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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 竹切物語  
コラム名: 私日記 第43回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2003/07  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2003年4月21日

 イスラエル大使館主催のペサハ(過ぎ越しの祭り)が広尾町の日本ユダヤ・コミュニティセンターで行われるのに招待される。過ぎ越しの出典は旧約聖書である。主はモーセとアロンの兄弟に言われた。

 「この月の10日におのおの、その父の家ごとに子羊を取らなければならない。(中略)子羊は傷のないもので、1歳の雄でなければならない。(中略)そしてこの月の14日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、その血を取り、子羊を食する家の入口の2つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。(中略)

 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災いが及んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう」(12・3〜13)

 これによってユダヤ人たちは主によって加えられた大きな災害を過ぎ越す(逃れる)ことができた、というわけだが、このペサハの祭りを私が好きなところは、イスラエルの人たちが、この祭りの日に徹底して「建国史」を子供にも学ばせることである。小さな子供も、その席に大人と同じようにおかれ、子供の質問に対して指名された大人がそれに答えるような形式になっている。日本の子供は、食べ物なしに1時間も2時間も通史を学ぶなどということに耐えられないし、大人もそれを強要しない。私たちはもっと子供たちに日本を学ばせる機会を作らねばならない。そんなことを言うと、その歴史が偏っていてはいけない、などと日本人は言うのだが、身びいきや偏りのない歴史などというものがあるだろうか。歴史観の多様性は社会としてあるべきだが、個人の歴史観は、必ず他人からみたら偏っているものである。

 同じテーブルにも、私が長い間、その方の著書から学んで来た日本人のユダヤ学者たちがおられて、大変嬉しかった。多くの方が、最近のイスラエルに平気で入っておられる。私も巡礼ではなく1人だったら、行くだろうと思う。自爆テロに遭う可能性は、遭わない可能性よりはるかに低いのだから。


4月22日

 いつもの通り日本財団へ出勤。執行理事会、電光掲示板ミーティング。

 私の本の表紙なども描いてくださっている石川ヨシ子さん来訪。ガラス絵による「十字架の道行」の制作についてご相談を受ける。

 ガラス絵はあまり手掛けたことがないようなことを言われるが、私と同じ世代で、新しい技法を取り入れようとなさる姿勢には敬服の他はない。私にはガラス絵というものがよくわかってはいないのだが、多分背後から光を受けて、人間が描いたものに、もっと多くの力を与えることになるのだろう。そう思えば、信仰の姿を実によく表しているものなのだ。

 5時過ぎ、新潮社が最近発刊することになった「新潮新書」シリーズの1冊として書き下ろした『アラブの格言』の最後のゲラ校正をするため、急いで帰宅。この本は、丸8日間で作ったことになる。手を抜いて8日間でやっつけたのではない。私は1975年にアラブの国々に初めて入った時に、アラブの格言についての英訳本を買い、しばしばそのおもしろさに本を閉じられなくなったものであった。それ以来、この手の本はいつも一番身近な書棚においてあった。

 今度、イラクの問題が起きてから、私がイラクの人々の心理的背景を理解するために非常に有効だったものが2つあった。1つは昨年10月、シリアの北部にいるクルド人と接触したことである。ほんの数日のことで、私はクルドを知りえたとも思えない、と情けなく感じていたのだが、実はそうではなかった。

 もう1つは、書棚から再び出して来た格言の本である。ブッシュがしたことをイラク人たちがどう感じるか、ここにはまるでアメリカによるイラク侵攻が行われることは、数百年前から予見されていたかのように、すべての答えが書いてあったので、私は楽しくなってよく笑い出すことがあった。

 サダム・フセインは化学兵器や大量破壊兵器を隠したりしている悪い奴だ、とアメリカは言うが、格言はすでに書いているのだ。

 「もしも罪を犯したら、隠せ」

 ブッシュ率いるアメリカは、圧倒的な戦勝に酔ったことだろう。しかし戦後はそんなに簡単にはいかない。格言は予言しているのだ。

 「神はおまえに1つのものを与えて、もう1つのものを取り上げる」

 イラクも民主主義や能力主義とは、全く別の世界にいる。サダム・フセインは、大家族の血縁で周囲を固めた。組むのは兄妹、結婚はいとこ同士。格言は言う。

 「正しくったって間違えてたってどっちでもいいのだ。お前の兄弟を支持しろ」

 一族は血縁、しかも例外を除いてすべてイスラム教スンニー派である。

 ブッシュという人は困った人物で、民主主義だの、解放だのをイラクの人たちに与える、と息まいたが、これはとんだお節介だということになる。充分な電気も国中にないところに個人主義的民主主義など育っているわけがない。しかし民主主義がなくても、人々は長い年月人として暮らして来たのだ。アメリカだけに幸福があり、イラクには不幸しかないと思うのはアメリカの思い上がりだ。

