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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ピグミーの森で  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2003/11  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   アフリカ、カメルーン東部の原生林の中にあるピグミーの村に入りたい、と希ってから1年が過ぎた。去年カメルーンから中央アフリカ共和国へぬけた時、本当は陸路、ピグミーの村を訪れながら行きたかったのだが、その直前、一説には米国人又はベトナム人と言われる外国人が襲われて、護衛の警官1人が死んだというニュースが入って来た。

 私がそのコースを諦めたのは、私たちの俗称「貧困調査団」には、若い大切な青年たちがおり、彼らの安全を可能な限り考えなければならなかったからである。もっとも私は旅の前から、誰にも「『完全な安全』などお約束できません」と言っていた。一番恐ろしいのは交通事故、次がマラリア、3番目が物とり強盗に遭うことである。これらのことにどうしても遭遇したくなかったら、すばらしい方法がある。それは旅に出ないことだし、同時に人生の感動に会う機会を放棄することだ。

 カメルーンに入るには、パリからカメルーンのドウアラまで約6時間半。更にドウアラから首都ヤウンデまでは車で3時間前後。本当の旅はそこから始まる。つまり四輪駆動5台で東の方へ、(途中で迂回する部分もあるので)約600キロ移動するのである。

 一見、穏かな熱帯雨林の間を道がめぐっている。私は現場に来てもまだどれくらい危険か予想がつかなかった。大手商社を停年後、ドウアラに留って会社を作ったN氏によると、「そんなことを考えていたら仕事はできないから、襲われたらさし出す金を用意して出歩いている」ということだった。強盗への献上金は、いくらくらいなら納得して頂けるものかわからないが、私は10万中央アフリカ・フラン(日本円で約2万円)を財布に残し残りを洗面道具の下に隠した。靴の中に1ドル札と10ドル札を何枚かたたんで隠すやり方は今回はめんどうでやめてしまった。

 その金額は、今回護衛を頼んだ軍警察の兵士5人の日当から推測したものである。諸外国で、警察や軍を警護に頼むことはよくある。その間の日当や生活費は依頼主が払うことになる。もっともピグミーたちと10年近くを暮すシスター・末吉美津子さんに言わせれば、そんなことはほとんど起らないと言うだろう。しかし私の仕事は、とにかく調査を無事に終らせることである。ただ性格として、私は護衛がゲリラと通じていることさえ心の片隅で疑っていた。彼らの報酬に関しては一部だけを前金で払い、そのほとんどは4日目にヤウンデ帰着後とするように言ったが、こういう用心は多くの場合、後で恥じることになる。護衛と言ったって、錆びた自動小銃が数挺あるだけなのではないか、とも思えたが、指揮官は小柄な大佐で、パリやロンドンで勉強したこともあり、英語も話した。他に4人の部下たちがいたが、携行している武器はフランス製FA?MAS機関銃2丁、チェコ製AUGS機関銃2丁(いずれも弾120発)、ロシア製カラシニコフ機関銃1丁(弾140発)、手榴弾1人4個、というかなりの重装備である。旅の途中で聞いたところによると、イスラムは1人だけ、あとの4人はクリスチャンだという。

 私たちはベルトアという虫と鳥の声の高い田舎町に1泊し、夜明けと共に出発した。朝早く行動を開始し、できるだけ夕暮れ前に目的地に着くのが安全の基本である。もっとも道が思ったよりよくて、私たちが事故にそなえて持っているスコップも牽引用のワイヤーロープも一度も使わなくて済んだのは、1つには借り上げた四駆がまだ比較的新しいのと、この地区に入っているイタリア系の会社が原生林に生えている巨大な材木を切り出して運ぶために、かなり定期的に路面を手入れしているからである。

 末吉さんと私が、ピグミーに関連して知り合ったのは、シスターがいわゆる森の子供たちの教育をすすめるために、学用品を買うお金が欲しいと言われた時である。それはほんのささやかな額のもので、私が働いている海外邦人宣教者活動援助後援会がそれを引き受けるのはたやすいことであった。もっとも末吉さんは率直な人格で、2、3ヶ月日本に休みで帰って戻ってみると、ピグミーの子供たちは皆山の家に帰ってしまい、文房具も上げるから学校に戻っておいでと言おうにも連絡のしようがない、という話も伝えてくれた。何しろ、ピグミーの森はもちろん電気もない太古そのままの世界だから、所番地もない。最近でこそ、カメルーンの田舎のあちこちで見られる土壁の定住型の家を作るピグミーが出て来たが、彼らはもともと狩猟民だから、家は狩りをする地点の近くに、その時々で作る。半日もあれば可能なのだという。だから、末吉さんは、生徒一家が今どこに住んでいるか突きとめられないのである。

