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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: コロッケの一際光る宴かな  
コラム名: 私日記 第50回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2004/02  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  2003年10月9日

 早朝、南アのヨハネスブルグからシンガポール着。

 夜行便で帰って来たのだから、ナシム・ヒルの家に着いて少し眠ろうと思ったのだが、髪が汚いのが気になってならない。アフリカ旅行の埃がついたままなので、眠るのは諦めてホランド・ヴィレージの行きつけの美容院へ行く。フローラという中国系の女性は、私の髪を洗いながら、

 「どこから帰って来たの?」

 と聞く。

 「アフリカからよ」

 と答えると「一体この人は何の仕事をしている人なんだ?」という顔をしている。

 明日、インドネシア領のバタム島で、日本財団が新潟鉄工所で建設した設標船「ジャダヤット号」を、マラッカ海峡協議会を通じてインドネシア政府に引き渡す式がある。それに出席するために、東京からも日本財団の山田吉彦海洋船舶部長の一行が来ている。午後はその式で行う挨拶文を書く。夜は打ち合わせを兼ねて、カールトン・ホテルのワーロック・レストランで皆で食事。


10月10日

 11時20分発のフェリーで、バタム島へ。船は1時間でバタム島に着くのだが、時差が1時間あるので、午前11時に出て、同じ午前11時に着くことになる。

 引き渡し式はノボテル・バタム・ホテルで行われた。建造費は約7億円。「ジャダヤット」という名前は「南回帰線」のことだという。この船が建造される前には「パリー(南十字星)号」という古い船が、マラッカ・シンガポール海峡一千キロに敷設されている浮標や灯台の、インドネシア領の部分の保全に当たっていた。この辺りは海上交通が頻繁なので、船が始終、浮標などを当て逃げして壊している。それを黙々と直し続けるのが設標船である。

 パリー号は古い船で、私もその作業を見るために乗せてもらったことがあるのだが、救命ボートの下で同行者に小声で、「厚化粧で皺を隠しているおばあさんと同じで、ペンキの重ね塗りでようやっとボートを吊り柱に吊るしてる感じですからね。いつ落ちて来るかわからないから、真下を歩かない方がいいですよ」と注意して言った覚えがある。

 その時と同じ船長が、この新造船の船長になっていて、本当に嬉しそうであった。


10月11日

 朝、シンガポール発。夕方、東京帰着。

 22日間の長い旅がやっと終る。


10月12日、13日

 淋巴マッサージ。後はただただ眠って、13日夜は太一(孫)が来た。相変わらず、ギリシャ語と格闘している由。


10月14日

 日本財団へ出勤。執行理事会。電光掲示板ミーティング。中米とアジア各国から日本視察旅行中の海上保安機関の若手職員の訪問を受ける。インドの不可触民の実情調査に出る都庁の教育関係者のグループとも挨拶。

 午後、講談社、法務省、毎日新聞社からそれぞれご用の方々。その後厚生労働省へ、アフリカ旅行に職員をお出し頂いたことについてのお礼と報告に行く。


10月15日

 歌舞伎座でお芝居見物。日本に帰って来た! とまだ感動している。


10月16日

 午後サレジオ会修道院へ、ヴァチカンからご帰国中の尻枝正行神父さまに、日本食の差し入れに行く。お話しているうちに、うちへ一晩泊まりに来てくださる気になられたらしい。夜は行刑改革会議の懇親会。行ってみたら、なぜか全員ではなかった。


10月17日

 夜、銀座東武ホテルでロータリークラブの講演会。私の講演料を、海外邦人宣教者活動援助後援会に寄付して頂くお約束である。


10月18日、19日

 尻枝正行神父さまのお迎えに車で行ってもらう。少しお体が不自由なのだが、1人で生活をなさる訓練はいつでも必要だ、と私はほんとうに労りがない。でも私の手料理を喜んで食べてくださるから、嬉しくなる。教皇さまのお近くで仕えられて、半分イタリア人みたいになっておられる神父さまでも、最近はイタリア料理より日本料理がいいそうだ。摩訶不思議な日本人のDNA!