 新潮社の浜崎晶子さんとの作業は、夜10時半までかかった。アラブの心情を伝える本ができて、ひさしぶりに満足。(この原稿を清書しているのは5月22日だが、付記すべきおもしろい記事が『毎日新聞』に出た。東京下町で「イラン・イラク」レストランを開くモハメット・レザイさん(37)の言葉だ。「私自身、イラン・イラク戦争に参加したのでサダム・フセインは大嫌いだ。しかし、悪い部分でもイラクにとっては体の一部だった」。当然のことだ。このような平凡すぎる心情を理解しないアメリカ大統領がいるということは、世界全体の不幸なのかもしれない)


4月23日〜5月3日

 待ちに待った長い連休。少しはましなこともする。孫の太一に手伝ってもらって書庫の整理。お風呂桶2つか3つ分くらいの量を出してかなり減ったと思うのに、書庫の中の光景はあまり違わない。

 4月28日からは有田の陶器市に行った。一度も行ったことがないのだが、そろそろ見ておかないと、そのうちに行かないままに死ぬか、歩けなくなってしまうだろう、と思ったからである。武雄温泉の東洋館泊まり。この温泉の泉質はすばらしい。入っただけで肌がつるつるになる。

 29日は、上有田駅で下りて、有田まで1駅分、ぷらぷらお店を見ながらかなり歩いた。10キロは歩いたと思う。湯呑み、飯茶碗、長皿など、毎日使うものばかり。それでも買う時、ちゃんとどの食器棚のスペースにならまだ納まるか計算して買ってはいる。

 帰って再び三戸浜。花を切り、魚を買い、海を見る。新聞連載の最初の3日分を書く。まだだいぶ先のことなのだが、始まると地獄が出現するのが嫌なので、「余裕綽々」ぶりたいわけだ。しかし長編の書き出しの部分は、なかなかこの作品に合った文体の速度と温度と重さが決まらない。それを決定するまでに何度も書き直すのは今回も同じ。


5月4日〜5日

 東京に帰り、夜、久保田貢司・喜美子夫妻見える。先日、東京で快気祝いの河豚を食べたらあんまりまずかったので、私の手料理でも少しはましかと思って食べ直しをして頂くため。

 河豚はたまたま養殖冷凍のがあったので、河豚のフライにして差し上げた。東京の一般家庭だと、ご用意できるのはこんなところだ。


5月6日

 日本財団で執行理事会と、雑誌のインタービュー。午後の採用試験には珍しく10人以上が一度に最終選考に残った。女性はまた皆が揃いも揃ってリクルートスーツ。優秀な人たちばかりなのだが、ほんとうにどうしてこうも個性と勇気がないのだろう。

 身びいきではないが、うちの財団くらいおもしろい仕事ができる職場はそうないと思う。個人の企画は高く評価されるし、全く男女同じにどこへでも派遣される。


5月7日

 ここのところ、どういうめぐり合わせか、立て続けに眼鏡を壊す。1つはベッドの布団の下にあったのを知らずにその上へ寝て、2本とも蔓を折ってしまった。渋谷東急百貨店の中の眼鏡屋さんで、遠近両用の眼鏡を新しく注文し、ついでに折れた蔓も直してもらうことにする。子供の頃から視力がなかったので、眼鏡にどれだけお金をかけて来たか。しかし眼鏡ができるとなぜこんなにもほっとするものか。


5月9日〜11日

 朝の飛行機で、日本財団秘書課の星野妙子さんと、私の幼稚園からの友人の石倉瑩子さんと3人で小松へ。去年から計画されていた春の竹切りのボランティアの会が明日行われるのである。

 日本中の雑木林に孟宗竹が侵入して、他の木を枯らしていることを、人々はあまり知らない。しかし放置された竹の侵入を意識しだすと、一般の森林に入り込んだ竹は遠くから見ると芝生の中の雑草のように気になるものである。

 この時期を選んだのは、その場で筍をおもうさま食べる、という不純な目的も含まれている。つまり参加者に、筍食べ放題を味わって頂こう、というわけだが、私は正直なところ筍掘りというものは決して楽ではないだろう、と思ってちょっとびびっている。

 今回は第1グループが日本財団のボランティア支援部と広報部員。第2グループは私が「夜、赤提灯に灯がつかないと元気が出ない惰弱な人たち」とワルクチを言っている親しいマスコミ関係者。第3が防衛大学校のOBたち、つまり元高級将校集団である。それに『北国新聞』の記事を見たと言って参加された一般の市民たち。この不思議な取りあわせは、しかし別に驚くことでもない。要は、故郷の山をきれいに、竹を追い出して闇葉樹林を復活し、土に保水力をつけるようにしよう、というだけの素朴な目的から出ている。

