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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: ミャンマーとはどんな国か(下) シャン州の風景  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/09/23  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 「シャン」とは秦(タイ)のことなり ≫

 「民族のるつぼ」といわれるほどに、ミャンマーは民族の数が多い。それぞれの民族には固有の言語がある。ミャンマー文化省の発表では、この国には135の民族があり、1948年のビルマ独立以来「民族の一致団結」がスローガンで、いまも変わっていない。ということは、民族の団結なるものが、言うは易く、行うは難しで、そう簡単には実現しないことを意味している。もともと、ミャンマー連邦とは、英国植民地時代の地理的空間をそのまま引き継いだ民族の寄合世帯からなる“政治的実体”に過ぎない。国の中央の平地を占める多数派のビルマ族が、支配権を握っているものの、ヤンゴンの中央政府は他の少数民族との折り合いに苦労し続けている。

 そのひとつシャン州に出かけたのである。首都、ヤンゴン空港から国内線で、州都タウンジーに向かう。乗機前にパスポートの提示を求められた。ハイジャック予防のための本人確認かと思ったら、現地駐在の日本財団、斎藤栄君によれば、そうではないという。「向こうに着いたら、パスポートチェックだけでなく、税関の検査もある」とのことだ。まるで外国との国境並みのチェックだが、これこそミャンマーが、ひとつの民族国家に成りきっていないことのあかしだった。

 シャンとは、ビルマ語で泰(タイ)という意味だ。もともと中国の雲南省や北部タイから移住した祖先がルーツで、タイ語系の言語を話す人々だ。人口は300万人、連邦内の最大の少数民族だ。13世紀ごろ北方からやってきた「シャン」と呼ばれる人々は、伝統的な首長のもとにいくつかの藩王国を作り、ビルマの王朝と、時には争い、時には平和外交を展開することによって、少数民族としての自治権を確保していた。

 「長い話を短くしますとね、多数派のビルマ族とシャン族との抗争が激化したのは、1962年以降のネ・ウィン独裁政権(いまのタン・シェー軍事政権はネ・ウィン体制の否定者として登場した)が、ミャンマーが英国から独立し連邦を結成した際、両者で合意した諸民族の自治権と連邦離脱権を一方的に剥奪したからです」。シャン州への機中で交わした「シャン民族とは何ぞや」の問答で、彼はそう言った。
 
 そもそも、何故私はシャン州にまで、足を延ばしたのか。日本財団は、ミャンマー政府と、この州に5年で、100力所の小学校を建設する無償援助の協定を結んだ。私がこの国を訪れた2002年は、5カ年計画の2年次であり、事業の進み具合の視察が目的であった。この地域で、20年以上も続いていたシャン州軍とヤンゴンの政府軍との間の抗争は、ネ・ウィン政権の退陣とともにようやく収束、90年には、休戦協定が締結された。多項目にわたる両者の協定の中に、「内戦で荒廃した小・中学校の再建に、ヤンゴンの中央政府は協力する」との取り決めがあり、その事業の一部を日本財団が支援した。つまり、ミャンマーという名の連邦は、一枚岩の国民国家でなく、ごたごたの続く「民族のるつぼ」であったことが、私がこの国を訪れるご縁となったのである。

 われわれ一行が着いたのは、標高1400メートル、へーホーという山の上の空港であった。州都タウンジーへの入口である。首都ヤンゴンから北へ500キロ。「このあたりは、ミャンマーの軽井沢です」と斎藤君。日本の軽井沢は夏の別荘地として英国人が移り住んだのが始まりだが、へーホーも植民地時代、英人が避暑地として開発したところで、第2次大戦中、日本軍が、ここに軍用飛行場を建設した。ミャンマーで4番目に大きな人口30万人の都市・タウンジーから、40キロの地点にあった。


≪ インレー湖畔の学校建設 ≫

 この日は12月9日。出発前ヤンゴンのホテルで見た衛星TVによれば、東京は雪だったが、ここシャン州の高原は、菜の花が満開だった。へーホーからタウンジーにかけてのシャン州南部には、ポー族が多く住み、PNO(Po National Organization)=ポー民族自治組織=が、地方行政を事実上受けもっている。軍隊や武器もそのまま保有し、宝石の採掘権ももっている自治組織だ。タウンジー市には、政府軍の連隊本部があるが、田舎は、PNOが実効支配している。日本財団の学校建設は、ヤンゴンの中央政府と、PNOの双方と連けいをとりつつ行われている。