 19日は朝、教区の教会へごいっしょして、ミサをおたてになった。祭壇の上は、それこそ段があるわけだから、朱門がそれとなく傍におつきして、転ばれないように「見張って」いたが、しっかりしていらっしゃる。

 それから神父さまは朱門といっしょに両国の国技館へ、民謡民舞全国大会へ出席され、一旦うちへ帰られてから、夜は太一も合流して、帝国ホテルの「鮨源」でお鮨。

 太一「僕、眼の廻らないところでお鮨を食べるの、久しぶり」。つまり普段は回転鮨しか食べていない、ということ。私が説明すると板前さんが笑ってくださった。

10月20日

 午後、行刑改革会議。その後少し遅刻をお許し頂いて、皇后陛下のお誕生日のお祝いに間に合った。

 いつも天皇・皇后両陛下の廻りには、つもるお話をしたい人の列ができて、私たちはついご遠慮してしまう。一番要領の悪い三浦朱門は時間切れになってしまって、ついにお祝いを申しあげないで、お酒だけ頂いて帰った年があった。今年ももたもたしていると、ご婦人のお客さまが「あなたも早くお並びにならないと、お祝いをおっしゃれませんよ」と励ましてくださった由。「優しい方だったよ」と笑っている。


10月21日

 日本財団へ出勤日。執行理事会。

 笹川スポーツ財団、『財界』編集部、文藝春秋出版部、『週刊ポスト』編集部、からお客さま。

 午後は、アフリカ旅行の無事完了ご報告廻り、の続き。防衛庁・海上幕僚監部と国土交通省・河川局。


10月22日

 『VOICE』原稿を書く。アフリカ旅行中の記録は、書くことがあり過ぎて、なかなか先へ進まない。


10月23日

 高知工業大学の公開講座で講演をするため、飛行機で日帰り往復。空港でカツオの塩辛を買った。大好評。


10月24日

 丸々一日休んだ! すばらしい休日。

 今日から『毎日新聞』の朝刊に「哀歌」の連載が始まった。20年以上、アフリカにつき合って、やっとアフリカを舞台にした虐殺事件の小説が書けるかもしれない、と思うようになった。錯覚かも知れないが……。

 新聞小説を書く者の最終的な責任は2つだという。最終回を書き終るまで死なないこと。頭の病気をしないこと。2つともささやかな目標だが、それでもまじめに考えればかなりむずかしいことだ。


10月25日、26日

 朝、奄美大島行き。毎年、障害者や高齢者の方たちと外国旅行をしているが、その国内版の同窓会の旅行が、指導司祭の坂谷豊光神父のおられる奄美大島で行われるのである。

 奄美大島は今、道路の整備が急ピッチで行われている。11月に天皇・皇后両陛下がお見えになられるからである。

 あまり海がきれいなので、仕事なしで来たいなあ、としみじみ思うが、今日も3時からまず教会で講演会。その後、懐かしい方たち約80人と会食。ちょっとした結婚披露宴みたい。皆が2、3分ずつ、その後を語る。

 26日は、朝マリア教会でミサ。

 シアトルに住んでおられたカトム・ユリコさんは癌の手術後、普通に暮らしておられる、と思っていたが、先日突然アメリカの法律事務所から不思議な郵便が来た。「ユリコ・カトムの遺産相続はまだ行われていない」という意味の紙が1枚。名前の下には「故人」と書いてある。

 再発という知らせもなかった。しかしこの通知はどう見直しても、死去されたとしか思えない。

 そのうちに恐らく亡くなられたご主人のご兄弟ではないかと思われる方から、7万7422ドル22セントの小切手が送られて来た。名義は私宛てだが、もちろん海外邦人宣教者活動援助後援会に使え、というご遺志に決まっている。

 今日のミサはそのカトム・ユリコさんに捧げられた。私たちだけの、日本での告別式である。

 まだ生きておられる時、「三枝成彰レクイエム」がカトムさんの住むシアトルで演奏された。このレクイエムは、作曲は三枝成彰氏、歌詞は私が書いているのだが、日本語で作られた初めての正式のレクイエムで、その中にカトムさんが亡くなられた夫を偲んで書かれた英詩を、私が日本語に訳出したものも使われている。このレクイエムは日本以外にも、シアトル、トレント、ウィーン、グラーツ、ベルリンで演奏されたが、この秋には東京で六本木合唱団が歌ってくださることになっている。カトムさんはその時、東京に来ると約束してくれていた。それが突然の死である。

