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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 大理石の涙  
コラム名: 私日記 第46回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2003/10  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2003年7月15日

 日本財団への出勤日。執行理事会と電光掲示板ミーティング。お客さま数人。そのうちのお1人は、ボストン大学宗教学教授のヒッレル・レヴィン氏。典型的な、信念と理想に満ち溢れたユダヤ教の先生である。私は考えてみると、生涯で信念を持って行動したことなど一度もない。一応今のところ、この方がよさそうだがなあ、という程度で暮らして来た。「他人の顔色」もたくさん読んだが、人より少し強力に怖れたのが「神の顔色」であった。それも神の顔色に従うことが、今のところ身に危険もないからそうしているだけのこと。私は徹底した卑怯者である。

 夕方4時から、日本財団の関連財団の1つである社会貢献支援財団の今年度の受賞者を決める。何十年もの長い期間にわたって、社会のために尽くしてくださった方を表彰するもの。副賞は100万円である。

 今年は、去年より比較的意見がよくまとまって楽に決まった。新しく選考委員になってくださった藤原正彦お茶の水女子大教授が、こんなおもしろい多彩な視点で受賞者を決定できる組織だとは思わなかった、と喜んでくださったので、ほっとする。しかし発表は社会貢献支援財団の理事会が開かれた後の9月19日になる。


7月16日

 朝、日本財団の理事会。お客さま数組。インタビュー3社。その後で「船の科学館」に行き、海洋文学大賞の授賞式に出席。紀宮さまをお迎えする。

 今日も北朝鮮の工作船は見学者がたくさん来てくださっている。オープンしたのは5月31日だが、7月20日の海の記念日までには、入場者は50万人を超えるだろうと見込まれている。


7月17日

 1日お休み。とは言っても、23日から「車椅子使用者・盲人・高齢者の旅」にでかけるので、その準備に家の中を歩き廻った。今年のグループも70人を超えた。今どきこんな大勢の旅行なんて珍しいだろう。昔「農協さん」と呼ばれる団体が大勢力を見せていた時代があった。250人でハワイへ行くなどという話を聞いたことがある。その栄光の時代を引きずっているのは、私たちの旅行だけくらいになってしまったかと思う。


7月18日

 行刑改革委員会委員として、名古屋刑務所の見学のために新幹線ででかける。暴行を受けた受刑者が死亡したと言われる事件でマスコミの注目を集めた場所である。

 既に府中刑務所も見たが、刑務所はどこも外見はきれいで、雑居房にしても昔の子だくさんの家はこれくらいこみ合っていた、と思う。しかしもう時代は変わったのだろう。個室でなければ人間性は保てない、一部屋に8人も寝るのはひどい、部屋の一部にトイレや洗面台があるのは屈辱だ、ということになるのだ。

 先月も書いたが、水道の栓をひねれば飲めるような清潔な水が出て来るなんで、天国だと思うアフリカやインドなどの社会を、私はあまりにもたくさん見てしまった。だから感覚が狂っている、と思うことにしよう。


7月19日

 夜、私の家に、チャドのシスター脇山ミキコさんと大和ひろみさん、マダガスカルのシスター遠藤能子さんが食事に来てくださる。チャドとマダガスカルのシスターがお会いになることなど、ほとんど人生で考えられないことなのだ。

 この3人は、どなたも50歳以下ではないのだが、このエネルギーと人生を自然に受け止める強さはどこから出てくるのだろう。チャドでもマダガスカルでも、3人の任地はどれも首都からさらに数百キロの奥地で電気もない。マダガスカルは昼間の太陽エネルギーを溜めて、小さな電灯を夜数時間つけているという。

 それなのに、日本のこのぜいたくさと、貧しい国があることなど意識の底にもない思い上がりとのギャップはどう埋めたらいいのだろう。

 私の家でシスターたちをおもてなしするのは、実に簡単なのだ。「なあに、どうせシスターたちはお味噌汁とご飯とお漬け物だけでいいのよ」と私は陰で無礼なことを言っている。実は昔或るシスターを都内のホテルの日本料理店へお連れした。鰻定食、お刺身定食、ふぐ定食、天ぷら定食、など並んでいた。シスターに「どれになさいますか」と言うと「お漬け物とご飯」とおっしゃる。それ以来シスターに差し上げるお食事は我が家で「お惣菜と丼いっぱいのお漬け物」にしたのだ。こんな楽なことはない。

 シスター遠藤は、マダガスカルに、小学校に続いて中学校の建物を、私たち海外邦人宣教者活動援助後援会が建てることになったことを、本当に感謝してくださっている。でも私たちは、寄付してくださった方たちのお金を銀行の通帳に溜めて、その額を眺めて喜んでいればいい立場ではないのだ。お金が生きる場所を与えてくださる方にお礼を言わなければならないのである。

