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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 6年の生涯  
コラム名: 私日記 第49回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2004/01  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2003年9月30日

 日本財団が毎年若い官僚や新聞記者に世界のどん底の暮らしを見てもらうアフリカ視察団は、今年はとうとうコンゴ共和国までやって来た。誰だってこういう国を訪ねるとは思ってもいないだろう。

 大学時代、私の同級生に高木基美子というふくよかな性格の素晴らしい女性がいて、この人が後年修道女になった。高木家は明治以前からのキリシタンの名家である。その基美子さんの姪たちがこれまたシスターになっていて姉の裕子さんがコンゴ民主共和風のキンシャサ、妹の良子さんが川1つ隔てたコンゴ共和国のブラザビルで働いていたからこそ、私たちはこの国の実情を知ることができるようになったのだ。

 ブラザビルでは大きなビルは内戦で荒らされて廃墟となり、生き生きしているのはコンゴ川だけという感じである。幸いにも、ここでも私が働いて来た海外邦人宣教者活動援助後援会がシスター・高木良子を通じて職業訓練専門学校「フランソワ・レジス学校」が必要とするお金を出して来た。

 シスター・高木はまず朝のミサに私たちを招待してくれた。普通こういう場合、日本人はともすれば宗教的行事を遠慮するものなのだが、ミサをいっしょに捧げるということが、何より大きな歓迎の意味を持つということが私にはわかる。私たちは俄編成の聖歌隊を組織していたので、ここでも「アーメン・ハレルヤ」と「ルルドの聖母」を歌った。なかなかいいエレクトーンと音響設備があると思ったら、それも海外邦人宣教者活動援助後援会の寄付であった。

 ここでは14歳から33歳までの女性たちが、お菓子作り、パン焼き、裁縫、オテリエと称するホテルのメイドさんの訓練などのコースで働いている。もっとも知識と訓練を身につけたからといって、就職の希望はあまりないらしいのが気の毒だ。裁縫の部屋では、やはり私たちからの寄付のミシンが30台きちんと並んでいる。オテリエの訓練室で、私は胸が熱くなった。ベッド、ナイトテーブル、洗面台などを並べたモデルルームができている。つまりまともな「西洋風の部屋」など一度も見たことがない小屋に住んでいる娘さんたちがほとんどだから、そこから教えなければならないのだ。

 お昼はしかし、お料理教室の生徒や先生の出番だった。おいしい鶏料理が出た上に、素晴らしいのはウェディング・ケーキのような2階建てのお菓子が用意されていたことだった。そこに出席していた学校の関係者全員が、まだメイン・コースを食べているうちからそのお菓子に注目していた。私たちお客が先にそれをもらったが、実に甘さも適切で上等なお菓子だった。学校の職員たちが自分で取りに行く段になると、巨大な一切れを遠慮なく取ってしまう人もいて、やがて主任の男の先生が公平に切る役目に廻った。

 午後はここに宣教師が入った初めての土地へ。教会はゲリラに壊され、無人になっている。その途中の悪路を若者たちに体験させられたので、私は満足。帰路、病人を拾った。足が腫れて歩けなくなっている男性が、家族2人に支えられている。中井先生がすぐに診てくださって、鎮痛剤のロキソニンを与えたら、トラックの背中で間もなく眠ってくれた。町中の国立病院の傍で下ろす。路線バスもなく人々がタクシーを頼むだけのお金を持っていない土地では、一般に病人は医療設備のあるところまで辿りつけないのである。

 夜は修道院でシスターたち大勢とピザやヨーグルトの夕食。両方で「スキヤキ・ソング」も歌う。1人のスペイン人のシスターは、日本財団の尾原敏郎さんと、2人に共通の母国語のスペイン語で思うさまお喋りができて、これも多分「命の洗濯」だったろう。


10月1日、2日、3日

 1日の朝、川を渡ってコンゴ民主共和国へ戻った。昨夜高木良子さんに「ちょっとお隣に行ってお姉さまに会わない?」と誘ってみた。すると「いいえ、いいんです」と明るく断られてしまった。何かというと近くの姉に会いに行くような精神は、使命と無縁なものなのだろう。それにあらゆるシスターはどこでも恐ろしく忙しいのだ。

 船着場の光景は日本人にとって信じがたいものだった。手製の松葉杖や同じく手製の車椅子に乗った足の立てない人と、盲人の大集合なのである。しかもその人たちが、卑屈そのものに、顔をうなだれて歩き、手で顔を隠して埠頭にうずくまる。ブリューゲルの作品に、盲人が盲人を導く絵があったが、1人の晴眼者が数人の盲人を引き連れて歩いている人もいる。日本の障害者のように「他の人と同じ」暮らしを何気なくしてもらうには、どれだけの社会の意識革命をしたらいいのだろう。しかし私の見るところ貧しい社会ほど、差別が激しい。人を差別することによって自分の存在意義を確認したいのだろう。

