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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 暗黒の夜空に消えた飛行機  
コラム名: 私日記 第45回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2003/09  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2003年6月18日

 早朝の新幹線で京都へ向かった。日本財団が、金剛流の新しい能楽堂建設に対して8億円をお出しした。今日はその落成式と舞台開きが行われるというので、お祝いに出席する。

 雨。すばらしい着物を召している関係者の夫人方のことを考えると、嫌な雨だが、能楽堂の落成式には不思議と空気が合っている。

 午後早々、常陸宮同妃両殿下お着きになる。舞台の上に並んだ椅子に腰掛けて、1人ずつお祝いを申し上げる。途中から少し頭痛がしてきたので、式が終わったところで帰らせて頂くことにして、道に出たところで、歩道で突然転倒した。一瞬何が起きたのかわからなかった。ぶつけたのは傘をさしたまま歩道を自転車で走らせて来た娘さんだった由。前方を見ないで平気で自転車を走らせるという危険を犯す人がいるのだ。水の溜まった歩道に倒れたので、絹のスーツはべちょべちょ。でも私は骨が固いらしく、骨折の様子もなくすぐ歩けた。ホテルグランビア京都泊まり。


6月19日

 3月に「水フォーラム」で京都に来た時は、イラク侵攻直前だった。その時やはり日本財団が援助している事業で琵琶湖周辺のヨシの群落を保護栽培している様子を拝見しますとお約束しながら、イラクの状況が気になってすっぽかした。私のような一民間人が気にしたところでどうなるものではない、と思いながら私はCNNを夜通し(切れ切れにだが)見ていたのである。

 大津から琵琶湖周辺のヨシの群生情況を見る。ヨシキリがほんとうにヨシの中にいて鳴いていたので感動した。ヨシは昔はほっておけば繁茂したのだろうに、今は栽培したものを植えてやらねばならない。悪いのは水か空気か岸辺か。消えるものは消えてしまうより仕方がない、という思いもなくはないが、少し手を貸せば命が続くものは、繁茂させたい。屋根にヨシを載せると、実に涼しくなると聞いて、私の家の屋根にもほんとうはヨシが欲しくなった。午後、帰宅。


6月20日〜22日

 三戸浜で週末。大和正道(従兄)と奥さん来る。太一(孫)が蒔いて行ったタァサイが結構な大きさになっている。電話をかけて「収穫したら送ります。人間誰でも蒔いた種は刈らなくちゃいけないんだから」と言ったら、何を思ったか、笑っていた。


6月23日

 行刑改革委員会のメンバーになっているので、府中刑務所を見る。

 メインビルディングも近年建て直されたばかりで暗い感じはないのだが、拘禁されて自由がないということは全く別のことだろう。

 450円を払って、中にいる人たちと同じ食事。料理ができないのでご飯を作らないその辺の女房たちよりおいしい味付けになっていることは間違いない。3割麦の入ったご飯もけっこうなものだ。私の家は1割しか麦を入れていないが……。もっとも学生寮、刑務所、修道院の飯は昔から世界共通に質素ということになっているから、一度くらい食べて感想を言うべきことではない。

 このごろは開かれた刑務所というので、法学部の学生など、見学者もいるという。ここではいろいろ作業場があり、どこかで働くことになっている。働かせられるのは嫌だという感じを持つ人と、私のように1日何も仕事を与えられなかったら辛い、と感じる性格と人によって違うだろう。

 私の中で、2つの感覚が分裂して起こる。6人の雑居房は夜誰かがトイレに起きても、眠りを妨げられるだろう。しかし自分以外に5人の人間がいる。通常の社会生活に近い。独房を見ながら、私は困った連想をする。狭い畳の向こうに一畳の板の間がついている。そこに水洗トイレと洗面台がある。トイレに座った時、下半身だけを隠す衝立がおいてある。同じ空間に寝る場所とトイレがくっついているなんてひどいという見方が普通だろう。しかし私は違うのだ。

 酷暑の中を水源から何キロも水の容器を運ばなくても、蛇口を捻ればきれいな飲める水が出て来て顔も洗え、トイレも水洗で流れるなんて天国だ、という見方も、私の中で渦を巻くのだ。アフリカでは、ボロボロの布を体にまきつけた痩せた子供が、食べ物でもお金でもなく、「飲み水をください」とせがんだという話を英字新聞で読んだこともある。それからみれば、ここは天国だ。しかし暑さに対しても寒さに対しても一切の空調のない天国だということになる。それに、ここは日本なのだから、日本の平均的な生活環境と比べてものは考えなくてはならない、と自分に言い聞かせる。