 家は、日本人が雪で作るカマクラと同じような恰好をしている。よくしなう大型の葉のついたツタのような植物を、地面に突き刺して円型にまとめた木の骨組にのっけている。

 森のピグミーの村に行くには、シスターたちの住む修道院から、更に四駆で原生林の奥深く分け入らねばならない。その道の入り口は、両側から背の高い草がおし寄せ、ぴしぴしと笞で叩くように車の両側をうつ。学校が始まる前に山刀で草を刈っておくように言ったのに、数百メートル、或いは1キロ以上の距離だから、父兄たちが刈り切れなかったというのである。

 ピグミーは日本では、人並みはずれて背の低い人種と思われているが、ここのピグミーたちは日本人の小柄な人とそれほど違わない。明治生まれの私の祖母は、まさにここの人たちくらいの背だったと思う。森の学校はもちろん電気もない小屋だが幼稚園前後の児童と思われる子供たちは、並はずれて音楽の才能があり、先生の言うフランス語をちゃんと理解する。アメをもらうと紙のむき方のよくわからない子もいるが、多くの子がその場で食べないのは、必ず兄弟姉妹に分けるという習慣があるからである。私が見た他の土地では、しゃぶりかけのアメをまた口から出して家に持って帰るのや、もらった1枚のビスケットを食べずに握っているうちに粉々になって来るケースもあった。アフリカでは家族は徹底して助け合わねば生きられないのである。

 村長の弟の家は定住型で、中には竹でできた担架型の寝台が2つあり、炉の火の上ではトウモロコシがゆっくりと煮えていた。これが狩猟型から定住型への移行を示す彼らの全生活の変化である。もっとも学校へ通わすことも定住化をぬきにしては考えられない。ご主人はきれいなフランス語を話し、私たちが帰る時に、かねがね話に聞いていたハチミツを野生の大きな葉に包んでくれた。濃い茶色の蜜でロウの部分も入っているが、噛むと濃密な複雑な甘さのハーモニイがこの上なくおいしい。

 この家の前では、危険な象狩りに行く前にする踊りを見せてくれた。ピグミーは一種の共産社会で、猟に行かれない同じ部族の老人にも、狩った獲物や採集した蜂蜜などを分ける習慣があるが、象狩りの場合はもっとその習慣が拡大されて、近隣の他部族も皆集って来て食べていいのだという。第1の理由として一人占めにして持って帰ろうにも、象の肉は一村でとうてい運び切れないということがあるだろう。ゴリラ、猿などの肉なら村に持って帰って皆で食べることができる。そのような彼ら本来の文化は、今、自然保護の名のもとに非難されるだろうが、象が各地で増えすぎているのは事実らしいし、投げ槍で象を射止め、冷蔵や冷凍設備なしにそれを処理・消費する範囲なら、自然の調和も保たれているのだろうと思われる。

 末吉さんを慕う村人が、もう1つ私たちに見せてくれたのは、ジェンギという一種の祭儀的踊りである。アフリカのあちこちに、日本のナマハゲとそっくりのおそろしい顔をした面をつけた「怪物」が子供たちを襲う祭の様式があるが、このジェンギは、顔のない草のお化けである。つまり黄金色をした柔い森の草を3段階に、頭、胸、腰にフラダンサーの腰蓑のように全方向につける。のっぺらぼうの草のお化けだが、これは誰が演じているのか誰にもわからない。あまつさえ、このジェンギはとにかくくるくる廻って踊るのだが、その時腰蓑の裾の部分の草がはね上って踊り手の足が見えないように、数人の男たちが大きな葉のついた木の枝で足許の部分を隠す。幽霊とか精霊とかいうものは、どこの国でも足があってはいけないようである。それでも、時々ゴムのビーチサンダルをはいた足はちらちら見える。相当の踊り手であることは確かだ。こういう踊りの後は、子供たちに用意して行ったキャンデーも分けるが、村長さんにも握手をした時にこっそり3000セーファー(約600円)程度の感謝を渡すことも忘れてはいけない。

 末吉さんの修道院は、一度に日本人、憲兵隊、借上げ四駆のドライバーたちなど30人以上もの人を泊めなければならないので大変だった。私たちが通されたのは、図書の戸棚で仕切られた裏側の部屋で、仕切りは戸棚とカーテンだけだが、ちゃんとベッドもあって恐縮した。図書室には、青年たちが床に寝袋を並べて寝ている。ここには夜8時半までの自家発電機による灯、水だけだが出るシャワー、水洗トイレも水道もある。幸いなことに参加者は文明から遠い生活方法に馴れていて、頭につけるヘッドランプ、蚊よけの方法なども用意して来た。ここはれっきとしたマラリア地帯で、病人といえばまずマラリアにかかっているのである。しかしこの世界の最低の貧困を学ぶ旅行は今回で7度目なのだが、これ迄には1人のマラリア患者も出なかった。

