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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 初めて訪ねたイラン(上) 海抜2700メートルの天国談義  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/05/27  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ テヘランのロープウェーで ≫

 2002年の9月。アラブ首長国連邦のドバイから、ペルシャ湾をまたぎ北上し、イランの首都テヘランに飛んだ。所要時間はわずか2時間半。アラビアとイランはいかに近いのかを実感した。私の旅のテーマは、アメリカ大統領のジョージ・ブッシュ氏が言ったように、イランは先制攻撃を正当化するならずもの国家であろうかどうか??ではなかった。

 イランは北朝鮮、イラク並みの悪の枢軸でないとすでに当時、答えを出していたからだ。この国に対しても私の興味は軍事ではなく文明と文化である。1979年、近代においては世界初の「神政イスラム国家」(坊さん=イスラム法学者が政治をやる国家)を宣言したイスラム革命は今日のイランに何をもたらしたのか。あの時の旅行メモをもとに、それを考えていたのである。

 初めて訪れたイラン。首都テヘランは4000メートル級のいくつかの峰が連なるアルポス山脈を北に背負う盆地の町であった。その昔、交易の拠点として栄えたオアシスとのことで、なだらかな坂道と、水路が山から町に向かって貫通していた。見知らぬ町に行ったとき、私は、まず山とか丘、あるいは展望台や高層ビルに登って、まず鳥瞰図的風景を頭に入れるよう試みることがある。そうすることによってあらかじめ設定した旅のテーマと、巨視的にみた対象とを摺り合わせ、旅先での実感を形成するのだ。

 テヘラン市北端の山に、全長3200メートル、世界最長のロープウェイがあると聞いた。現地で雇った日本語を話すガイド、レザ君と終点の海抜2700メートルにまで登ってみた。往復2時間、2人乗りのゴンドラの密室で、イスラム革命下のイランの現状について、じっくりと対談したのだ。

??このロープウェイ、ずい分古いね。ドアもよく締まらない。大丈夫?

 「絶対心配ない。25年前、シャー(亡命したパーレビ元国王)の時代の最盛期に建設されたものだから…。イランが独立したのは1943年のパーレビ国王の時代だ。それまでは外国に支配されていた。イランの近代で、いちばん豊かだったのは、パーレビの時代だ。テヘランの大きな建造物は、たいていシャーが作ったものなんだ」(ところでパーレビとはいったい何者だったのか、ここでイラン近代史におけるシャーの役割について触れておく必要がありそうだ)。

 レザ君の指摘通り、19世紀後半から、20世紀前半にかけてのイランは、この国のもつ石油資源ゆえにロシア、英国、そして第2次大戦をきっかけに参加した米国という列強の圧力にほんろうされていた。パーレビが国王として出現したのは1943年、イランが米・英・ソのテヘラン協定によって独立したときだ。米英両国の支援で絶対的権力を握った。開明家の彼は、トルコの大政治家アタチュルクのように政教分離による国家の近代化を唱え、ぼう大な石油収入を原資に、産業の振興と社会資本の充実につとめた。パーレビの近代化戦略は、白色革命と呼ばれた。

 ところが白色革命は、1979年のホメイニ師によるイスラム革命によって息の根を止められ、パーレビ国王は亡命、国々を転々としたのち1980年エジプトで客死した。それは何故だったか。


≪ 「白色革命」と「イスラム革命」 ≫

 イラン現代史をひもといてみる。

 宗教界は、もともとパーレビの白色革命に強い反対を示していた。とりわけ女性解放や、イスラム法学者のもつ特権の制限に強く反発していた。近代化とは西洋化路線であり、イスラムの精神をふみにじるものだとする宗教界の反対はあったものの、物質的繁栄が支えとなり、大衆の支持をつなぎとめた時代が続いたかに見えた。

 ところが1970年代の石油高騰によるオイル・マネーの収入増に沸いたものの、それがかえって仇となり大インフレを招来した。超インフレの中で、貧富の差が極端に拡大し、全国規模の反パーレビ・反白色革命の運動が起こった。1978年戒厳令下のテヘランの抗議デモで、治安当局の弾圧により数百人のデモ隊が死亡した。物情騒然とする中で、1979年1月、身の危険を感じたパーレビは国外に脱出、翌月、ホメイニが、“民衆から待望されたエマームの再来”として亡命先のバリから凱旋帰国、イランの最高指導者に就任した。

??そうか。君はシャーを評価しているのか。

 「テヘランで坊さん(イスラム革命後のイランの政治指導者層)が造ってくれたものはほとんどない。作ったのは戦争だけだ、イスラム革命の翌年、サダム・フセインが攻めてきて8年も戦争があった。経済的に苦しかった。シャーの頃のイランは強かった」

??シャーの時代の方がよかったのか?

