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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 3つの答・ローマとは何ぞや  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2003/05  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   この読み物は、ちょっぴり辛口のローマ紀行だと思っていただきたい。紀行とは旅行中の出来事、見聞、感想などを記したものをさすのだが、これまで6回この由緒ある都市に出かけたことがある。回を重ねるごとに、私流のローマ観らしきものが、できあがってきた。それをお話するのである。私にとって、ローマとは何ぞや。少なくとも3つの答がある。


≪ ローマ名物・雲助タクシー ≫

 第1の答は、汚くて、危なくて、ヤバイ。でも絶対に退屈しない都市がローマである。2001年5月の私の失敗談から始めよう。その当時のイタリア通貨は、欧州共通通貨EUROでなく、リラだった。レオナルド・ダヴィンチ空港からローマ市内のタクシーで、トラブルが起こった。料金を払う段になって100ドルを要求されたのだ。空港からせいぜい50ドルの距離と承知していたのに。ローマのタクシーは、後部座席の前にメーターがついている。前部の座席から、身体をよじってのぞき込んだら、メーターの数字が消えているではないか。

 この雲助運ちゃん、荷物を親切げに後部座席に運び込み、私を彼の横の席に座らせたのだ。メーターの数字がないので争うにも証拠がない。「計られた」と観念した。空港で両替したばかりの100ドル分のリラを袋ごと全部くれてやったら、「NO、NO」と返してきた。私の計算では、US100ドルは20万リラのはずだが、袋には15万リラと小銭しか入っていなかった。BANCO(銀行)の看板を掲げた空港両替窓口だからと信用したのがうかつだった。5万リラが1枚、5000リラにすり替えられていたのだ。

 両替とタクシーで二重の詐欺に遭ったのだ。ああ天は我に味方せず、ローマは私にとって地の利が悪い。「チェント・ドラー」とわめく雲助野郎の鼻先に100ドル札をつきつけ、「チェントじゃない。Hundred dollarと言ってみろ」と英語でどなった。「ウンドレ・ドラー。ウンドレ……」。「No、once again」。3べん回ってワンと言わせた気分になりやっと腹の虫がおさまった。

 この悪徳運転手、罪の意識のカケラもない。電話番号を書いたメモをくれて、片言の英語でこう言った。「電話をくれ。帰りもこのホテル前まで迎えにきてやる」。堂々と握手を求めて来た。「冗談じゃねえよ。テメー」。日本語でそう言ってやった。

 ここまで徹底すると悪徳商法などという生やさしい話ではない。「インチキ業」という特殊な産業が、この都市にまかり通っている??と思うのが正しい。その日の夕刻、通訳として頼んでおいたサルバトーレ君が、ホテルにやってきた。日本語と日本史を5年間学習したのち、大阪で3年暮した。日本のTV番組、「ここが変だよ。日本人」にも何度か出演したことがある“変な外人”だ。

 「ローマってところは、本当に俺を退屈させないよ。」といやみたらたら、顛末を語ったら、「イタリアにはドロボーについての諺(ことわざ)がある」。そう言って何やら、イタリア語で書いてくれた。「初めにドロボーありきではない。あなたが、人間をドロボーにする機会を作っているのだ」との意味だという。

 耳が痛い。「こういう国の国民をやっていくには、家族と友人が大切だね。国家や社会は信用できないから」。そういう感想をもらしたら、「そうイタリア人の僕だって、家族と友人がいなかったら、この国で暮らしていけないかも知れない。とくにローマはヤバイよ」。抜群に上手な日本語で彼はそう言ったのである。


≪ 名画『終着駅』、そのロマンと現実 ≫

 「ローマとは、たしかに危なくて、ヤバイ都市である」。以来、私のローマ観にしっかりとそれが刻み込まれたのである。それから2年後2003年4月、所用でローマを訪問した。こういうのを学習効果というのだろうが、タクシーは敬遠した。空港から、市内のテルミニ駅まで「レオナルド・エクスプレス」という名の列車を使った。料金は、8.8ユーロ。ぼられる心配はないので、ヤバくはない。だが不便で、汚ない道中だった。

