共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: かさごの唐揚げは頭までおいしい  
コラム名: 私日記 第53回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2004/05  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  2004年2月17日

 日本財団へ出勤。
 会議の後、お昼頃、ボリビアの倉橋神父来訪。いっしょに社員食堂で食事をする。にっちもさっちもいかないボリビアの貧困の話。私が個人的に働いている海外邦人宣教者活動援助後援会は、倉橋神父の親友のヴィセンテとオッタヴィオ両神父の仕事もずっと助けて来た。二人はイタリア人である。ローマで神学校時代、同級生だったボリビア人の神父の要請で、この国に生涯を捧げてしまった。二人とも、秀才で、神学者としての道を歩くはずだったのに、彼らは人々の間にいることになった。これが「神の差し金」なのだ。
この二人の神父にはボリビアに行く度に会うが、二人はスペイン語とイタリア語しか話さないから、私は直接会話を交わしたことがない。しかし私はいくつかの光景を思い出す。
 或る日ヴィセンテ神父は、彼が世話しながら若くして亡くなったインディオの出稼ぎの人たちが埋まった墓地を案内してくれた。棺を埋めようとすると、もう下に先に入った人がいて、埋まる場所に事欠く貧しい人たちの墓地である。子供と妻を残して、彼らは激しい労働で健康を害し、三十歳を少し過ぎて短い生涯を終える。
 やっと場所を見つけて埋められても、その日のうちに死体が消えた人もいる。墓地の傍に住む貧しい人が大学病院に通報して、夜中に死体を掘り出して解剖用に売ってしまうのである。
 ヴィセンテ神父は痩せた腕に、その間ずっと二、三歳に見える幼児を抱いていた。まるで自分の子供のようであった。男の子も、神父の腕の中が一番安心できるらしく、下に下ろしてもすぐ神父に抱かれたがる。
 その子の父親も、山から出稼ぎに降りて来たインディオだったが、或る日、村の若い娘を強姦した。それを知って怒った村人たちはその男を撲殺した。後にその男の子が残されたのである。人生は、ボリビアではそんなにも悲しく強烈だった。
財団のホームページは新しいコミュニティ・サイトのようなものを作ると言う。「ギリシャのアゴラのようなものですね」と感想を述べた。しかし人を傷つけない知的な出会いの場がインターネットでできるものかどうか。
 夜自宅で、海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。
 援助のお金の海外送金の為替相場がくるくる変わるのに困らされている。修道院によっては、一ドル120円の固定相場を決めているところがあるので、これも困る。今1ドルが109円とか110円とか言う時に、いくらローマやパリの修道会本部の言うことでも、海外邦人宣教者活動援助後援会が120円という円安相場を勝手に決めて送金したと言われると、会計面で非常に困るのだ。この点を調整するにはどうしたらいいか、に悩む。
 今回、ペルーでは、エマヌエル加藤神父のやっておられる日系老人ホームで、生活費の出せないお年寄り三人分の費用を受け持つ継続案件に56万7千円。他に介護者を頼む費用の分担分が100万円。フィリピンはシスター中西が責任者のカトリック・センターの貧しい学生たちの月謝や生活費、リーダーシップセミナーの費用、図書館整備費の22万円。シスター広戸からの申請の奨学生二人分に25万円。
 ボリビアからは三件。まずヴィセンテ神父が運営する貧困層の人々の住むプラン3000地区の児童110人分の給食費に152万円。シスター斎藤が責任者の未婚の母と売春婦だった人たちの家「ヴィア・エミリア」の運営費に112万円。シスター立石が責任者の「オガール・ファティマ孤児院」の、ミルク代は、今まで日本から粉ミルクの現物を買って送っていたが、政府が税金をかけると言い出したため、今回からボリビアで手に入りやすいブランドに換え、資金を送ることになった。日本のミルクは上質なため、乳児が病気に罹らないという結果があったが、今回のミルクはどういう質のものだろう。乳児用のミルクにまで関税をかけて収入を計らねばならない国も大変だ。