 犯罪を犯す人の中に、麻薬の常用者が多いことに驚く。知っているつもりでも、これほど繋がりがあるとは思わなかった。

 図書館にはかなりの蔵書があるが、タガログ語とか、ウルドウ語の本など刑務所側でも手にいれにくかろう。家へ帰って直ぐ、私の作品で韓国語と中国語になっているもの数冊と、クラシックのCDを何枚か送った。

6月24日

 午前中、日本財団で執行理事会。雑用もかなり溜まっている。お台場の北朝鮮工作船の見学者は、予想よりはるかに多い人数である。土曜日曜は1万5000人前後。週日の雨の日でも7000人になっている。待ち時間も短くなって、ほとんど待たないで見学者に入って頂けるようになった、という。どこでそんなにうまくなるのだろう。

 午後、海上保安庁で政策懇談会。急いで帰宅。


6月25日

 午前中、淋巴マッサージ。午後、家の修理の打ち合わせ。


6月26日

 朝、車にシンガポール行きの荷物を積んで、11時半、帝国ホテル着。内外情勢調査会の理事会。今日から新参理事となる。お昼を頂いてすぐ、成田へ。松尾一子さんと合流。午後4時半発の全日空でシンガポールヘ。今日から約13日間、シンガポールで過ごすことにする。飛行機の中でミュージカル『シカゴ』を見る。少しもおもしろくない。音楽はいいのだが、脚本が悪い。一生に一度、おもしろいミュージカルを書きたい、と思っていた時期もあったが、見果てぬ夢となるだろう。夢は見果てぬ方がいいとも思う。

 夜、10時15分、南方の夜の匂いのたちこめたシンガポール着。11時にはもうナシム・ヒルの家に着いていた。


6月27日〜7月8日

 何という解放感! そして静寂。ここでは電話も鳴らず、ファックスも少ない。テレビはあるけれど、居間にだけ。ベッドに寝そべって見る、という自堕落な設備がない。

 すると本が読める。ここでの読書は、劫元の新聞『ザ・ストレイト・タイムズ』と、かなりたくさんある探偵小説。ジョン・グリシャムの『法律事務所』を見つけて読み始めた。原題は『ザ・ファーム』である。これは日本語で言うと『会社』というほどの題である。この言葉はラテン語の「堅固な」という意味から来たものだから、本来会社は手堅くなければいけないのだろうが、最近では銀行だって膨大な借金をこげつかせて取れない時代だから、少しも手堅くなくなった。

 グリシャムは弁護士だけあって、この世界の背後を書かせたら、実におもしろい。

 新型肺炎による死者が出たから、私はシンガポールヘ来るのを延ばしていたのである。自分が死ぬのが怖いのではない。日本財団という組織に出入りしているから、若者たちにうつすようなことになると困るからである。

 しかしここの新型肺炎騒ぎは、ほんとうにおかしかったという。友人の陳勢子さんは5月半ばに日本からここへ帰国した時、マスクをかけ、重装備でチャンギー空港に下りた。シンガポール中の人がマスクをしているに違いない、と思っていたら、むしろこちらの人たちがマスクをしている勢子さんを奇妙な顔で見た。誰もマスクなんかかけていない。

 恐らく中国だって、カメラマンはマスクをしている人ができるだけ多そうな箇所を狙ってシャッターを押すのだ。それを見る私たちは、「中国も大変ね。皆マスクをかけて、怖いんでしょうね」ということになる。テレビ局のやらせはよく問題になるが、カメテマンはやらせていないが、意図的に場面を作っている。これはカメラ操作というべきだ。

 シンガボールでご贔屓のレストランがつぶれると私は悲しくてたまらない。結果シンガポール住まいの友だちをイジメルことにしている。「あなたのうちがせっせと食い支えないからつぶれたじゃないの」というわけだ。しかし、おもしろいくらい新しい店ができる。そしてその中にもちゃんとおいしいうちが新しく現れる。

 シンガポールでは、午前6時起床。まだ暗い。ほんとうによく眠ったという手応え。松尾さんの印象では、ここは徹底して静かだから眠れるんです、ということだ。

 朝の色がやっと見え始める7時頃、果物で食事。マンゴー、パパイヤ、オレンジ、などで、充分満ち足りる。8時仕事始め。書いた原稿は片っ端からファックスで送る。ここでは、東京の秘書が驚くほどの速度で原稿が仕上がる。静寂がいかに必要なものか。電話やファックスで呼んで頂くことがどれほど感謝すべき好意かよくわかっているのだが、それでも東京の慌ただしい生活は、書くという仕事に向いていない。

 この国に何で来るのかと言うと、外で食べるご飯がおいしいからである。ここでは中国料理という言葉はない。人々はそれぞれ、広東、潮州、四川、上海などの料理を食べに行くと言う。もちろん中国本土の人たちからみたら、シンガポールの料理は崩れている、と言うだろうが、それでもおいしいのである。

