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著者: 笹川 陽平  
記事タイトル: WHOのSARS対策?ヘイマン氏の英断に敬意  
コラム名: 新地球巷談 22  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2003/05/26  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS、サーズ)に感染した台湾人医師が日本を観光で訪れていた問題は、日本中に不安を広げました。それまで、連日テレビで報道される中国や台湾の防疫活動を「まるでSF映画を見るような気分」と極めて第三者的な感想を漏らす知人もいましたが、手洗いやうがいの励行はもとより、関係当局の万全な対策が必要だと改めて痛感しています。

 この2月、すでにSARSが広まり、発生源といわれる中国広東省広州市を所用で訪れました。私はこれまでも結核やマラリア、肝炎などの流行するアジアやアフリカ、中南米の僻地を幾度となく訪問しましたが、いまだ感染したことはありません。単に運が良かっただけなのかもしれません。昨今の状況下、64歳半ばとなった私に「慎重を期しては」との忠告も多々あります。

 そんなおり、4月末日の4日間、タイのバンコクを経由しミャンマーに行きました。バンコク空港はさまざまなマスク姿がひしめき、そこからミャンマーに向かう飛行機内では乗務員もマスクをかけるなど、一種異様な雰囲気でした。SARS禍の深刻さを十分に肌で感じました。

 5月上旬には中国とモンゴルへの出張を予定していました。しかし、中国での曽慶紅国家副主席ら新指導体制下の要路の人々との会談は、先方より「現状に鑑み、延期しては」との意向が伝えられました。モンゴルのバガバンディ大統領や政府首脳との会談は、当方よりお断りせざるを得なくなりました。他人から「匹夫の勇」と揶揄されようとも「百万の敵あるといえども我征かむ」の姿勢を保持してきた私にとって、辛い決断でした。

 世界保健機関(WHO)は、今回のSARSの感染防止を取り仕切る唯一の国際機関です。このところ連日、テレビに登場し茶の間にも馴染になった感のあるWHOのSARS対策本部長、デビッド・ヘイマン博士は本来、WHO感染症対策局長で、私とは世界ハンセン病制圧のために共に闘っている仲間です。米国ペンシルベニア生まれ、童顔ですが今年58歳。米疾病対策センター(CDCP)出身のアフリカ地域の熱帯病の権威で、1976年、エボラ出血熱が猖獗(流行)を極めた折には対策の陣頭指揮を執りました。

 ヘイマン博士は海千山千の国際公務員の中で政治的な動きを嫌う誠実な人柄で、WHO本部での行政職よりもアフリカやインドの第一線で働きたいという希望を持っています。そして、大事な決断は早朝、レマン湖畔をジョギングしながら下すそうです。WHOは今回、48年の発足以来初めて特定地域への渡航自粛勧告をうちだし、“大国”中国の秘密主義に風穴を開けました。1人、ジョギングしながら孤独な決断をした博士の姿が浮かんでくるようです。

 ヘイマン博士だけではなく、WHOはトップ自ら問題が発生した現地に赴くことをモットーにしています。前事務局長の中嶋宏博士はその典型で、常に東奔西走でした。この7月に事務局長に就任する李鍾郁博士も早速、中国に飛びSARSの現地調査に従事しています。今回、SARSを特定地域に押さえ込んだWHOの功績は大きく、とくに、政治的にも難しい判断を、医師の良心のもと決然と中国に通告したヘイマン博士の勇気をたたえたいと思います。

 このSARS禍で罹患し、亡くなった人の職種で一番多いのはWHOをはじめとする医療従事者で、多くの尊い命が失われました。日夜分かたず、コロナウイルスと闘っておられる方々の献身にはほんとうに頭が下がります。医師の倫理を定義した『ヒポクラテスの誓い』がいまに生きていることを力強く思いました。

 2月、ミャンマーでのハンセン病制圧国際会議に出席した際、ヘイマン博士から同国でのハンセン病制圧達成を祝い、スイス・ジュネーブの博士宅で杯をあげようと誘われました。その後の彼の多忙さもあって祝杯は当面お預けですが、一日も早く治療法が解明され、SARSが沈静化して杯をあげる機会が訪れることを願っています。
 



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