2月18日
 来年6月、日本財団の会長任期がやっと終るので、その日に向けて、約10年間の仕事をまとめる口述を始めている。その作業をする日。
 お昼に府中刑務所から神部所長、藤木課長お見えになり、私が受刑者のための本やCDを少しご寄付したことに対して感謝状を頂く。
 午後は浦和で埼玉県警本部職員に講演。初め皆さんが笑わないので、困ったなあ、と思っていたが、そのうちにだんだん表情が柔らかくなって来た。笑いこそ無事と平和の証なのだから、警察官は勤務でない時には、できるだけ顔と体の筋肉を緩めて笑ってください。

2月19日
 家の中のワープロがいっせいにだめになり始めている。東京の家に二台。三戸浜の家に二台。シンガポールに二台、都合六台を買うことにする。うちは書き手が二人いるからだ。もともとのパソコンを少しいじくってもらって、ワープロ専用機能を強くしてもらう。
今から約25年前に、私の知人が買ったワープロは、面積一畳敷きくらい。値段は約400万円だったという。
 私の買った最初の機械(今から22年前)は一台120万円。今6台買っても、当時の1台分の値段と同じくらいである。それでも昔は万年筆で書いていたのだ。高い筆記用具だなあ。原稿料はそれほどは上がらない。


2月20日
 夕方、赤坂プリンスホテルで正論大賞授賞式。今年は正論大賞に中嶋嶺雄氏。正論新風賞に藤原正彦氏が選ばれている。藤原先生は、日本財団の関連の社会貢献支援財団の「日本財団賞」の選考委員のお一人である。
 帰りに四川飯店で食事。岡崎久彦氏、上坂冬子さん、三浦朱門と皆で同じ車で帰る。


2月21日
 岡山の市民文化大学講座で講演のため、新幹線で往復。本を読んで、短いエッセーを書いて、といろいろ企画していたが、「のぞみ」はたった3時間7分。大したこともできない。


2月22日
 孫の太一が、向こう一年、うちで暮らすという。毎日ギリシャ語の本を1ページずつ読もうとすると、食事の支度と洗濯をしなくて済む生活もいいと思ったらしい。
「じゃ、大学院に進む時に、また憧れの川向こうにでも、下宿を探して行きなさいよ」と言っておいた。縛りつけるのはかわいそうだ。
 朱門は「あいつは大学受験の前に、ほんとに勉強してなかった」と言う。「どうしてわかるの?」と聞いたら、「僕は彼が大学へ入ったら、あいつに内外の主な小説を読まそうと思って聞いてみたんだ。そしたらほとんど読んでた。よっぽど勉強しなかったんだ」。
 それで私は思いつきで私が最近口にした作品を挙げた。
「鵬外の『雁』も、モーパッサンの『脂肪の塊』も?」
「読んでたよ。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』もね」


2月23日
 財団へ出勤。ボランティアが受けた案件のうち、審査を通ろうとしている500件あまりの案件の報告書が届く。
 三時から国土緑化推進機構の会議に出て、四時から「船の科学館」へ。北朝鮮工作船の展示終了を祝って、心からのご苦労さまを言う身内だけの慎ましい会を開くのである。
 去年5月31日から、今年2月15日までの長い展示期間を無事に管理してくださった方たちにはお礼の言葉もない。全くボランティアで説明役をかって出てくださった海上保安庁のOBたちともお話しした。あまり陽焼けしたので、奥さまとでかけたら「ご主人は駐車場の整理係で働いていらっしゃるんですか」と聞かれたという話に感動と笑い。
 私は昔ワシントンのベトナム戦争の戦死者の記念碑を訪れた時、往時の兵隊さんたち、当時は退役軍人の方たちが、ずっと説明役に立っていてくださったことを思い出した。
 私はそこで「戦死者として記念碑に名前が彫られている方の中で、実は後からMIA(戦闘行動中の行方不明者)だったことがわかって帰還された場合はどうなさるのですか?」と質問したのである。するとその場合は名前の前に彫られたその人の宗教的印(キリスト教徒なら十字、ユダヤ教徒ならダビデの星)を丸で囲むのだという。
 私は「お教えをありがとうございました。安心しました」と言った。すると説明者は、「来てくださってありがとう」と言った。ほんの一瞬にせよ、国籍も立場も違う二人が、戦死者のことをしみじみと悼んだという実感のあるいい出会いだった。海上保安庁のOBは今度その役を果たしてくださったのだ。
 北朝鮮工作船は横浜に移すための準備中で、もう台座の上に載っていた。あまりぼろぼろで直接にはロープもかけられないらしい。
初めてここから、燃えるような富士山の夕映えを見た。


