば、そうした記憶を甦らせる場所は、自戒のためにも貴重な存在である。

 バグダッドの博物館も壊されて回復もむずかしくなった今、ヤワル大統領は、アブグレイブ刑務所が戦後の新名所になる、と判断したのかと思ったら、大統領はもっと現実的である。

 「アブグレイブ刑務所は1億ドル以上かけて建設した施設であり、国家再建のためには一ドルもむだにできない」というのが彼の言葉だ。大統領はとぼけてアメリカを牽制するセリフの名人か、私と同じような単純明快にケチなだけの性格なのか。全く金をかけて作った施設を証拠隠滅の意図でみだりに取り壊されては、たまったものではないのである。
 



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