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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: アラブ首長国連邦(ドバイ編)  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2003/10  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   アラブ首長国連邦(UAE)は、アラビア湾岸の産油国のひとつだ。日本に大量の石油を輸出している。わが国に入ってくる原油の5分の1は、UAE産であり、対日輸出で世界のトップの座を占める。北海道と同じ面積のこの小さな国の存在なくしては、経済大国日本の産業は成り立たない。だが、その割には知られていない“遠くて、遠い”国なのだ。

 1971年、英国のあっせんによって7つの部族長(シエイク)の王国が話し合って、ひとつの連邦国家、UAE(United Arab Emirates)を建国した。この中で、150年分の石油埋蔵量をもつ超金持ちで、連邦の首都機能をもつアブダビ首長国については前号で紹介した。今回は、そこから目と鼻の先にある連邦で2番目に金持ちの部族の国、ドバイ首長国に足を延ばした際の見聞である。


≪ ラクダ競争はなぜ賭けがご法度なのか ≫

 首都アブダビからドバイの市街まで130キロ、厳密に言えば隣りの国なのだが、国境のバリケードや検問所があるわけではない。片道3車線のハイウェーを飛ばしているうちに、いつの間にか、ドバイ領内に入っていた。ドバイも石油成金ではあるが、アブダビほどではない。石油の埋蔵量もアブダビの10パーセントに満たない。しかし石油が出る以前のアブダビは荒涼たるわびしい漁村だったのに対し、ドバイはすでにシルクロードの交易港としての地位を確保していた。

 途中、高速道路の両側に、異様な風景が展開する。ところどころ白いガードレールの代りに、高い緑色のフェンスが作られている。このフェンスの切れ目には、金網が張られている。いったいあれは何なのか。「あれは、ラクダ除けのネットです。道路にラクダが入って来ないようにね」

 同行のシュリヤナッツ・デヤン君が教えてくれた。彼は、この国のガイドの免許をとり出稼ぎに精を出している英語のうまいセルビア人だ。以下は、彼とのラクダ談議だ。

 「ラクダ1頭は、子どもだったら300から400ドル。大人なら2000から3000ドル。野生ではなくて放牧してるんだ。ベドウィン族の砂漠の乗用兼運搬用であり、食肉でもある」

 「ドバイは、ラクダのレースが有名なんだって?」

 「そう。しかし、ラクダの投票券を買って当てても、現金の配当はないよ。記念に賞品をくれるんだ。イスラム国は賭け事は禁じられているからね。競争用のラクダは高いよ。1頭で10万ドル以上するのもある」

 デヤン君、なかなかの博識だ。賭け抜きのラクダ競争が、どうしてそんなに高いのかと聞いたら、「王族が、1等になったラクダの主に、賞金を沢山くれるんだ」とのことだ。後刻コーランを調べたら、「狩りに出かけて、賭け矢をすることまかりならん」とあった。イスラム国の賭けごと禁止は、この文言から来ているらしい。日本のパチンコが、出玉を現ナマではなく金券代りのタバコなどと交換する建前をとっているのと、どこか似ているではないか。

 ところでラクダのネットの内側にある高速道路の緑の柵のことだ。何故、白ではなく緑なのか。デヤン君の解説がふるっていた。

 「UAEのアラブ人が、金持ちであることを自慢したいからだ。砂漠のアラブ人にとって昔から緑は豊かなることの証しだった。オアシスに生えるナツメヤシの木や、木洩れ陽の下で栽培される野菜や牧草がそれだ。この国はハイウェーを、緑の樹木で囲むだけでなく、砂漠に、半径200メートルもある回転式の散水機を備えて、野菜だけでなく、草まで栽培している。人工栽培の草を飼料に牛の大牧場がある。ドバイのミルクの90%は自給だよ」


≪ 「我が懐しき苫屋なり」 ≫

 いまや「緑のリッチ」になったドバイ。昔はどんな暮しをしていたのか。ドバイの、港を守るため19世紀に建設された石造りの砦がそっくりそのまま、ドバイの歴史や文化遺産を保存、展示する博物館になっている。この町の古いスーク(市場)の隣に1971年開設されたものだが、なかなかの見ごたえだ。

 中庭に、実物大の小さな漁船と、ナツメ椰子の葉と山からはるばる運んだ貴重な木で作った苫屋がある。1960年代初めまでは庶民の住居として実在したそうで、天井には風通しをよくするため椰子の葉で縫んだウインド・タワーがついている。