2月24日
 家で執筆と淋巴マッサージ。やれやれ、ぐたぐた、だらだら。


2月25日
 日本財団への出勤日。
 財団は、組織編成を大々的に見直す、という。財団の来年度の予算は約397億円。人件費9億5千万円。会長、理事長は無給。人件費は約2.4パーセント以内で収まっている。現在職員は109人。
 今度の組織編成換え案の中で、私が一番嬉しかったのは、日本財団の電話の代表番号を復活するということであった。私が指示したのでもない。職員が、申請をして来てくださる方たちの身になって代表番号を復活した方が便利だろう、ということになったのだ、という。
 いつの頃から、ダイヤル・インと称するおかしな制度ができたのだろう。雑誌社も各編集部が独自の電話番号を持ち、直接そこに掛けろということだ。これは「知る人ぞ知る」「知る人だけが便利」という悪い制度だ。
 メーカーに電話を掛けると、録音が勝手にしゃべる。「販売案内にご用の方は1番、修理についてのご相談は2番、新たに加入ご希望の方は3番にお掛けください」という式の声を聞いて「誰がこんな会社から買うものか」と思うことも多い。
 それを昔のように代表番号を復活して、まず日本財団に掛けて相談の内容を言うと、適切な部に廻すようにしたい、という。いい青年たちだ。相手の立場に立ってものを考えることができる。スタートは四月からかと思うが。


2月26日
 10時頃の新幹線で豊橋へ講演に。途中で火曜日に渡すはずの『産経新聞』の連載を今週は書き忘れていることを知らされた。秘書は怒っているに違いないのだ。豊橋に着いたら、講演までの間に書いて送ります、という。
 幸い主催者は新聞社。駅でお出迎えを頂いた方に「申しわけありません。お宅の原稿用紙を頂けますか」といきなり図々しい話だ。
「御社の記者用原稿用紙は一行何字詰めですか?」
「13字です」
「なんて都合がいいんでしょう。産経も13字です」
とすぐに別室で1105字分を45分で書き上げた。送ってほっとしたところで、「御社の原稿用紙」の字数を数えてみると、何と12字詰めであった。数えなかった私が悪いのだ。講演の前に簡単な食事があったので、その間にお皿の横で不足の5行分だけをこちょこちょと書き足して、私の講演が始まるまでに、再送稿することができた。私は何食わぬ顔ができた、と思っているが、周囲はボケが来たか、と言っているだろう。


2月27日
 バンザイ、休み!


2月28日
 長崎空港から小佐々町へ。教育に熱心な町で、「教育の日」があるという。そこで講演。教育をする最大の責任者は自分、次が親、教師は三番目、という話をする。
 ハウステンボス泊まり。


2月29日
 11時の飛行機で、長崎空港から沖縄那覇へ。そこから車で名護市へ。「名護市中央図書館開館5周年記念」の講演。
 沖縄にはあまり来ないので、来る度に景色が変わる。でもこの土地に生えている植物のほとんどが、私の三戸浜の家の庭にある。ハイビスカス、ドラセナ、海紅豆。ないのはトックリヤシとニセトックリヤシだけのような気さえする。
 沖縄の豚の塩漬けがおいしい話をして、帰りにマーケットで買って帰りたいのだけれどその時間もないなあ、と思っていたら、お土産に頂いてしまって恐縮した。冷蔵庫などなくても塩豚はできる。べーコンよりずっとおいしい。

3月1日
 太一のいる部屋が、夏は西日で焦熱地獄になるので、さしかけのテントをつけることにした。テント屋さん来訪。


3月2日
 午前中、目黒の陸上自衛隊幹部学校で講演。午後から、ボランティア支援部の審査を通った500以上の案件に関して個々の説明を受ける。だいたい4、5時間かかる。果たして少し説明が残る。