 けちな夫は、家族ででかける時には、1人3500円くらいの予算を上限と考えている。それでもかなり複雑なメニューで食べられる。つまり注文がうまいかどうかなのだ。私がここで覚えた妙味は、お粥のおいしさと、菜っ葉をニンニクといっしょに妙める技術である。私の家の台所の火力だって非常に強いのだから、生の菜っ葉から水が出るどころか焦げるほどなのだが、レストランの技術は、「ベビー・カイラン」と呼ばれる小さな菜っ葉の妙めものの出来でわかる。菜っ葉もニンニクも安いものだから、私たちは妙める技術に対して金を払うのだ。

 或る日のこと、外でドンと音がした。それからしばらくすると、松尾さんが「何でしょう!」と声を上げた。下のプールが見えないほど、庭に煙が立ち込めている。日本の新聞社だったら「戦争中の日本軍は毒ガスを焚いた」というガセネタの写真が撮れるほどの凄まじさで、家の中まで臭気がして来る。

 住民に知らせているのかいないのか。反対があっても、喘息患者がいても、とにかくデング熱やほかの病気の可能性がある以上、徹底して蚊は殺さなければならないから、庭の立木が見えないほど、殺虫剤を噴霧するのである。日本の私の家など、ちょっと庭に出ればもうたちどころに蚊に食われる。南方にいて蚊に食われたのは12年間に2度だけ、という不自然さがシンガポールの国家的経営方針なのだ。

 7月8日の夜行便で帰国。空港の待合室を通る時、テレビのニュースが、イランの29歳の双子姉妹、ラダンとラレー・ビジャーニが、シンガポールのラッフルズ病院で受けていた数十時間に及ぶ手術の途中に、出血死したことを報じていた。誰もが衝撃を受けている。姉妹は性格も全く違い、1人はジャーナリストに、1人は弁護士になりたかったのだ。そのためには別々の個人として学ぶ必要があった。私たちはごく当たり前に得ている自由が、2人にとっては命を賭けることだったのだ。


7月9日、朝7時半、成田着。

 家へ帰って、紙類の置き場となっていたテーブルの上のものを整理。これで明日から気持ちよく仕事ができる。


7月10日

 千葉県の佐倉市へ。ここでは「社会を明るくする運動」をやっている。個人にせよ、社会にせよ、明るくなる鍵は1つしかない。受けることではなく、与えることなのである。

 急いで帰って、夜は海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。

 ハイチの識字教育の費用、南アの根本神父のやっていらっしゃるアルコール中毒患者センターの移転費、フィリピンのトラピスト修道院が経営する学校の職員の給料、同じくフィリピンのストリート・チルドレンのスカラシップ、ボリビアの母子家庭の子供たちの養育費、インドの不可触民の少年たちの学費と生活費、ブルキナファソへの薬代、コンゴ民主共和国の師範学校生徒たちへの給食費、パプアニューギニアの森の中で働くメルセス会の修道女たちのための電話連絡の設備、マダガスカルの小学校の建物の建築費、ナイジェリア人の奨学生の学費の継続分などで、合計約3455万円を決定した。

 31年前に、この海外邦人宣教者活動援助後援会を始めて以来、今度が1回で最高額の援助を決定したことになる。小さな感動を覚える。その背後にたくさん支援者がいてくださるからできたことなのだ。


7月11日

 出勤日。1日お客さまとインタビュー。

 アフリカ出張の会議では、南アのヨハネスブルグからチャーター機をしようとしていた計画が、値段の上でもぜいたくだとわかって中止することを確認した。

 最近アフリカ大陸内の飛行機の路線は減るばかりである。アフリカが政治的にも経済的にも力を弱めているということだろう。その結果移動が極めて不便になっており、それでチャーター機のことを考えたのである。しかし南アのヨハネスプルグにあるチャーター機会社と交渉している間に、私たちの訪問地の1つであるアンゴラのルアンダ空港で、ボーイング727が盗まれる、という事件が起きた。

 実はそのニュースを聞いた時、私は笑い出したのだ。遂にアフリカでは飛行機まで盗まれるようになったのだ、と。もちろんこれは不謹慎な笑いだが、その奥にアフリカのヴァイタリティーを感じたのもほんとうである。

 この飛行機はマイアミを基地とする、やや怪しげなチャーター機会社の所有する20年にもなる古い飛行機で、アフリカで飛行機燃料をあちこちに「配達」するために内部を改造してアンゴラに向かった。

 しかしアンゴラ政府は、領空の飛行料や駐機料にべらぼうな値段をふっかけたので、この飛行機は金を払わないまま、もう14ヵ月もルアンダ空港に居すわっていたのだという。アンゴラにすれば、儲けるものがないから、こういう発想をするのだろう。