 シアトルに行った時、私は朝鮮戦線の兵士だったカトム氏の墓を軍人墓地に訪れた。もちろん亡くなったのは、ずっと後、ボーイング社の社員としての勤務を退職されてからである。

 私はお墓の前で、カトム・ユリコ作の英詩『青い天使』を、私が日本訳にしたものを朗読した。その後で私は彼女に聞いたのだ。

 「あなたは死んだら、どこに埋まるの?」

 「ここよ」

 と彼女は幸福そうに言った。

 「軍人の妻は、ここに埋葬してくれるの」

 「へえ、あなたはつまりご主人をずっとお尻に敷くわけだ」

 そして2人は笑った。

 今彼女は、夫の元へ帰った。彼女は喜んでいる、と私は思う。恋女房という言葉が普通だが、恋亭主だったのだから、子供のない夫妻は、再び抱き合って永遠の住まいを楽しんでいるだろう。

10月28日

 朝から財団で、数人のお客さま。

 私が文化功労者に選ばれたことが発表されたので、お祝いの電報やら、お花やらが届き始めた。

 こうなることは薄々想像できたので、昨日の休みを利用して、お礼の文章をしたためた。普通は厚紙に正式に印刷したものでお礼を申しあげるのだろうが、私は手書きならぬ、手ワープロでお出しする。

 お礼の中の一部。

 『作家という片寄った立場から、長い年月、反社会的な言辞も許して頂いて来ましたことを、今改めて感謝し、お詫びも申し上げております。先日も私の性格について八方破れと評した方があり、その時も少し恥じ、少し反省し、仕方なく居直った内心を覚えております。考えて見ますと、私の恩人、友人、知人はすべて寛大で、私の言動を長年笑ってお受け入れくださいました。私の最大の幸福は、内心深く深く尊敬する方々にこの世でお会いできたことです。

 今年7月末で正味50年、書き続けて来ました。小説が骨の髄まで好きだったからだと思います。しかしこんな身勝手ができましたのも、日本人が築いてくださった貴重な平和のおかげです。そのご恩を忘れずに、自然の流れに流されながら、許されればもう少し働いてまいる所存です。……』

 夜、麻布のカトリックセンターに立ち寄って、ペルーからマヌエル・加藤神父さま、ブラジルからリノ・スタール神父さま、お2人をピックアップし、うちで粗餐を差し上げる。スタール神父さまに「よく日本語をお忘れになりませんね」と言ったら、「毎日、日系人とつき合ってますから」とのこと。それなら、当たり前だ。


10月29日、30日

 淋巴マッサージと『毎日新聞』の連載小説を書いて、穏やかな2日間が終った。


11月1日

 午後、東京都主催の「東京の教育を考える都民の集い」に出席。その後で近くのホテルで同級生に会ってお茶を飲んで帰った。


11月2日、3日

 自宅で、原稿書き。


11月4日

 日本財団の関連財団である社会貢献支援財団の表彰式の日。今年も団体と個人を合わせて29件の表彰された方がおられる。その中には、イタリア人、カルロ・ウルバニ博士(46)の夫人も出席された。ウルバニ博士は去年ベトナムのハノイの病院で、1人の不思議な症状の患者からSARSを特定した。その危険を世界に予告しながら、ご自分もまたバンコックの病院でSARSに倒れられた方である。

 普通の年なら、ゆっくりとパーティーまで受賞者の方々とごいっしょするのだが、今日は私が文化功労者顕彰式に出席しなければならないので、式後すぐ失礼して、ホテルオークラの会場に向かった。

 私は文学賞とはほとんど無縁なので、こういう席で身のこなしがぎくしゃくする。学校の卒業式と、芸術院で賞を頂いた時と、あと働いている海外邦人宣教者活動援助後援会の代表として幾つかの賞を頂いた時と、他の分野で何回か褒めて頂いたことはあるが……いずれにせよ、場馴れしていなくてほんとうに疲れる。夫婦で軽食を頂き、それから私だけ、他の功労者の方々とバスで皇居へ。そこで文化勲章を受けられた緒方貞子さんや大岡信氏などと合流した。

