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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 陳水扁総統狙撃  
コラム名: 透明な歳月の光 103  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2004/04/02  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   陳水扁台湾総統が、選挙の前日に街頭で撃たれた事件は、ケネディ大統領暗殺のような重大な結果にならなくてほんとうによかった。

 傷ついた腹部の傷はテレビで見ると長くて深さもある。私の廻りの人は、あれだけの傷を受けて血も流れているのに当人がその瞬間気がつかないのは不思議だと言う。つまりあれだけ出血するような傷なら痛くないわけがないだろう、と言う。

 私も人並みに痛みに弱い方なのだが、八年前に墓地で転んで足を折った時には全く痛くなかった。ぼきっという足の骨が折れる音も聞いている。倒れて足元を見たら、足首から下が全くさかさまについていて、馬の脚みたいだった。

 同行者がいてほんとうに幸運だった。お墓の前で倒れたのだから、墓地の管理事務所まで200メートル近くある。私一人だったら辿り着くのに一苦労していただろう。

 最初の救急病院で、足の向きは一瞬で直してもらえた。踵の骨が脱臼していただけなのである。レントゲンの結果、一本の骨は縦折れ、もう一本は横折れ。骨が硬かったので、いずれも薪を割ったような折れ方だった。それでも痛くはないのである。

 私はその日講演の約束をしていたので、そのまま会場に向かい、生まれて初めて車椅子でステージに出た。対象は医療関係者たちで、ブラック・ユーモアのようであった。

 終わってから改めて私は講演会場近くの大学病院に連れて行かれた。それでもまだ痛くなかった。それどころか私は幸福でいっぱいだった。これがアフリカ旅行中だったらどうなっていただろうと思うと、我が身の幸運に嬉しさがこみ上げて来る。しかしその頃から血圧は下がって来て、最高血圧が90を割った。

 「いつもこんなに低いんですか?」と看護婦さんが尋ねたので私は早く手術をしてもらいたい一心で、「ええ、昔から血圧は低いんです」と答えておいた。一時期、ひどい低血圧で困っていた時代があったのはほんとうだが、最近ではやっと普通になっている。警察と病院は、小説家から供述を取る時は、基本が嘘つきだから疑った方がいいと思う。

 自覚では落ち着いていても、私の傷は重傷だったのだろう。だから自動的に麻薬的物質が脳内にできて、痛みを感じないようになったのだ、と後で説明された。

 紙で指を切るとわずかな傷なのに痛くてたまらない。しかし重傷は痛くないものらしい。国松警察庁長官も、狙撃された時、腹部に何発もの銃弾を受けながら、全く痛くなかった、と言っておられた。陳総統も、傷が或る程度大きいから痛くなかったのだろうし、撃たれたことに気づかなかったことが、あれは「仕組んだものでない」ことを示している。

 しかし傷が大きいと痛くない、というのは、何という自然の優しさなのだろう。
 



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