3月3日
 初めての大陸棚に関する講演会を日本財団で開いた。
 正確な日にちは忘れたのだが、去年、初めて大陸棚の問題が新聞で取り上げられた日に、私は財団の海洋船舶部に電話をした。当然のことだが、私自身はこの問題について全く無知だった。だからこの問題は今どのような状況にあるのか、どこに難しい点があるのか、日本が国連に対してどれだけの熱意で動くべきなのか、裏も表も調べてください、と頼んだのである。
 2009年5月までの間に日本は国連に対して領有を主張できる大陸棚の調査結果を報告しなければならないのだが、そのためには日本のあらゆる官庁と民間の組織が結集して仕事を進めねばならない。そのつなぎの役をするのは、何の利害関係も持たない日本財団あたりがいいと思う。
 それで今後「大陸棚問題連絡センター」のようなものを設けて活動を始めることになるのだろうが、それさえもまだ事実上動き出してはいない。そのためにまず皆が、現実を知ろうということで、今日第一回の「大陸棚に関する講演会」を開くことで、勉強会から始めることになった。入り口で登録された来会者は550人。二階の会議室には収まり切れず、一階の広間にも入って頂く。


3月4日、5日
 今月26日からトルコ、オーストリア、フランスヘ出かけるので『毎日新聞』の連載『哀歌』を書き続ける。


3月6日
 名古屋へ「瀬戸商工会議所女性会」の招きで講演会。瀬戸は初めてではないのだが、帰りに若い作家たちの作品を見せて頂いた。釉薬があっという間に染みてしまう磁器に絵を描くなどということは、私のわずかな作陶の経験だけでだが、考えられない技術である。
 講演が終ってから大阪へ。千里阪急ホテル泊まり。


3月7日
 ホテルのすぐ近くのよみうり文化ホールで「ボランティアのすすめ シニア世代の新しい生き方」というテーマでの基調講演。
 「何歳からをシニアというのか知りませんが、まあ六十五、七十を過ぎたら、いつ死んでもいい年なのですから」と言ってから、しまったとも思ったが、大きく頷いている方が多かったのでほっとした。別に一花咲かせるつもりでもないが、死ぬ前に人のために一仕事できたら、死に易くなるだろう、と私は思っているのである。


3月8日
 終日、執筆。


3月9日
 お昼にサウジアラビア大使館にランチのご招待を受ける。
「いつサウジに来ましたか?」
「1975年です。その時は大変でした」
「どんなに?」
「どうしてもヴィザを出していただけませんでしたので、ベイルートでムハンマドという男から、50ドルでヴィザを買いました」
つまり説明しなくても、ムハンマドなどという男はその辺に無数にいる。得体の知れない人物から、ということだ。
「そんなことはあり得ない。我が大使館がそんなことをするとは思えません」
「私はリヤドの空港に着くまで、そのヴイザが偽物ではないかと思っていました。しかし本物だったようです」
「この次は、正式にご招待しましょう。ぜひ来てください」
「ありがとうございます」
「あなたの『アラブの格言』(新潮新書)は大変面白かった。どこであの資料を得ましたか」
「1975年にお国に伺ってから、何度かアラブのお国を訪問している間に、格言の本も買って眼も通していました。それであの本をまとめるのは簡単なことでした」
「あの中の格言には、各国によって特殊なものがある。初めて知ったのもありました」
 久しぶりでほんもののアラブ料理を頂き、お金持ちの国の大使館らしくさまざまな案内書が発行されている中から、『イスラーム アキーダとイバーダ』『ムスリムが豚肉を食べない医学的理由』『クルアーンとハディース』の三冊のパンフレットを頂いて帰った。『ハディース』は実は日本語訳を持っているのだが、恥ずかしいことにろくろく開いたこともない。このパンフレットで、読んだことにしようかと浅ましい計算をしたのである。ハディースというのは「言われたこと」または「報告」という意味だそうで、預言者ムハンマドの実践(スンナ)と、彼が実行したこと、発言したこと、他の人が行うことを容認したこと、の「記録」なのだという。


3月10日〜14日
 三戸浜。
 お客さまが何組か。
台湾緋桜が満開。冬菜が食べきれないほど。
かさごの唐揚げを作ったが絶品。皆のお皿に背骨しか残らなかった。あの無骨な頭まで食べてしまったのである。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation