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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 人種差別体験?外国理解の足がかりの一つ  
コラム名: 透明な歳月の光 90  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2003/12/26  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私の孫は、この春、初めて1人でイギリスへ出掛けて、すっかりイギリス嫌いになって帰ってきた。

 彼は学校秀才ではないが、私の知る限りの若者の中で最もたくさんの小説を読み、私大の哲学科へ入った。つまりあまり勉強しなかったのである。東京へ来たのは、歌舞伎、オペラ、寄席、などを見たいという不純な動機からだそうだが、祖父母が溜めた航空会社のマイレージサービスを利用してただ切符でイギリスに行くことにしたのである。

 彼は髪も少々長いが、紐で縛るほどでもない。シャツは黒っぽいもので、ごく普通の革靴をはいて出掛けた。ところがロンドンに着いたとたん、ヒースロー空港で入国係官の質問攻めに遭った。

 どこへ行くつもりか。それはこれからここで決めます。ロンドンで4日泊まるだけの宿泊券しか持っていないではないか。ですから行く先はこれから決めるのです。金はいくら持っているのか。30万円です、と言おうとして彼は3万円と言ってしまったのである。

 たった三万円でどこまで行けるつもりか。仕方なく、彼は財布を出して有り金を見せた。帰りの切符はあるか。あります。とは言ったが、つまりただ切符である。

 お前が学生でパスポートの当人であるという証拠を出せ。パスポートが身分証明ではないのですか。写真もありますし。いや、それではだめだ。身分を証明するものを出せ。学生証はないのか? そんなものは日本語でしか書いてないから日本においてきました。

 一時は、イギリス入国を認められずに帰されるのか、と思ったという。と同時に孫は小学校1年生の時から少林寺拳法を続けて来たので、この係官をぶん殴ってやることも、頭をかすめた。

 しかし一方で身分証明書の代用品を考えているうちに、クレジットカードを持っていることを思い出した。普段彼は安い下宿で自炊し、本代以外ケチであまりお金を使わない暮らしをしているが、今回初めて祖父が自分の口座引き落としにしてクレジットカードを作って持たせたのである。彼は貧乏学生だが、祖父は少し「金持ちじいさん」だから、カードはゴールドカードであった。

 係官はそれを見るや、何も言わずあっさりと通した。孫はその時もう一度この係官をぶん殴りたいと思ったらしい。

 孫は1カ月以上イギリスを北端まで1人で旅をして来たが、この話は我が家でたいへんおもしろがられた。イギリス人に愚かな人種差別が根強いことを知るのも今後のイギリス理解の大きな鍵だし、世俗的な「金色カード」が有効に使える場があることを知るのも、1つの大人のなり方だ。

 愛、憧れ、憎しみ、侮蔑、何でも、その国や人を理解する1つの足がかりになる。
 



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