7月22日

 2日間、旅行中の書きだめをして、校正刷りを急いでもらい、関係の編集者たちに迷惑をかけてやっと出発準備が整う。今日は9月20日から出るアフリカヘの「貧困の実態を見る旅行」の打ち合わせ会。

 愚痴になるけれど、ルートも使用する車輌も今までに二転三転した。第一にシンガポール?南アフリカ?カメルーンのルートのうちの一部で使おうとしている飛行機会社が、いつ倒産するかもしれないという情況だというので当てにしない方がいい、ということになった。チャーター機は高価だから止めた。カメルーンのヤウンデからピグミーの居住地まで13時間の自動車の旅は初めバスを計画していたのだが、途中から泥濘の悪路になるので、四駆を借り上げなければならないことになり、またまた頭の痛いことになる。7台の四駆を借り上げると、7倍の比率で故障するわけだ。各車両に後続車両の監視を1人ずつ義務づけること。夜間、ヘッドライトをつけると前方車両が後方車輌を見分けることがむずかしくなるので、認識可能な標識をつけなければいけないこと、なども考えなければ、とここのところずっとこうした雑事に脳みそを使っている。

 日本財団が新たに設定した日系人向けの奨学資金を受けたコロンビアの女性医師・朱山カレンさんが財団まで会いに来てくれた。若々しくて笑顔が愛らしくて、こんなことを言うと怒られそうだが、「お隣の美人のお嬢さん」という感じである。

 この奨学資金は何国人でもいい、日系で日本で学びたい人に日本で勉強してもらい、それぞれの国に戻った後、両国の理解のために終生働いてもらおうという意図である。

 『毎日新聞』の学芸部に連載小説6日分を渡す。


7月23日

 成田へ10時に集合。「眼の悪い方のための聖地巡礼」は今年で20年続いた。考えて見ると、始めた時私はまだ50代の初めだったのだ。こんなに長く続いたのは、目標を決めなかったからだろう。来年もやる、などというけなげな決心をしたことは実は一度もないのである。続けばやりましょう、やるつもりでもこれで終わりになることもありますから、という気持ちだったら、偶然20年続いたのだと思う。

 去年も今年も「聖地巡礼」という言葉を使うのをためらっている。イスラエルに行けなくて、今年はマルタ、シシリー、とイタリア本土をヴェネツィアまで北上する。ローマまでは聖パウロの活躍の地なのだが、フィレンツェ、ヴェネツイアは聖書世界とは違う。ただモーターボート競走会から2人、日本財団から5人、ボランティアを出してくださっているので、これらの人々が車椅子を運んだり力仕事の主流をこなしてくれるのは同じである。

 夏のマルタ、シシリーは命取りになるほど暑い。その中で頑張って午後も観光を続けた日本人が、帰国後病気になっている、とアドバイスをしてくれた人もいたので、控室に集ま
った時もその話をして「どうぞ、中抜き、煙管、体力に応じてうまくお抜けください」という意味のことを繰り返した。

 飛行機の中で、ごく最近贈られて来た『ジェノサイドの丘(ルワンダ虐殺の隠された真実)』(WAVE出版、フィリップ・ゴーレイヴイッチ著、柳下毅一郎訳)を読む。ルワンダにおける部族虐殺のこの記録も、人間の本質の中に隠されている残忍な部分を見事に分析してくれている人間発見の書である。近く連載開始予定の新聞小説の舞台は、こうしたアフリカの虐殺事件に始まる。

 部族虐殺のテーマで小説を書くべきだと言われたのはもう十数年前のローマで、私の尊敬する知人の1人が明らかな意図の元に、私にそのことを囁いてくれたからである。しかし人に言われたからと言って、小説は書けるものではない。1997年、アフリカ旅行の1つのテーマとしてルワンダに立ち寄った時でさえ、私はまだ小説を書こうとは思っていなかった。

 1994年の虐殺から既に3年が経っていたが、まだ惨劇のあった土地の、半地下式の共同納骨所の中の頭蓋骨の山は、息もできないほどの臭気を放っていた。そして偶然のことだが、その旅の途中で、私は小説家がこれは具体的な小説が書ける、という一種の沸騰点に達するような資料を手に入れたのである。

 しかしその時集めたものは、まだ分厚い本が、2、3冊だったが、今では、実にたくさんの調査報告が出されている。時がこうして豊かな資料を贈ってくれるのである。

 飛行機はひどく揺れて、夕方ミラノ着。

 三浦朱門は、当地にお住まいのモンティローリ・富代さんにお醤油の壜を持って来たので、「ボクは富代さんに早く会いたいなあ。会えなかったらどうしよう」と笑っている。

7月24日

 雨の中ではあるが、ホテルからドゥオーモまでは歩いて行けるのが便利である。このゴシックの正面の景観を、全く眼の見えない方に何と言って説明したらいいのかいつも迷う。中でミサ。これから始まる旅で誰も大きく傷つきませんように、と祈る。