 アラビア語では「バルジュール」と呼ばれる電気いらずのエアコンだ。高いものでは屋根の上に5メートルも煙突のように突き出ている。上部は四方が開かれており、かすかな風でもキャッチする。中央に換気坑があり、これを伝わって風が降りる。その過程で風の落下速度が速まり温度が下がり、部屋を冷やす。温まった空気は換気坑を上昇し、外に放出される。空気がかなりのスピードで環流するので、40度にもなる日中も結構涼しいのだという。

 博物館内には、ドバイの今と昔のジオラマがある。半裸のハダシで荷物を運ぶドバイの労働者、海岸の漁村に苫屋が並び、漁民が魚を箱詰めする風景etc。力ネに糸目をつけずに製作した展示物だけに、一瞬、実物に出会ったような錯覚に陥入る。私は、この国のジオラマで表現された昔の世界にひたるうちに、日本の小学唱歌の歌詞を思い浮かべたのだ。

 「我は海の子、白波の騒ぐ磯部の松原に、煙たなびく苫屋こそ、わが懐かしき住家なれ」。もう日本人が歌わなくなった100年以上も昔の情景を詠んだ歌だ。

 だが、ここに展示された「煙たなびく苫屋」の昔は、ドバイではついきのうの出来事、1960年頃の情景だったのだ。この国の近代化のなんと速かったことか。ついでに博物館で仕入れたこの国の歴史の長い話を短かくするとこうなる。

 まずはドバイの首長の名前から。UAEの副大統領兼首相もやっているドバイの支配者である彼の名は、Sheikh Maktoum Bin Rashid Al Maktouni。アラブ人の名前の読み方を伝授しよう。「BIN」は息子、「AL」は○○家をさす。マクトウム家のラシドの息子のシエイク、マクトウムという。マクトウム家が、内陸部のオアシスからこの海岸の僻地にやってきたのは、1830年代で、真珠採りと漁業を細々と営んでいたという。1939年、彼の父のシエイク・ラシドは真珠採りでは食ってはいけないと判断し、ドバイをインドと欧州貿易の中継基地にしようと決断した。

 ドバイを関税ゼロの自由港とし、海外から集まった金をインドに向けて大量に密輸出した。金のほかにも棉や香料など海のシルク・ロード貿易の主要商品は、ゼロ関税のドバイに集まった。手狭になったドバイ港を拡張するため、1950年代の末には、すでに湾岸の大産油国であったクウェートから借金して、ドバイの町を流れるクリークを深く、広く改修する工事を開始した。1963年完了、クリーク周辺にはビルが立ち並び、博物館の展示と同型の「煙たなびく苫屋」はついに取り壊された。

 中東の小香港と命名されたこの国の沖に石油が出たのは、それから3年後であった。


≪ 「ドバイよ前進せよ。いつでも、どこでも」 ≫

 「ドバイよ。前進せよ。いつでも、どこでも可能な限り」。これがシエイク・ラシドとその息子のマクトウムの、ドバイ近代化のスローガンであった。ドバイは、年々、アブダビの4分の1に相当する石油を生産しているが、あと15年で海底油田の石油資源は枯渇する。そこで、石油抜きでも生きていけるドバイの建設が駆け足でスタートした。それは、貿易、商業、運輸、観光立国であった。

 デヤン君の案内でドバイの市内を歩く。アラビア湾に沿ぐドバイ・クリークをはさむ東西と、南北それぞれ4キロ四方、ちょうど東京の山の手線の内側の広さだ。

 「東京と比べて、どっちがモダーンな都市かね」。ガイド役のデヤン君が、逆に私に質問してきたではないか。「まあ、似たようなものかな」。とりあえず私はそう答えておいた。

 だが、この狭い土地に、立ち並ぶ巨大な高層建築物には、いささか驚きだった。それは、世界中から派手な建築物のアイディアを集めてコンペをやり、当選作だけここに集めたような街並みだった。

 巨大な港湾施設は東京や横浜の比ではなかった。世界120の都市向けの中継港が2つある。「世界最大の埋め立てによる人工的な港湾立地で、万里の長城と同じようにドバイの港が、衛星からはっきりと見える」。博物館で求めた案内書「ドバイ」にはそう書かれていた。街には、「ドバイ・メディア・シチー」と銘打ったマスコミ団地のビルもあり、テナント募集中だ。CNNとロイター、それにSONY放送なるチャンネルがすでに入居済みとのことだ。


≪ 世界一高い「アラビアの塔」ホテル ≫

 「世界で一番高いホテルに案内しよう」とデヤン君が言う。宿泊料が高いのか、ビルの建物が高いのか??それを質したら「両方とも世界一さ」という。以前、日本からドバイ空港の乗り継ぎで、イランに出かけたことがある。離陸直後、眼下の海岸に、ヨットの帆のような三角錐の形をしたガラス張りの高層建造物をみたのだ。もしかしたら、あれがその世界一高いホテルではなかったのか??。と思ったら案の定であった。