 空港から連絡通路を10分ほど歩かされ空港駅へ。荷物をキャリーに乗せたまま行けるのが救いだが、かなり遠い。前と後にジーゼル機関車をつけた4両編成の車両が、30分おきに出ている。ホームは低く、列車のステップは高いので、重い大荷物をもった外国人客には不便だ。ノン・ストップ・エキスプレスとは名ばかりで、遅い。オール、徐行だ。空港からすぐ在来線の鉄道線路に入るので、レールが古くてスピードが出せないらしい。

 沿線の光景は、観光客的基準でいうと最低だった。列車は丘と丘の間の切り通しを縫って走るが、沿線の土手は不法占拠の堀立小屋の並ぶ、ゴミだらけのスラム街だ。古代ローマのものとおぼしきレンガ塀の横に不法投棄のゴミが山積みになっている。ローマ時代の水道橋をくぐって、しばらく行くとテルミニ駅に着く。つまり1950年代ヴィットリオ・デ・シーカ監督のかの有名な映画、「終着駅」である。この映画のテーマは、別れであった。当時新築されたばかりのテルミニ駅を行き交う人々が克明に描かれ、主人公の2人の別れを自分がこの駅で間近に見ているかのような錯覚にとらわれた覚えがある。だが、あれから50年、現実はあのロマンとはかけ離れていた。

 8本もあるプラットホーム下の線路上には、白い花のようなものが、点々と散っていた。ちぎれたトイレット・ぺーパーであった。ローマのど真ん中を走る国鉄が、いまだにたれ流しとは知らなかった。臭いのある映画なんか、発明されないからよいものの、名作「終着駅」もこれでは台無しだ。しかもこの駅は大荷物を持った乗客を長距離歩かせるよう設計されている。駅前の大タクシー乗り場にたどりつくまで、東京の丸の内南口から有楽町駅までの距離を歩かされた。ここから、スペイン広場前のホテルまで、メーターで6.5ユーロ。ヤバくも危なくもなかったが、道中は、汚なくて不便だった。


≪ 黄色い傘のピノキオ爺さん ≫

 ローマとは、何ぞや。私の第2の答。それは、ローマとは、地面を掘ると古代が出てくる都市である??ということだ。

 1人たびのつれづれに、「ローマの名所、朝の散歩コース」と銘打った観光バスに乗ったことがある。2年前のことだ。日本語のバスはテープレコーダーの解説のみと聞いたので、生身の人間の案内する英語のバスを選んだ。背の低いいかにもイタリア人ぽい爺さんがガイドで、童話「ピノキオ」のジュゼッペ爺さんの挿絵そっくりの風貌が、忘れられない。少しくたびれた黒の背広の上下、雲一つない青天だったのに大振りの黄色の雨傘をかついでいた。「この傘が目印だ。見失うんじゃないよ。ローマは危険だからな、スリにあうなよ」。爺さんに引率されて、バスを降りたり乗ったりを繰り返したのを思い出す。

 このとき、どんな観光をしたかは省略する。何故かというとこの爺さんの案内が、投げやりで、旅先でまずい駅弁を食わされたような気分にさせられたからだ。だが、このツアーがきっかけで、ローマという町について、2つの解明すべき疑問をもった。今回の旅(2003年4月)で、その答を求めたのである。

 「私のテーマは2つあるんです。あのローマの松。日本と違ってパラソル型です。あれはそもそも風土の違いによるものか。それとも植木の剪定(せんてい)に関する文化の違いによるものかです。もうひとつは古代ローマの建築物は、いまの地面よりも低いところにある。何故かです」

 案内役のローマ在住16年の宮下紀枝子さんに、そうもちかけた。

 「そんな難しいことを注文する人は、はじめてです」

 苦笑する宮下さんに、つれていかれたのは、アルゼンチン広場という通常の観光コースにはないスポットだった。

 観光名所パンテオンから300メートルほど南に行った角地にあった。

 「百聞は一見にしかずでしょ」宮下さんが言う。1ブロックほどの敷地が、均等に堀り返され、長方形のフタのない地下室が出現している。それがそっくり古代ローマの遺跡だった。写真を参照していただきたい。神殿の柱がある。石だたみや階段もある。そしてトンネル式の城門もあるではないか。上部が現代のローマ、7メートル下の地下が古代ローマなのである。ニ千数百年前、ここには4つの神殿があったとのことだ。ローマ帝国の滅亡後、この上になんらかの事情で土がかぶせられた。それは何故か?