 まず連翠南の間で、河村文科大臣から、天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下、秋篠宮同妃両殿下にご紹介を頂き、北の間に移って、お茶会。とは言っても、フランス料理のフルコースを頂くのである。

 丸い6つのテーブルを、私たちはそのままの位置で、皇族方がお料理のコースが変わるごとにお動きになって、皆とお話しくださるように配慮されている。

 私のテーブルには遠藤実さんや中村鴨治郎さん(扇千景前国土交通大臣のご主人)がいらっしゃる。天皇さまも皇后さまも、遠藤さんが流しをして稼いでいた若い時代の苦労話や、鴈治郎さんの奥さまがどんなに霞が関でお忙しくても、ご家庭ではそれを匂わせもせずいらした、というような話を楽しそうに聞いておられる。堅苦しくなくて、ほんとうに楽しかった。

11月5日

 警察大学校で講演。世界の泥棒について、という題ではなかったのだが、私は泥棒対策をし続けて旅をしているので、話はどうもそちらに流れがちになる。「盗みも1つの文化ですね」と言った人がいたので、ただ単に物珍しさの話ではない角度で話せるのである。

 正午前、江東区潮見の日本カトリック会館に着き、アフリカで撮って来たフィルムにテレビ放送用の「語り」を入れる。

 夜は海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。カメルーンのピグミーの教育をしていらっしゃるシスター、末吉美津子さんが、山から降りて来て学校へ通っている子供たちの寄宿舎があまりにも貧しいので、建て直しを望んでおられる。まだ予算の詳細は送られて来ていないが、もしできれば私はカトム・ユリコの名前をどこかにつけた寄宿舎を作って欲しいと思う。私は実質的な遺産相続人ではないが、彼女の遺志を一番よく理解していると思われるので、寄付の用途を少し特定させてほしいと頼んだ。もちろん皆、ピグミーの子供たちの寄宿舎建設には賛成してくれているのである。


11月6日、7日、8日

 休み、休み、休み!


11月9日

 久留米の石橋文化センターで「福岡県父母と教師の教育交流大会」のために講演するので、日帰り出張。


11月10日

 午後、行刑改革会議。

 夜は、アフリカ旅行反省会。誰もあまり反省しているとも見えない集まりだが「私をも含めて若者」は全員集合。財団の8階で、皆から2000円の会費をもらった。私が我が家の菜園で収穫したばかりの貴重な掘りたての南京豆の塩茄でを持参。「コロッケの一際光る宴かな」と言いたいところだが、季語がないから俳句にもなっていない。うちではジャガイモを年に二度も採るので、季節感もないのである。

 よく聞いてみると、若い人たちの中には、日本に帰って来てから病気をした人が多かったらしい。それだけ緊張し、働き、過労になっていたのだ。でもよく朗らかに耐えた。おめでとう。


11月11日

 今日も財団へ出勤。

 執行理事会。電光掲示板ミーティング。インタビュー幾つか。フジモリ前ペルー大統領についてのテレビ番組をスペイン国営放送が制作するという。その打ち合わせも行う。知っていること、見たこと、だけお話します、と答えた。

 夕方、財団1階のバウ・ルームで、「日本の子守歌」のミニ・コンサート。詩人の松永伍一先生と西舘好子さんにひさしぶりでお会いする。

 子守歌に秘められた子守たちの悲しさの部分も存分に偲ばれて、いい企画だった。

 その後で、津村節子、岩橋邦枝、飯倉勢子、モンティローリ富代の皆さんと、帝国ホテルで食事をしながら、来春のヨーロッパ行きの打ち合わせ。まだ来年のことを語れる幸せを感じる。中東の戦火が拡大しませんように。


11月12日

 休日。新聞連載を書く。


11月13日

 昼、新聞連載を書く。

 夜、富士市で講演。新横浜から新富士まで各駅停車の「こだま」でも、52分しかかからない。だから人間は、最近思い上がり、勘違いをするようになった。東海道を歩いていた頃は、富士市のあたりまで何日かかったことか。
 

設標船「ジャダヤット」号  
「平成15年度社会貢献者表彰」の受賞者発表  
アフリカ貧困視察レポートシリーズ  


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