 高地の少数民族ポー族は、ミャンマーの中央平原に住む多数派のビルマ族とは、文化や気風がいささか異なる。空港での出来事である。税関から荷物を受けとったものの、小さな空港ビルには、迎えの車も含めて1台の車も駐車していない。その代り、リヤカーをもった人々が何人か待機し、荷物を積み込んだ。リヤカーとともに空港のゲートをくぐり、500メートルほど強制的に歩かされ、ようやく車の溜り場にたどりついた。

 「変わった空港でしょ。びっくりしましたか? 空港の車の乗り入れ禁止。これ、荷物運びの人々のためにPNOが考えた雇用創出策なんです」。出迎えの平野喜幸さんがそう言った。効率をむねとする文明社会とは異なる少数民族同士の小さな助け合いの営み??とのことだ。平野さんは、若い頃、海外青年協力隊の経験をもち、ビルマ語のみならずポー族の言葉もわかる。タウンジーに常駐し、学校建設の現場を指揮している。

 小学校の建設は、いまや途上国援助の定番となりつつあるが、シャン州での事業は、平野さんのアイデアで、日本政府のODAやNGOとは、ひとあじ違うやり方をしている。通常の援助はお金を出して、現地の業者が学校を建設し、「ハイ。それまでよ」が普通なのだが、ここでは、建設の過程そのものを大切にしている。

 「内戦でボロボロになった校舎の建て替えが主な仕事。まず既存の学校の先生や、生徒の父母、村長などの村の有力者たちで、学校建設委員会をつくる。この委員会が財団から建設の手順に従って小刻みに渡される金を使って大工や左官を雇う。基礎工事のための整地、砂や砂利、木材の運搬は住民が労力を提供する。そうすることによって、村人一人ひとりに学校に対するオーナーシップが生れる」と平野さんはいう。

 海抜870メートル。シャン高原の景勝の地、インレー湖を訪れた。住民総オーナーシップ方式の学校建設の現場のひとつである。現地のPNO代表のアウン・キンさん、長老をはじめとする村人たち、そしてわれわれ日本人一行が集まり、式典が行われた。

 「学校が出来た。ヤンゴンからよい先生もやってきた。ローソクの代りに、電気もついた。クードー・カン・カウンデー(功徳を積んだおかげで、幸運がやってきた)」。キンさんが、あいさつすると、歓声と鳴りやまぬ拍手が続いた。湖畔の村の小学校と超ミニ水力発電所の合同竣工式の光景であった。

 学校を建設したら、そのオマケとして発電所ができる。その仕掛けはこうだった。

 「村人が提供してくれた労働は、賃金に換算して村の基金として積み立ててあげる。これを元手に、農園や養豚などの収益事業をやる。収益は、新しい先生を雇ったり、備品を充実する資金にあてられる」。平野さんの解説である。


≪ 「永福町行きのバスと出合う」 ≫

 この村では、村人の労力奉仕に支払われたお金は、丘の上の小川からドラム管を10本ほどつないで水力を取り入れ、小型発電機をまわすミニ発電施設に変身した。村の戸数は200戸、村人は電気代として、月に2ドル、学校に支払うことになった。彼らの生活水準からみれば馬鹿にできない出費だが、これまで使っていたローソク代と同額なので、全戸が同意したという。

 この村の高床式の伝統家屋の東側には、どこの家でも仏像が飾られ、水や花が供えられている。そこの灯明が、ローソクから小さな電球に、そして各戸に1本づつ配布された蛍光灯が居間にとりつけられた。

 学校建設1校に要する資金は、ざっと1万3000ドル。「どこの住民も参加意識が高いというわけではない。やる気のない村は、はじめから対象にしてません」と斎藤君。「モノだけあげると、さて、次には何をくれるのか? になってしまい村人の依存心が助長される。そこが、途上国援助の難しさだ」と平野さんもいう。

 帰路、山越えで、へーホー空港に戻る。山中で、「東京駅行き」と「永福町行き」のバスとすれ違い、ぎょっとする。正真正銘の日本の中古バスだ。塗装だけでなく行先表示まで、すべてを昔のままで走る、シャン州の田舎のバスの風景であった。峠を越えると、高原は晩春であった。ポインセチアの紅と菜の花の黄金が視界にひろがり、水牛が水浴びしている。その脇のガタガタ道を、新手のバスが近づいてくる。よくよく見たらなんと「富士急観光バス」であった。
 



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