 「ポンペイの遺跡のように大噴火があって、古代ローマが埋没したという話は聞いてないけど……」


≪ 地中海の松は何故パラソル型か? ≫

 いぶかる私に、ローマ史に詳しい宮下さんが、「いえ、これはローマ市内を流れるテベレ川が氾濫し帝政ローマは、ひんぱんに洪水に見舞われた。中世、そしてルネッサンス以降、周囲の山から土を運び、ローマの城壁の内側は、おしなべて5〜7メートルほど土盛りされたのです。」と。この広場は、住宅地だったが、1926年、古代ローマの“展示場”として発掘されたとのことだ。ここに限らず、ローマの旧市内は、どこを掘っても古代ローマが出てくる。

 「楽しいでしょうね。わが家に地下室を掘れば、古代ローマが出てくるなんて…」

 「とんでもない。政府の文化財保存委員会が飛んできて、遺跡保護のためのいろんな措置を要求される。莫大なお金がかかります、だからローマ市民は地下室を作らない」

 ローマではさわらぬ古代にたたりなしなのだ。昼食にテベレ川に近い丘の下にあるシーフード・レストラン「コンソリニ」に寄ったら、足元の厚いガラス張りの真下に、古代ローマの階段と路地があった。ワイン・セラーを作るために掘ったら、遺跡が出現、政府の命令で顧客に地下に展開する古代を楽しんでもらう照明付きのショー・ケースを作らされたのだという。

 アッピラ街道に案内してもらい、ローマの松並木をしげしげ観察した。

 「和辻哲郎の『風土』という本に、地中海の松はパラソル型で、日本の松とは異なる。そういう異なった風土が、日本とは異なる文化を生むといった意味のことが書かれている。でも私は、松の形状が異なる文化を生んだのではなく、異なる文化が、異なる松の形状を作ったのだとの仮説をもってるんです。それを調べてる……」

 「イタリアの松だって、下の枝を切らなければ、日本の松のような枝ぶりになります、山に入ればそういう松もある。枝を切らないと幹が曲がったり、風が吹いて倒れるから、切るんだとイタリア人は言ってます」と宮下さん。なるほどローマの松並木は、よくよく見ると下の枝が、すべて刈り取られた跡があった。パラソル型の松を作るために、若木のうちから、わざわざ剪定したのだ。「和辻説は牽強付会(けんきょうふかい=こじつけ)なりとの結論に達しました。文化論における原因と結果の取り違えですよね」

 「ハア。そんなに大事な話だったんですか。とにかくお役に立てて光栄です」あきれ顔の宮下さんが言った。


≪ 「イタリアの戦後復興はいまだし」??? ≫

 私にとってのローマとは何ぞや。第3の答は「ローマとは、世界史の教科書の中で中世が、行方不明の都市である」だ。

 学校で習った世界史の教科書を思い出していただきたい。紀元5世紀、西ローマ帝国の傭兵隊長、ゲルマン人のオドアケルの反乱で、古代ローマの皇帝が退位させられ、西ローマ帝国は滅亡する。以来、1000年もの間、「ローマ」という単語は、なかったはずだ。14、5世紀のルネッサンス(古典芸術、思想の再生運動)の章で、突如として「ローマ」という単語が復活したのではなかったか。

 この種の歴史教科書を真面目に学習した人ほど、歴史や宗教、そして芸術の博物館であるローマ見物をすると頭が混乱する。

 第2次大戦後間もなく、ローマ観光をした日本の新興成金が、古代ローマの遺跡、コロシアム(円形ドームの競技場)を見て、「イタリアの戦災復興は、いまだし」と述懐したという、まるで冗談みたいな実話がある。こういう豪傑は論外としても、数ある観光名所巡りも、古代ローマ帝国のものなのか、中世ローマ以降の文化遺産なのか区別がつかない。かくいう私も、もし“あの学者”に会わなかったら、大同小異のローマ見物だったかもしれない。