 アフリカで見られるすべての病気の根源はまず栄養不良、発病の引き金は過労と言われている。だからこの旅の間は??物見遊山に来たのではないのだから??私は団員に修道僧のような生活を要求している。ビールはいいのだが、「夜は早く寝て下さい」と言うのである。幸いなことにミンドルウの町には、「バー」と書いた小屋がけもないではないのが、どんな不潔なコップで飲まされるかわからないし、「今日はビールを切らしている」と言われることもあるだろう。ビールがなくても「バー」と書けばバーなのだ。そして日本でなら赤提灯のテンポに合わせて暮す新聞記者たちの1人は、こんなにも早く眠くなり、こんなにも朝飯をおいしく食べられることを不思議がり、半ばダラクと感じている。

 私がミンドルウで最もうたれたのは、ジェンギによってもあらわされる精霊の支配する森の威厳だった。それは私が普段はほとんど見ることのない一次林で、そこには原始が持っていると思われる圧倒的な何ものかの「存在」の気配があった。

 静寂は音の欠如ではない。静寂というこの上ない無邪気な生の存在の音に満ちているのである。もっとも無邪気な生の存在は、日本人が考えているように、決して「皆に優しい」ものではない。槍で象に立ち向えば、象に殺されることもある。戸も天井も窓もない小屋で、マラリア蚊の侵入を防ぐことなどできるものではない。裸足で歩く子供たちの足の爪の間には砂ノミが卵を生みつけるから、その卵を破らないように取り出さねばならない。ほとんどアフリカ中の裸足の生活者がこの砂ノミに悩まされている。

 しかし火を使う以外は動物とほとんど同じような生活をしている人々に、天もまた森と呼応するかのように、雄大にして魂をとろかせるかのような凄烈な星の群を用意する。

 私たちが森にいた晩、月は3日か4日の上弦だった。シスターたちの修道院の奥庭でさえ、蛍が飛び交っていた。ピグミーたちの森は、それこそ蛍をかき分けるほどの夜であろう。修道院のテラスのくもの巣に、1匹の蛍がかかった。心優しいノッポの同行者の1人が、その蛍を逃してやりに行った。

 シスターから聞いたピグミーの話が私の心から離れなかった。あの竹のベッドを持ち、トウモロコシを煮、きれいなフランス語をしゃべる村長の弟の子供たちのことだ。きっと頭のいい子供たちだったのだろう。だからこそシスターは森から連れ出すことを親にも当人たちにも納得させて、修道院に隣接する寄宿舎に入れて、そこから学校へ通わせることにしたのだ。

 しかしそれは挫折した。美しい挫折の物語である。子供たちは町まで出て来て、やはりあの森へ帰った。何を好んで、排気ガスの匂う、牢獄のように、窓に格子の入った寄宿舎の部屋で暮さねばならないのかと、思ったのだろう。小さくて空気の流通の悪い窓に格子をはめたのは、ほとんどボロしか持っていない生徒の私物でさえ時には盗んで行く人がいるからである。

 私でも森へ帰る、と私は思った。天の川が音を立てて流れるような星空の下で、年齢も何も知らず、穏かな時の流れが燃える炉のそばにただよう木の葉でできた家の方がいい。

 ピグミーたちは出生届を出さないので、カメルーン人としての存在のあかしもないことになってしまう。大人に国籍を取らせるには、大変な手数がかかる、と末吉さんは言う。一族を何人も出頭させて当人であるという証明をしなければならない。アンゴラでも、ハンセン病を患っていた人は、他の人々からも無視され、当人自身も「自分を持っていなかった。それは出生届がなく、国籍を保有してもいなかったからだ」と1人の医師は言った。

 国籍など何のことがある。ママから生まれれば誰でも人間になれるのだ。ピグミーたちはそう思うだろう。

 星空の森に留るか、喧噪の町に耐えるか、それは一人一人の体質が選択することだ。しかし森から出るには、教育が要る。それも事実だ。森はイタリアの会社が木を切り続けているから、荒れるだろう。大木がなくなってイタリアの会社が引き上げれば、道は荒れ放題になって車の通行は事実上不可能になる。シスターたちも物理的に活動はできなくなりここに留っても仕事ができなくなる。

 ピグミーというのは差別語だと言って目くじらを立てる人がいる。私は呼び名など、何でもいい。彼らの正式な部族名はバカ族という。
 



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