 「今よりはいいと思う。朝起きると、いったい私の国イランとはどういう国かと考えてしまう。女性は黒いヘジャブで身体を隠している。ディスコもない。大学生の就職率は20%以下だ。生活は苦しい。若い人の間にはシャーの息子が人気がある」

??シャーの息子はイランにいるのか?

 「カリフォルニアにいる。アメリカのイラン向け宣伝放送によく出てくる。帰ってきてほしいという人もいる。若い人はみんなアメリカが好きなんだ。イスラム革命以降、人口が増えてね。イラン人の半分以上は、30代以下の人たちだ。お坊さんが偉そうなこと言っても、ついていかないよ」

??イスラムの教えでは、運命は前世で決まるというよね。この世でアラーの神に善いことをすれば、来世は天国に行けるのだろう。

 「来世でなく、この世を地獄でなく天国にしてほしい。坊さん悪い。この世で金もうけしてる。オレ達貧乏…」

??証拠あるの?

 「あるわけないでしょ。でもみんなそう言ってる。10億ドル、スイスとドバイの銀行に預けているというウワサもある」

??イスラム教の天国はカネがいるのか。

 「どう考えても、いらないはずだと思う」


≪ 若い人、毎日がツマンない ≫

 ロープウェイの真下にあるのは茶色のハゲ山で緑はない。そこに曲がりくねった細い登山道が延々と続いていた。黒装束の女性達の一団が黙々と山頂をめざしている。若い男たちのグループもいる。

??イランの若い人、ハイキング好きみたいね。

 「そう。お金かからないからね。朝、日の出前に登れば、夕方にはテヘランに戻れる。山の陰に入れば男女が一緒に遊べるから。ホメイニ革命のあと、イランではバスの中でも男女別々だったから…。いまの大統領のハタミさんのこと知ってる?」

??1997年の選挙で、70%の票をとって当選した革命派の人だろう。

 「彼が文化大臣のとき、女性のポップシンガーのリサイタルを認可した。もちろん観客は女性だけ。歌の内容がイスラム精神に反すると文句をつけられハタミさんはクビになった。女性と若者の票で大統領になったけど、最高指導者の坊さんたちが邪魔をするので、改革は進んでないよ」

 終点に到着する。テヘラン市街はまだ真夏だというのに山頂では吐く息が白い。突然ロープウェイの従業員のお兄さんに声をかけられた。レザ君に通訳してもらったら「日本に仕事ないか。ビザの身元引受人になってよ」と言っている。月給が2万円、食えないので夜はタクシーの運転手をやっているという。

 彼に聞いた。

??イラン・イラク戦争の停戦協定を結んだのはホメイニ師だろ。その翌年の1989年彼は亡くなった。その時、テヘランの彼の墓1000万人が葬列に並び号泣したと新聞で読んだんだけど・・・。

 「でも今は民衆の熱は冷めている。50代の人はこんなはずじゃなかったと今日を嘆く。3〜40代の人はイスラム革命という政治に裏切られたと怒っている。エッ。20代の人はどうかって?最初から坊さんの政治に退屈してる。毎日がツマンないと言っている」

 レザ君、頭の回転の速い男だ。何を聞いても直ちに答えが戻ってくる。ここに再録した彼との対話は、ほとんど当時の私のメモそのままだ。彼は35歳。イラン・イラク戦争の末期、少年兵として従軍、このあと大学に行ったが定職がなく、日本に渡り、群馬県大泉町で6年間の出稼ぎの経験をもつ。日本語は自由自在だ。

 だがひとつだけ断っておかねばなるまい。彼の名前の「レザ」君は実は仮名でもある。対話の内容がちょっときわどいので、万一彼に後難が降りかかってはと、思うからだ。
 



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