 正確な情報ではないが、障害者は船賃がただなので、あちら側に渡って商売をするのだという説もある。しかし職種はわからない。乞食をするのか、それとも商店で働けるのか。しかも乗船後、下のデッキに屯した障害者を見ていた我々の仲間が、素早くズボンの下に布地を隠している障害者を見つけた。近くの人から盗んだか密輸品か。「気の毒なだけじゃないんだな。結構すばしっこく狡いんだね」というのが感想。アフリカが教えてくれる教訓だ。こうして「善良で単純な日本人」がだんだん複雑な大人の視点に変わる。

 川の中央を流れるホテイソウに白鷺が乗って休むコンゴ川を渡って、再びコンゴ民主共和国に帰る。

 午後、4人おられる副大統領のお1人、ザヒィディ・ソゴマッ氏の公邸訪問。若い人たちがこうした国際的な場に馴れて礼儀正しく自然に振る舞えるようになってほしいので、貧困旅行の例外的な企画。その後、カビラ大統領のお墓参り。墓というより大理石の廟である。その前のカビラ氏の銅像、右手を上げて毛沢東と似ている。同行者の中から、「貧しい国がこんな銅像作らなきゃいいのに」の声。

 カンルカ医療センターは、シスターたちが経営している。建物は、とうていセンターと言えるようなものではないが、ここは出産、マラリアなどの診療、栄養失調児の栄養補給、その他あらゆる簡単な医療行為ができるようになっており、最近、海外邦人宣教者活動援助後援会が子供のための入院室2室の増築費を出したばかりである。管理者のシスターが鍵を忘れたので、部屋に入れなかったが、格子越しにまだがらんどうの入院室の完成はしっかりと確認できた。

 1999年に初めて私がここに来た時、戸外のベンチには骨と皮ばかりになったマラスムス(衰弱、ことに長期間にわたる蛋白質とカロリー不足が原因とされる)の子と、一見太りかえったように見えるクワシオコル(1歳〜3歳の小児に認められる貧血、浮腫、太鼓腹、皮膚色素脱色、毛髪の赤色化などを示す)の顕著な子供が溢れるほどいたが、今ではその数がうんと減った。母親たちが連れて来ている5、60人の子供のうち、老人様顔貌と言われるほど痩せているのは1人しかいない。エイズはいるのかもしれないが、まだ羸瘦がひどいのはいない。

 ここではこうした子供たちに給食もしている。センターの一部にある原始的な竈には大鍋がかかっており、そこでトウモロコシ、大豆、脱脂粉乳などをまぜた一種のお粥が煮えている。給食の対象は、主にお母さんが抱いて匙で食べさせる年の幼児が多いのだが、中には立派に1人で食べられる年の子供もいる。その子が持参のスープ皿に入れてもらった栄養食を、持って来た袋に入れようとするのを私はじっと見ていた。もちろん流動食だから、袋の中で傾ければすぐにこぼれてしまう。しかしこの子は「給食はその場で食べること」という規則を犯してでも、家に持って帰って親や兄弟に食べさせようとしているのだ。

 シスターたちは、この規則破りをその場で取り締まる。そうでなければ、この子の栄養不良は解決されない。

 アフリカのみならず世界の栄養失調の改善政策は、昔は食料を手渡すことだと思われていた。しかしそれはさまざまな理由でだめだということがわかった。多くの貧民は手渡された食料を売ってしまう。親たちは、赤ん坊に配られた外国からの援助のミルクを市場で高く売って、年上の子供たちを養う安い食料を買うのだ。或いは悪質な政権が、対外的には一旦公正に配ったように見せかけた食料を、自宅で再び回収、つまり収奪する恐れもある。だから多くの栄養失調児の対策センターでは、子供の給食は眼の前で食べさせる。しかし飢えた子供たちは、自分に配られた食料をけなげにも家に持って帰ろうとする。それを見る度に私は、アフリカの子供に対する教育は日本と違って間違っていなかった、と思う。それは、1つにはアフリカが「子供の人権」などという虚しい言葉を採用しなかったからだろう。「子供の人権」を守るのは結構なことだ。しかし誰が存在しない食料を子供たちに配るのだ。そして貧しい親たちを助けるために牛飼いをする子供たちを学校へ行かせるために、誰がその親たちに職を見つけてやれるのだ。