 マルタ行きの飛行機は午後2時発なのだが、どうせランチが出るのは3時すぎだろうと計算して、飛行場で素早くピザを食べる。他の買い物をしていて、買い食いのできなかった人に羨ましがられる。そもそも人は2つのことはできないのだ。食べるか、それとも……。


7月25日

 マルタのホテルは、海の傍で、この上なく景色がいい。マルタ人はまず人に会うと、「神の祝福があなたの上にありますように」と言ってから次の挨拶をすると言う。マルタの歴史は、精密には覚えていないが、日本人には想像もつかないような文化の交代と融合が行われた。圧政、侵入、追放、潜伏……、その他あらゆる不純で残酷な力関係の計算の上に、歴史は動いて来た。マルタ人の光栄の記憶はオスマントルコに勝利したことであり、私にとっておもしろいのはここにはナポレオンの支配の影響が善悪取り混ぜて濃厚に残っているということである。

 しかしここで一番有名なのは聖ヨハネ騎士団であろう。12世紀に教皇から宗教団体として承認されたこのグループは、貴族出身のカトリック教徒を中心とする集団で、聖地へ巡礼する人たちの介護もしたが、同時に十字軍として駆り出されるほどの兵力でもあった。騎士団のガレー船がマルタの海賊と結んでトルコの船を襲ったり、北アフリカまで攻め込んで略奪したり、まあ人間の性格の中にはかくも明暗善悪が共存するものか、と驚くほどである。

 今日の最大の強烈な思い出は聖ヨハネ大聖堂でミサに与ったことである。この大聖堂の床はすべて貴族たちの墓であった。それも大理石のモザイクで世にも精巧なものだ。その多くは、家柄を示す紋章であるように見える。骸骨を配してあるデザインも多い。カトリックでない参加者の中には「どうしてドクロなんてものをつけるのですか」という人もいるが「それはすべて生きるものが、常にこうして死に還ることを記憶して、その運命を納得するためでしょう」と答えておく。眼の見えない人には、床のお墓を1つ1つ手で触ってもらって、その模様や色を説明した。

 ラ・ヴァレッタの町は個性のある出窓が人の顔のように並んで突き出している町で、アイスクリームを舐めている若い娘たちで溢れている。もし今度来ることがあったら町中のホテルに泊まろうなどと思う。

 暑くて疲れているので、活字など見る気力もなく、やたらによく眠れる、と皆が言う。知的ではなく、時には「痴的」であるということも何と健全なことなのだろう。


7月26日

 早朝、おべんとうの袋をもらって5時発のシシリー行きの船に乗り込む。たった3時間でシシリーのカターニヤに着くのである。船の中はほぼ満席。修学旅行風の若者たちの大グループもいる。

 私たちはそろそろ年齢を理由に、怠け者根性を発揮することにした。昔から夫は旅先でも、始終ホテルでごろごろしているのが好きだった。つまり電話もかからない場所で本を読んでいたいのである。午後の計画はほんとうはないはずなのだが、あればスキップすることにしたのである。シラクーサ泊まり。


7月27日、28日

 バスでアグリジェントを経て、パレルモに移動。約335キロの行程である。

 28日に、パレルモのマルトラーナ教会へ行けたことは、ほんとうに勉強になった。これは12世紀に建築された教会だが、私たちと同行の坂谷豊光神父と吉田繁神父の他にも、数人の神父と、ミサの助手をするお香番のような青年がいる。ミサが始まって驚いたのは、十字の切り方が全くギリシャ正教風なのである。しかし建物がギリシャ正教だと思わなかったのは、何よりも祭壇の前にイコノスタシスと呼ばれる聖障壁がなくて、我々が祈る場所から至聖所に当たる部分が見えていたからだ。

 別にギリシャ正教だからと書って、異教扱いをするわけではないが、シシリー島にはキリスト教会として東ローマ帝国のギリシャ正教の教会が作られていた時代があるのだから、こういう形で礼拝の形が残るのだろう。