 ホテルの名は、Bruj Al Arab (バージュ・アル・アラブ、アラビアの塔という意味)。高さ321メートル。風を一杯に受けたアラブ民族の船、ダウ船の帆をイメージしたビルで、パリのエッフェル塔よりも高い。地上200メートルのところにメイン・レストラン、海面下にももうひとつレストランがあり、ガラス越しに海中が楽しめるのだという。以上の情報は、私の独自の取材ではなく、すべてデヤン君の説明だ。ここでわざわざそう断るのはホテルの宿泊客もしくは、そのゲスト以外は入館禁止とのことで、私は門前の武装ガードマンに追い返されたのだ。202室のオールスイートで、部屋まで直接案内されるとのことだ。値段を聞いてびっくり。7つのタイプがあり、1泊で最低が3300DH(ディルハム・11万5000円)、最高が2万5000DH(87万5000円)だそうだ。

 1960年代、この付近は、ナツメ椰子の葉で屋根や外壁が作られた伝統的な苫屋が建っていたという。それが半世紀も経たぬうちに、世界一高く、きらびやかなホテルに変身するとは…。石油成金といってしまえばそれまでだが、先祖伝来の土着の住居の文化から、一足とびに超モダンな造形文化に到達したドバイ、そのスピードたるや、世界史の新記録ではあるまいか。

 ドバイの町から目と鼻の先のアラビア湾に巨大な人口島の工事が進められていた。鉄の杭が打たれ、工事のトラックや、ブルドーザーが群をなして作業しているのが見える。

 東京湾のお台場10個分くらいの埋立てかと思ったら、そんなチッポケなものではなかった。ヒョウタン型の2つの人口島が誕生し、ドバイの海岸が、120キロ分増えると聞いてびっくりした。この島にはリゾート住宅や、マリーナ、ゴルフ場、そしてショッピングセンターからなる巨大なウォーター・フロント村が出現するのだという。すでに世界中の金持相手に入居者の予約募集を開始したとのことだ。

 ドバイの商業、レジャー、建設などあらゆるビジネスは低賃金の外国人労働者によって支えられている。1985年、ドバイの人口は40万人だったが、今日では90万人。人口の80%は外国の出稼ぎ労働者だ。


≪ 「石油が出なくなったらどうなるんだ?」 ≫

 デヤン君は言う。

 「インド、フィリピン、パキスタン、イランなどからやってくる出稼ぎ労働者は、月300〜400ドルの低賃金だ。欧州や日本から来たマネジャーやエンジニアは月に1万ドルもらっているけど…」

 その程度の所得で彼らはこの湾岸の金持ち国で生活し、さらに本国への仕送りができるのか聞いてみた。彼は黙って私を巨大なショッピングセンターにあるフランス資本の大スーパーマーケットCarre Fourに案内した。店内は、出稼ぎ労働者とおぼしき外国人でごった返していた。

 以下は、私がメモした食料品の価格表だ。UAE産鶏卵6.85DH(15個)、イラン産のキャベツ1.7(1キロ)、インド産の大根、青野菜4.95(同)、フランス産カリフラワー15(同)、ニュージーランド牛肉16(同)、アラビア湾産のアジ9(同)、タイ8.0(同)、UAE産の野菜は、ホウレン草、カブ、ネギなどすべて一束(200グラム)で0.85DH。1DHは、日本円で35円。物価は東京よりもはるかに安かった。一部の食料品には、政府が補助金を出して価格を安く押さえているとのこと。多分外国人労働者対策なのであろう。

 「おじいさんはラクダに乗っていた。お父さんはキャデラックに乗った。俺は自家用ジェット機に乗っている。」

 「石油がなくなったらどうなるんだ」

 「何? あわてることはない。またラクダの背中に乗ればいいのさ」

 湾岸の産油国で聞いたジョークである。世界新記録的猛スピードとの評判をとっているドバイの商業センター化は、石油がなくなったときの準備である。

 ドバイの建設ラッシュは、Extreme engineering(究極の工法)といわれており、建物だけでなく現存の市街の3杯もある土地まで沖に造成している。首長が、夢を見れば、それが現実のものとなる。石油をどんどん掘って、それを未来都市に代えるアラブのマジックである。石油を掘り尽くしたとき、この国はどうなっているのか。是非、その頃もう一度、訪れてみたいものだ。

 ドバイの国際空港は、発着便の数において成田と関空を合わせたよりも多い中東最大のハブ空港だ。ドバイ??日本の関西空港間をドバイ首長国ご自慢のエミレート航空のノン・ストップ直航便が飛んでいる。これも“魔法の石油ランプ”の産物であることは言うまでもない。
 



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