 ところが或る日の夕食時に、突然飛行機はするすると走り出し、管制塔がどんなに呼びかけても返答をしないままにアフリカの暗黒の夜空に消えた。アメリカのCIAや国務省は、他の国際機関をも巻き込んで、この飛行機探しにやっきとなった。9月11日の世界貿易センターへのテロなどのような事件の道具に再び使われてはたまらないからである。しかしどんなに衛星を使って探しても、この飛行機は見つからなかった。

 そこで私の推理の出番。多分私の推理の方がCIAより当たっていると思う。

 マイアミの飛行機会社は、14カ月分の高額の駐機料を踏み倒すことにした。まずルアンダ空港に出入りする燃料屋に、目立たないように注油することを依頼する。いや白昼堂々とだったかもしれない。管制塔が慌てて止めたということになっているが、管制官が燃料屋と同じ部族で従兄関係なら何でもできる。

 最低限の燃料を入れた飛行機は、近隣の国の田舎空港に着陸する。727がぎりぎりのところで着陸できるだけの滑走路があればいいのだ。そして飛行機はすぐ隣接するジャングルの中に引き入れられ、椰子の葉などを被せて偽装する。

 それからはお手のものの解体作業だ。同種の飛行機は古くてもまだ1100機は飛んでいるというから、エンジンは飛行機整備会社に売れる。羽の金属は建材に、シートの布は小さく切って売る。防風ガラスはオート三輪の運転席に使えるだろう。トイレの便座は趣味で家に備えつける人も必ずいる。プロペラは村の鍛冶屋が、特上の鋤鍬に加工する。かくして数日もあれば、ボーイング727なんか姿を留めぬまでに骨と皮に分けられてしまう。

 これが途上国の泥棒の手口なのである。CIAが形ばかり「衛星で探した」と言うなら「ご苦労さまでした」で済むが、本気でそう思っているならとんだお笑いだ、と私のような「通」は思う。(しかしこういう訳知りみたいな予想はほんとうはしない方が賢いのである。世の中の予想で当たったことはないからだ)


7月12日

 神戸へ。ハンセン病学会でまず素人の私が講演して、一般の参加者に気楽に関心を持って頂くため。

 昔、インドのアグラのライ病院(病気の正式名称は今でもライである)を取材中お目にかかり、往診にもついて行ってお教えを頂いた中井栄一先生にお会いする。今度のアフリカ旅行にも自費で参加される。

 「先生、アフリカでもインドでもいいですから、どこか普通の人の行けない奥地で、一生ハンセン病患者のために働いて、そこでのたれ死にをしてください」

 と言ったら、柔らかい皮肉な京都弁で、「のたれ死にはしません。這ってでも帰って来ますぅ」

 と憎らしいお答え。こういう骨太な日本人が出る時代になったのかと思うと胸が躍る。そういうことになれば、苦労は人にさせ、私は日本でゆっくり温泉三昧の老後を送ることにしよう、と決心。最近とみにかくのごとく嫌らしくなった自分を感じる。年のせい。


7月14日

 朝、この号に掲載される対談のために、国土交通省に扇千景大臣を訪問。何よりお美しく、頭が鋭敏で、気持ちが闊達な方だから、対談はあっという間に、無駄のない、内容がよく整ったものになるので、本誌の青野隆雄編集長も満足されたと思う。

 日本財団に出勤して、お昼には、7月23日に出る障害者との「巡礼」に財団から初参加するメンバーと打ち合わせ。職員の鈴木錦さんの趣味は糠漬けとのこと。今の時代にこういう女性がいるのはすばらしい。「旅行で家を空けるのは困るでしょう」と同情したら、その間糠床を、おとなしくお留守番させる方法もあるとのこと。もう1人の女性の林直美さんは、細くて力仕事をさせるのはどうかと心配していたら、自称「大食」で力持ちだそうだ。それなら安心、と改めて、我が財団の職員に惚れ直した。

 夕方、「船の科学館」で定例の記者懇談会。

 今日の主な報告内容の1つは、日本財団がインターネット上で始めた「日本財団図書館」に新コーナー「私はこう考える」が開業しました、ということ。日本のマスコミや専門家が「そのことについて過去に何と発言しているか」を集めたもの。思想的に右も左もすべて集める。解説は一切なし。あくまで資料としてのみ提供する。最初のテーマは「北朝鮮について」( http://nippon.zaidan.info/ )。

 記者会見の後、まだ工作船を見ていない方に見学してもらった。
 

新金剛能楽堂がオープン〜古くて新しい歴史の門出〜  
工作船の展示、船の科学館で開始!  
「船の科学館」のホームページへ  
ハンセン病制圧活動について  
私はこう考える  


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