 カンプ・ココロと呼ばれる広大な軍人病院と、軍関係者の孤児の施設を訪れた時も、貧困地帯の救済には一種の毅然とした強さが要ることを見せつけられた。ここは内戦で傷ついた人たちと、内戦で孤児になった子供たちなどの治療をするところである。そこにユージェニー・コタクムというマリアの宣教者フランシスコ修道会の修道女で、看護婦で、しかもコマンダン(司令官)というすばらしい女性が働いていた。

 この人は私たちが、この病院を訪問するに当たって病人1人1人に手渡せるようにお米を買いつけて包装しておいた。ところがその日になって、その米は倉庫と称する所にしまいこまれていて出てこないことがわかった。「後で渡してくださればいいじゃありませんか」と私たちが言いそうになることをシスターは許さなかった。そんなことをすれば、お米は決して病人に渡らずにどこかに消えてしまう。院長は憮然としているが、シスターは男たちを指揮して無理やりに米を運び出させた。この人は神だけを恐れているから、院長など恐れなくて済むのである。

 1999年にあまりの汚さと機材のなさに私がショックを受けたヌガンダ病院は、外見も入院室もずいぶんきれいになっていた。しかし今でも天井は破れっ放し。血液検査の部屋にもろくな機材はなく、手術室には帝王切開だという妊婦がいたが、ほんとうにこれから手術をするのだろうかと思うほどの不潔な管理である。私たちと同行のドクターの1人は「今日からこの病院をあなたに任せます」と言われたらどうしていいかわからない、と感想を洩らす。

 お産後30日も退院しない女性は、どこが悪いのでもなく、出産と入院の費用を払えないので、病院から退院を許されないのだという。つまり人質である。夜逃げしないだけ誠実な人なのだろう。

 タリタクムという名の施設は、内戦の時、両親を失って孤児になり、心の傷が深くなった子供たちを収容している。ここにもマリー・テレーズ・ヌクークという肝っ玉母さん風のシスターがいて、少年たちに石鹸を作らせていた。学費を捻出するために売るのだ、という。1人の少年は両親を失って喋らなくなった。しかし絵を描き始めてから、少し会話をするようになった。私たちにも初めは全く表清を変えなかったが、「絵を見せて」と言うと画帳を持って来て笑顔を見せた。私はいつかこの少年がパリで個展を開く時見に行く約束をした。

 一夜は大使館で福島清介大使ご夫妻のお招きを受けてごちそうを頂く。その翌日は私たちがこの地におられるシスター・中村寛子と高木裕子のお許しをえて、財団の平田総子さんと尾原敏郎さんとで、修道院の台所を借りて50人分のカレーを作った。切り干し大根を戻して3分間でハリハリ漬けも作った。お酢はお寿司の味付けに使う粉を溶かしてちょっとお醤油を入れただけである。その質素な夕食に、福島大使夫妻もお招きしてリターン・バンケットとした。ひどいお返しもあったものだ。

 しかし私たちの一番の驚きは、シスター・中村寛子にマラリアが出たことだった。つまり私たちが来ることで疲労が重なっていたのである。このシスター・中村は、修道院に入る前、山口県モーターボート競走会に勤めていて、その退職金で修道院に入った。

 前回帰る間際にはシスター・高木裕子がマラリアになった。今度はシスター・中村である。マラリアはやはり猖獗を極めているのだ。

 幸い今回は中井先生が診察をしてくださったから、シスターの回復も早いだろう、と思われた。


10月4日、5日

 4日午後、キンシャサ発。アンゴラヘ。飛行機が定刻に出たので少しびっくりした。

 午後6時、予定通りルアンダ空港着。ホテルで夕食前に、元スイス人のドクター・ジャン=ピエール・ブレシェット氏やWHOの関係者から、ブリーフィングを受ける。ブレシェット氏は牧師さんで医師である。元スイス人というのは、アンゴラ政府が自国民の関係しているNGOにしか車輌の輸入その他の許可を出さないので、スイス国籍を捨てたのである。

 短いアンゴラ滞在の間に、私が受けた一番の感銘は、この方の頭のよさと、スイス国籍を捨てたことだった。アンゴラの将来は別として、この国はいまだに内戦の後遺症の中にある。貧しいし、官吏の堕落もひどい。空港の職員は、平気で「マネー、マネー」と金をねだる。清潔、規律、豊かさを楽に手に入れられる母国スイスを捨てて、貧しさと汚職がはびこっている国に国籍を移したのだ。それだけの覚悟が、私たちの誰にあるだろう。

 翌日、車で1時間余りのフンダ・ハンセン病コロニーに行く。広大なごみ捨て場という感じの谷間のバラックに住む人たちの村を過ぎ、川からタンク車に水を汲む人たちの集まる岸辺を通り、やがて荒れ地の中にのんびりと拡がるコロニーに着く。ここの患者さんたちはもう治った人たちだが、自立の生活がまだできない。しかし元患者たちは、靴を作ったり、鶏を飼ったり、それなりに生活を楽しんでいる。