 建築様式としてはノルマンとイスラムの影響を受け、モザイクはギリシャ人たちの手法だという。

 何となく勝手の違うミサは歌ミサ形式で「アーメン」と言うところを皆「アミン!」と唱える。でも眼の悪い方たちは楽しまれたのではないかと思う。後で坂谷神父は、この教会の神父たちが「日本人は気が短くて長い歌ミサに耐えないから、今日はうんと短くした」と言われたので「それでも結構長かったですよ」と言ったら「うちの教会のカプチーノはとてもおいしいから是非飲んで行きなさい」と優しかったそうだ。三浦朱門の観察によると、出席していた地元のおばさんたちは、今日のミサが短いのが不満らしく、終わってから後もなかなか立ち去らなかった由。


7月29日

 飛行機でローマに着くと、すぐヴァチカン美術館の「最後の審判」を見る。美術館は年々設備がよくなる。この絵の修復には日本テレビがかなりの費用を出しているはずだが、そのことについては入館者はほとんど知らないだろう。もう少し感謝の表示があってもいいと思う。

 聖ペトロ大聖堂のミサの時、私たちは献金を集めた。朱門が後で届けに行こうとしたが、香部屋(神父の祭服などを収めてある祭儀のための支度部屋)は鍵がかかっていて入れてもらえず、散々苦労してやっと神父に手渡せた。カトリックは、信者に強制的な献金を一切させないので、本山のヴァチカンも経済的に楽ではないと聞いているが、献金を渡すのに苦労する所なのである。

 夜、坂谷神父が東京の修道会の本部で緊急会議があることになり、帰国するようにという通知を受けた、と言われる。無理すればアッシジまで行けるけれど、と言われたが、そんなに厳しいことはなさらず、すぐに帰りの飛行機を手配されるように言う。


7月30日、31日

 私たちはここで2日のお休みをもらった。私の仕事にも、ここらへんで書いて送らなければ校正刷りをもらえないものもある。

 一行は午前中お休み、午後少し観光をしてからナポリに向かうという。私たちはその間ローマに留まることにした。

 時差が残っていて、朝早く起き、夜早く眠い。それなら、まだ暗いうちから起きて書こうと決心した。午前中にかなり書いて、メイドさんがお掃除に来る頃に少し散歩に出て、昔からなじみのバルベリーニ広場のテュリオで食事をした。

 翌日も朝早く仕事をして、大好きなボルゲーゼ美術館に行った。ここはベルニーニの代表的な彫刻が集まっている美術館である。アポロとダフネ』は、アポロに追いかけられて逃げまどうダフネが足元から既に月桂樹になりかかっているし、『プロセピーナの略奪』では、プロセピーナの頬に流れる涙をベルニーニは見事に大理石像の頬に活写している。ベルニーニの動きに満ちた作品を見ると、私はいつもこのようないささかも気を抜かない作品の緊張を終生保ち続けなければならない、と思う。もちろん緊張は1日だけでも続かないのだが……。

 夜はサレジオ会に尻枝正行神父をお迎えに行き、町中で日本料理を食べた。少しもおいしくないので申しわけなく、またもやここで日本のお惣菜屋を開きたくなった。


8月1日、2日、3日

 アッシジの落日を眺めていた時、あまりのみごとさに歓声を揚げる声が、眼の見えない方に届いたら気の毒ではないか、という気がした。その点、フィレンツェの暑さは、眼が見えようが見えなかろうが、同じに襲って来るのだから、公平だ。

 この旅行には、全く偶然のことなのだが、私の出身校の聖心の卒業生が11人いた。こんなに多いことはめつたにないので、フィレンツェでは聖心組で食事に行くことにした。極めていい加減な中華料理なのだが、それでも別室で心おきなく喋れた。一番年長が私たちのクラス、一番若いのが安倍昭恵さん(安倍晋三内閣官房副長官の夫人)である。安倍さんはボランティアに使われているから、同行者に「大学生?」と聞かれたという。

8月4日、5日

 ヴェネッィア。不実と金に対する執着に塗れている町だからこそ、その辺のおみやげもの屋ででもまだ手のこんだ手工芸品を売っている。ガラス細工を売る店で、やたらに日本語のうまいおばさんがいた。その人の店にあったネックレースは、四角い青いヴェネツィア・ガラスの小片を繋いだものだったが、青の内側に金と銀を張りつけているという。だから同じ青でも、陰影が全く違う。この微妙な色の駆け引きをうまく使って胸当てのような飾りに仕立てている。文章でも、この程度の凝り方を続けたい、と思って見ていると、おばさんが「それ、高いよ」と言うので気押されて値段も聞かないまま店を出てしまった。


8月6日、7日、8日

 8月6日ミラノへ出て、7日発。8日に日本帰着。暑さでヨーロッパでは死者が出ているというのに、私たちは誰も大過なく帰って来た。成国の滑走路で走り続ける飛行機の中で、いつもの通り深く長い感謝の祈りを捧げた。
 

北朝鮮工作船の無料一般公開  
工作船の展示、船の科学館で開始  


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