 話は、さかのぼる。その学者とは数年前、ポーランド中世の代表的なキリスト教文化の都市、クラクフ(現ローマ法王、ヨハネパウロ2世の出身教区)にあるヤゲロニア大学の歴史学の教授であった。この大学を訪問した私に、彼は「専攻は中世ローマ史だ」と自己紹介した。

 「エッ。ローマには語るべき中世があったのか」

 思わず私はそう口走ってしまったのだ。

 ローマの中世とは何ぞや。

 「長い話を短くすればね。西ローマ帝国は滅んだけど、ローマ司教(ローマ法皇のこと)がこの地に残り、途中、紆余曲折はあったものの、西ヨーロッパキリスト教圏の精神的首都としての地位を築いていった。それが中世ローマだ。いま“紆余曲折”の研究が私の専門だが、それはともかくこれだけは覚えておいてほしい。中世ローマのキリスト教文化なかりせば、ルネッサンスも、今日のローマは存在しない」

 “あの学者”のこの言葉が、その後のイタリア紀行にどれほど役に立ったことか。

 2001年と3年、2回にわたって、ローマ観光名所のひとつ、トレビの泉と目と鼻の先のグレゴリア大学を訪問した。1551年、カトリック教団イエズス会によって設立された名門大学で、バチカンの理論的支柱で、グレゴリオ15世から、ヨハネパウロ1世まで16人の法皇と20人の聖人が、卒業生名簿に名をつらねている。日本財団はここに現代哲学の寄付講座をもっている。その事業評価にでかけたのだ。


≪ ローマで神と哲学を語る ≫

 「日本の世界史の教科書にはローマの中世が存在しない」と学長のフラメンコ・イモダ神父に語ったら、「いや、ヨーロッパの教科書も同様です。それを日本の方に指摘されるとは、恐縮です。ローマ中世は、キリスト教にとって、とても大切な時代ですから…」と。

 初対面のあいさつ代りのこの会話の効用で、お互いにうちとけた気持で話を続けることが出来た。神は死んだと主張するニーチェをどう思うか??。神が人間を創ったのではなく、人間が神を創ったのではないか。神の存在証明はできるのか??。神のない仏教をどう惟うか??。この種の異教徒の仕かけた哲学論争にも、哲学教授の神父を部屋に呼んでくれて、丁寧に対応してくれた。これもローマ中世発見の御利益ではあるまいか。

 ローマ観光を3倍面白くする法。その第一歩は名所旧跡を、古代ローマ、中世教皇領のローマ、近世ルネッサンス以降の絢爛たるバチカンの時代のローマのどれに属するのか識別することである。それなくしては「とにかくローマは素敵」で終ってしまう。どう素敵だったのか??それを味わうのが、海外旅行の醍醐味というものではないのか。最後に、クイズをひとつ進呈しよう。以下の文章をまず読んでいただきたい。

 「古代ローマ帝国の時代からルネッサンス、バロック、現代と人類のあゆみをそのまま今に伝えるイタリアの首都。キリスト教の総本山で独立国のバチカン市国もローマ市内にあります。永遠の都ローマの休日を心ゆくまでお楽しみ下さい」。(イタリア政府観光局発行のイタリア旅の手引きから引用)。

 ここになにげなく使われている「永遠の都」とは、実はローマ史論の専門用語なのだ。ローマは、何故に永遠の都なのか? それが問いだ。答は、西ローマ帝国滅亡後も、皇帝ネロに殺されたペトロから渡された「天国への鍵」を預った法皇たちが、ともかくもローマにとどまり、西ヨーロッパの宗教的都であり続けようと試みた。そして今日のバチカン市国を残した。永遠の都とはそういう意味である。ローマ観光は、キリスト教の知識があると、もっと面白くなる。
 



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