10月6日

 早朝、空港へ。アンゴラ航空で南アのヨハネスブルグヘ。空港からそのままバスで、ボッツパーグのフランシス・ケヤーセンターへ行く。ここにはフランシスコ会の根本昭雄神父が面倒を見ておられるエイズ・ホスピスがあって、今年の視察団の団員がエイズの問題とまともに接するのはここが初めてになる。

 根本神父は海外邦人宣教者活動援助後援会がここに支援しているすべてのものを見せてくださった。去年からの1年の間に、私たちの組織は私たちが既に建てた病棟に壁掛け式の暖房設備を設置した。ここへ連れて来られる患者は末期の人ばかりだから、その日のうちに息を引き取ることも珍しくはない。多くはいても3、4日だという。その最期の日々を温かく過ごしてもらうために暖房を入れたのである。病棟は清潔そのものでトイレに臭気もない。明るく、眩しくさえある陽の光に満ちている。

 しかしドクターたちだけしか入らなかった1つの病室では、1人の女性患者にもう死の近いことを告げる下顎呼吸が始まっていた。そして別の部屋では日本人の若い女性のボランティアが薪のようにやせ細った患者の足をさすっていたので、私も片足をさするのを短時間だけれど手伝った。私はそもそも按摩指圧に天性の才能がある、と1人で宣伝しているのである。

 私たちのNGOは、患者を運ぶために使うベンツのミニバスも買ったのだが、それを神父は隣接するアルコール中毒患者のリハビリセンターまで私に試乗をさせてくれた。素晴らしい車である。患者を乗せるためだけでなく、引き取られているHIVプラスの子供たちを遠足に連れて行くのにも使うと聞いてほんとうに嬉しくなった。できるだけ度々連れて行ってやってほしい。

 私たちはその子供たちともしばらく遊んだ。今のところは元気そのもので、中にはワルガキ風のもいて、私が筆記用に胸に提げているボールペンをさっと抜き取るのだからたまらない。「こらぁ!」と私も大人げなく商売道具を取り返す。

 しかしこういう子供たちすべてが、今のところ6歳位までしか生きないという。先日例外的に11歳まで生きた子が、1人いただけだという。

 今度初めて、私は海外邦人宣教者活動援助後援会が最初に建てた霊安室の中に、今日は2人の遺体が入っていて、家族の引き取り手を待っているのを見た。ほんとうは昨日から1日の間に3人が亡くなったのだけれど、ついさっき一体が引き取られて行ったという。最期を看取ることはしてくれなかったとしても、遺体を迎えに来てくれる人がいるのは、まだしも幸運なことなのだ。

 1人の遺体の足元には、家族に渡す遺品もおいてあった。それはマーケットでくれるようなビニール袋半分もないほどのわずかな量だった。プラスチックのコップ1個が見えるが、後は何が入っているのだろう。ボロ切れ1枚かそこらしかないように見える。それがその人がこの世に残した全財産だった。しかししがらみやお金をたくさん残さなかった人は、軽々と天国へ飛び立てるような気もする。

 夕食をケヤーセンターの支援者の方たちといっしょに野外で頂く。満月に近いいい月夜であった。


10月7日

 朝、行刑改革審議会のメンバーがイギリス、フランス、ドイツなどへ刑務所の視察に行ったのに、私にはその日程が取れなかったので、どこか見て来てください、ということになり、私はヨハネスブルグでボッツバーグ矯正センターを見学することにした。ここでは刑務所という言葉を使っていない。

 夜は三井物産の栗原一郎社長のお宅で、団員一同羊の焼き肉その他のごちそうを頂いた。いよいよ明日は帰国の途に就くと思うと、みんなほっとしている。


10月8日

 夜行便で発つ団員は最後の日だけ市内見物に行く。そのバスを見送ってから、日本財団の玉沢正徳さんと、一足先にシンガポールヘ向かった。インドネシアのバタム島は、シンガポールからほんの眼と鼻の先の島だが、そこで日本財団が今回7億円で新造し、インドネシアまで回送して来ていた新しい設標船を引き渡す式に出席するためである。この船はマラッカ・シンガポール海峡1000キロの過密な船の航行ルートを安全に保つために、インドネシア政府によって今後運行される。

 別れる時、安田浩子ドクターと暮らしの映像社の鈴木浩さんの2人のカトリックに、「皆さんの乗られた飛行機の車輪が成田空港の地面に着いたら、この長い行程を安全にお守りくださってありがとうございました、と神さまに感謝を捧げてくださいね」と頼んでおいた。毎年の旅行の後、いつも私がそのことだけはして来ていたのである。
 

アフリカ貧困視察2003(第1回〜)  


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