 10日の朝は7時半に金沢駅前で集合。私は7時頃駅の小さなマーケットに昼間のお弁当を買いに行ったら、関西から参加の産経新聞社の記者グループに会った。マーケットは列を作るほどの混み方。駅弁屋さんの開業時間が遅いので、こちらにお客が集中するのである。

 ここまで来る旅費も、宿泊代も、今日の昼間のお弁当と飲み物も、すべて参加者各自が用意する方式。鋸、軍手、長靴など、私は持参している。

 車を連ねて犀川湖の方へ。現場近くの知人の山の家の庭で、総勢約70人ほどが顔を合わせた。そこから5分ほど歩いたところが今日の作業場である。

 それまで鬱蒼として日も当たらなかった竹藪を、去年11月私たち日本財団の数人が入って切った。その部分だけ小さな面積だが、気持ちいい陽を受けて明るく残っている。作業はつまり素人向きに傾斜のきつくない場所を選んでもらっているので、7年前の骨折以来右足の足首だけ機能が戻っていない私のような軽度の身障者でも、どうにか歩けるし、雑仕事に少しは働けるのである。

 防衛大学校のOBは、北陸防大同窓会会長の久保正佳氏はじめ13人。それに、この先輩たちに声をかけられ見込まれた小松基地からの現役の3人が加わっている。せっかくのお休みをお気の毒に、と心の中で思うが、とくにお詫びはしないことにした。

 実は私は東京でこのOBたちの「カゲグチ」もきいていたのである。「将や将補なんて方たちは、どうせ昔から重いものは持たず、長くは歩かず、もう肉体労働なんて長年もしたことなくていらっしゃるんでしょうから。陸上はまだ大丈夫かもしれませんが、海上はどうでしょう。ましてや航空は……」という具合である。

 しかし作業を始めてみて驚いた。こういう場所では、働く人ほど森に溶け込んで見えなくなる。ぶざまな行動をしないのである。この防大OBたちは、電動鋸を使う専門の山の管理者たちに混じって、ひけを取らないほどの働きができるのである。現役の自衛官たちはすぐに山の男のような手つきで枝を払う。レンジャーでは1人が150キロ背負って歩くのだ、という話をしてくださった。日本財団の若者たちは、すっかり尊敬を深めた。

 人のワルグチを言っていた私の立場を一層具合悪くしたのは、「惰弱な」はずのマスコミ関係者たちでもあった。まだまだ午前中で陽は高く、紅灯のつく時間ではなかったにもかかわらず、記者たちはつまり驚くほど有能な労働力だったのである。もっともこの人たちは、私といっしょにアフリカの最貧困地帯に入って悠然としていた一騎当千の人でもあるから「普通ではない」のかもしれない。しかしその時私が思ったのは、「一芸」に達すると、人は「多芸」「他芸」でもかなりの地点まであっという間に上達するのだ、ということであった。

 ここで楽しかったのは、金沢で知的障害者のためのべーカリーをやっているイタリア人のカワルザン・ジォワンニ・クリストフォロ神父と再会できたことであった。この方とは、日本財団が助成金を出しているたくさんの組織の方々と親交を深める会の時に、私に遠くから黙礼されたのが初対面であった。

 「神父さまは、何で今日ここに」

 という挨拶はほんとうはいささか無礼だったのだが、神父は、自分は社会との繋がりを断って、もっぱら祈りのうちに暮らすカルメル会に所属しているのだが、障害者の施設の責任者になる人がいなかったので、教区から命じられて今その仕事をしているのだ、と言われた。神父のおられる社会福祉法人・聖ヨゼフ苑へ、日本財団は6780万円を支援したのである。私は、それではちょうどいいので竹切りの日の午前中に、お茶用の菓子パンを1万円分だけ届けてください、と注文を出しておいたのである。

 誠実な神父は、後から聞くと、子供たちを連れて前日から現場を下見に来てくれていた。確かに道を聞く人もいない山の中だから、遅れたら私のような食いしん坊は機嫌を悪くする、と推測してくださったのだろう。図々しい私は、短時間だが神父と共にパンを運んで来た子供たちにも作業を手伝ってもらうことにした。皆力持ちだし、よく仕事をやる。地元の新聞社が彼らの作業ぶりを、一面に載せてくれた。夕方は楽しかった。庭の木陰にシートを敷いて、村の婦人たちが作ってくださった筍ご飯だの、焼肉だので、皆大声挙げて喋り笑ったのである。「かねがねひどい人だとは聞いてたけど、これほどひどいとは思わなかった」などと私の知人たちは初対面の相手に面と向かって言っている。つまりそれほど強烈な個性に出会えたことを手放しで喜んでいるのである。来年もまた、この催しをやる、と地元は言われる。石川県で発したこの手弁当の方式が全国的に広まることを、私は願っているのである。

 11日、午前中に友人を病院に見舞ってから、帰京。


5月12日

 朝、文化放送で竹村健一さんのラジオ番組に出る。文化放送は懐かしい場所である。ここで30代の終わりから約10年間パーソナリティーをしていた。いつも番組収録前に夕飯を食べていたお寿司屋さんはなくなっていた。

 その後で歌舞伎座で團菊祭。『幡随長兵衛』を見ているうちに、どうして私の父も従兄も檜のお風呂が大好きなのか、生まれて初めて実感できた。多分この芝居あたりが元になっているのである。夫はその点、情緒がない。「ボク、木の風呂は匂いが嫌い。タイルがいい」と日本文化崩壊の兆しを見せる。


5月13日

 日本財団へ出勤。

 1時間刻みの仕事。執行理事会、電光掲示板ミーティング。国際、海洋船舶それぞれの部から報告。決算広告のための新しい図案作成について広報部から。

 インタービュー3つ。

 ヴィデオ撮影は競艇場で流すものだという。日本財団の事業は、国民の税金からではなく、モーターボートの収益金の3.3パーセントでまかなわれている。どのようなことに効果的に使っているかを、1分間のヴィデオに撮って、競艇場で上映するという。1分間で何か実のあることを言うのは、素人には実にむずかしい技術だ。

 鹿児島の第十管区海上保安部が引き上げて調べていた北朝鮮の工作船を、いよいよ5月31日に鹿児島から東京に輸送して一般公開することになった。日本財団は全面的な財政支援をすることになり、当日の手筈の打合せ。私は小説家だから、思想は言わずに、ただ現実だけを多くの人に見てもらうことが大切だ、といつも考えている。拉致問題、北朝鮮の核兵器開発の声明もある時に、こうした「事実」を見せることができるのは、いいことだった。


5月14日

 午前中リンパマッサージ。普通のマッサージと違ってリンパの集まるところを主にもみほぐして行く。夕方、自宅でインタービュー。その後、白金にあるNECの泉華荘でC&C財団評議員会に出席。


5月15日

 自宅で執筆。夕刻、新潮社と『アラブの格言』のサイン会を池袋の旭屋書店で行うことについての打合せ。


5月16日

 午前中に、光文社の販売部の方たちと和歌山入り。講演の後、サイン会。こちらは『魂の自由人』という本のため。

 夕方の列車で新大阪に出て、阪急梅田の紀伊國屋書店でもう一度サイン会。梅田駅の人込みをかき分けてホテルに入るのは、一働きという感じ。中華料理でねぎらって頂いて、私は駅にあるホテルで泊まる。


5月17日

 昼までホテルの部屋で書き物。午後2時前に、尼崎の英知大学に着いた。「兵庫・生と死を考える会」主催の講演をするためである。

 昨夜、太郎(息子)と暁子さん(嫁)から電話あり、明日の夕飯には大阪に帰れるから、夕食を食べましょうと言われたので、梅田駅に戻り、地下のイタリア料理店で会う。

 食事の後、8時の新幹線で帰京。送って来てくれた太郎が車内に備付けの毛布を渡してくれた時には「そんなもの使ったことないわ」と言おうとしたが、走り出すと毛布のおかげで足元を気にせずに1時間ほど、疲れ切っていたのでぐっすり眠れた。

5月18日

 午後、六本木のチャペルセンターで、ムウェテ・ムルアカさんの2人のお嬢さんたち、長女のクレァ・デュ・メシィ・敦美ちゃんと、次女のエマニュエラ・敦希ちゃんの洗礼式があり、私たち夫婦がその代父母になった。

 ムルアカさんは、このごろタレント並みにテレビの寵児になってしまったが、実は学者に向いているだろう。2人の子供たちは、洗礼式が始まる前は、私の手にぶら下がったりして遊んでいたが、ミサが始まると、ほんとうに静かに聞いていたし、最後には神父さまに「ありがとうございました」とお礼も言った。賢い子供たちなのである。

 コンゴ風の鶏肉、お魚の揚げ物、牛肉のピーナッツバター煮、揚げバナナなどのお茶を頂いて、帰りに私だけ修理のできた眼鏡を受け取りに東急デパートに寄った。
 

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