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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 20年ぶりのマニラ旅行?モンテンルパの夜は更けて  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/05/13  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 高山右近客死の地 ≫

 マニラには、日本とフィリピンの関係を考えるのに、欠かすことのできない場所が少なくとも3つある。その中で、もっとも手軽に行けるのが、市の中心部にあるフィリピン国鉄のパコ駅だ。駅前に、ちょんまげを結って、刀をさし、杖の代わりに十字架を手にしたサムライの銅像があった。「ユスト・ウコン・タカヤマ・1552〜1615」と銘が打ってある。キリスト教徒ゆえに豊臣秀吉や徳川家康に迫害された切支丹大名、高山右近の像であった。「ユスト」とは、右近のクリスチャンネームだ。

 この像は、右近の城があった大阪の高槻市の財政的支援でマニラ市美化婦人委員会が建てたとのことだ。高山右近は、実はマニラで死んだ。像の脇にある碑文を読むまで、うかつにも私はそれを知らなかった。

 1614年11月、キリスト教禁止令により、右近は家族、家来など百数十人のキリスト教徒とともに長崎港経由で、マニラに追放された。小さな老朽船は暴風に翻弄され、10日の行程を40日かけてマニラに着いたという。当時、切支丹大名右近の存在は、マニラのスペイン植民者の間では広く知られており、一行は礼砲で迎えられ、スペイン総督らの大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れと南国の気候が重なり、熱病におかされ、宿舎のイエズス会のゲストハウスで死亡、マニラ生活はわずか1カ月半で終ってしまった。と、碑文にある。

 案内役の穴田久美子さんによれば、その頃のマニラには、朱印船でやってきた日本人が千人以上住んでいたとのことだ。20世紀はじめには、日本人労働者が移民として、この国に渡った。「あの戦争さえなければ、フィリピン経済の中枢は、華僑ではなく日本人移民の子孫が、握っていたかも知れない。道路建設や麻栽培の労働者として入植した日本人は、金を貯めてのちに事業家として成功した人が多かった。繊維機械を導入し、マニラ麻を世界の市場に拡げたのも、漁業や真珠養殖を採算のとれる事業に育てたのも日本人だった。チャイナタウンの周辺には、必ず日本人商店街があり、中国人を商売でおびやかした。日本の敗戦で日本人はすべて送還され、残った中国系が、土地を買い求め、それを元手に商圏を拡大していった」。穴田さんの解説する日比関係史のひとこまである。

 フィリピンは、いまさら言うまでもないことだが、第2次大戦中、アジアで最も激しい日米間の戦闘が繰り広げられた国である。あの戦争が負の遺産として、日本人旅行者に残したサイトがマニラには、2つある。だが、2カ所を1日で訪れることは不可能だ。

 「コレヒドールにしますか、それともモンテンルパに……」。そう言う穴田さんにモンテンルパヘの案内を頼むことにした。ところで、コレヒドールとは、フィリピン戦線において日米間で最も激しい戦闘が農開されたマニラ湾に浮かぶ小島だ。まず日本が5000トンの爆弾を落として、この要塞を占領、4年後、米軍が6000トンの爆弾を投下し、この島を奪還、日本軍守備隊はほとんど全滅したところだ。

 「いまではこの島に比米友好公園があり、観光客を誘致してます。1日に2便高速艇が出ている」とのことだが、侵略者日本、解放者アメリカの宣伝臭が強いのではないかと思いモンテンルパを選んだのだ。


≪ 渡辺はま子さんと死刑囚 ≫

 モンテンルパは、マニラ首都圏の最南端に位置する市だ。ここにニュー・ピリビッド刑務所がある。日本にとって戦争の負の遺産には違いないが元コレヒドール要塞のような観光地ではなく、いまも無期や死刑判決を受けた男の囚人が5000人収容されているこの国最大の刑務所で、山下奉文・比島派遣軍総司令官、本間雅晴・第十四軍司令官ら多数の将兵が、残虐行為のかどで戦犯として起訴されここに収監された。マニラの米軍軍事法廷で、有罪判決を受け処刑された。

 この刑務所には、戦犯として収監されていた日本人兵士と歌手渡辺はま子との心の交流の物語がある。テーマは冤罪(えんざい)だった。残虐行為で死刑判決をうけた「C級戦犯」といわれる下士官・兵の人々には、証拠もなくしかも無実の罪を着せられた人が多かったらしい。毎週金曜日に行われる死刑執行の日を恐怖と無念さで迎える日常だったという。

 そんなある日、歌手渡辺はま子のもとに死刑囚の1人から、自作の楽譜とともに1通の手紙が届いた。「ぜひ、あなたにこれを歌ってほしい」と記された曲の名は、「ああ、モンテンルパの夜は更けて」であった。1952年のことである。

 「モンテンルパの夜は更けて、募る思いにやるせない。遠いふるさとしのびつつ 涙に曇る月影に 優しい母の姿を見る」 渡辺はま子の持ち歌のひとつになったこの曲は大ヒット、紅白歌合戦にも登場した。

 刑務所の裏の敷地に、日本人戦犯の処刑場があったと同行の穴田さんにいわれ、訪れてみた。いまでは「モンテンルパ日本人記念墓地公園」になっている。ここで処刑された17人のC級戦犯の人たちの名前の刻まれた板と地蔵が立っていた。その脇には笹川良一氏の建立した「友愛の碑」があった。

 矢島さんと名乗る老人が、近所に住み込み一人墓守りをやっていた。この人は処刑された人々のゆかりの者ではなく、ボランティアとのことだ。

 「渡辺はま子さんが、昭和27年(1952年)に、モンテンルパの刑務所を訪れ、死刑囚を含む大勢の日本人捕虜の前で、あの歌を歌いました。その心が通じたのか、翌年、フィリピン大統領令で減刑され、全員巣鴨の刑務所に移管され命拾いをした。ここの墓地に葬むられた人は、その前年までに処刑されてしまった死刑囚でした」。矢島さんの話である。「絞首台は、あのあたりにあったが、今はない」。彼の指さす方角には、白い花をつけたプーメリヤの木とマンゴーの木越しに、ヤブが見えるだけであった。

 刑務所の正面にまわってみる。スペインの城を模して作られ、真白に塗られた建物があった。それが刑務所の中央棟で、2基の塔の間に、正面入口がある。昼下がりの刑務所前は、十数台のタクシーが止まっており、ひんぱんに訪問者の出入りがある。門の脇には訪問者目当てに、屋台店まで出ている。ちょっとした盛り場のような光景なのだ。


≪ もうひとつの冤罪ストーリー ≫

 「フィリピンでは、家族や友人が囚人に面会するのは比較的自由なんです。1日に訪れる外来者の数は多く、門前は賑わっているんです」。

 「われわれもなんとかして中に入れませんかね。受刑者に知り合いはいないけど…」どうせダメでモトモトと思いつつ、穴田さんに頼んでみたら、意外にも返事は「多分、大丈夫。まかしておきなさい」。ねばり強く交渉してくれた甲斐あって、私服姿の門番の親分らしき男が出てきて、3人で千ペソ(2200円)で、中に入れてくれることになった。

 われわれ(私、穴田さん、日本財団国際部・大川原智子さん)は、ライフルを持った刑務官に付き添われ、カギのついたドアを2つほどあけて、管理棟の屋上に案内された。

 屋上から見下ろした風景は異様であった。コンクリートの高い塀の中には、木造2階建の細長い囚人棟が10棟ほど並んでいた。棟と棟との間には、食料品を売るサリサリストアの屋台や、カラオケの小屋まである。面会の家族とおぼしき人々と、カーキ色の半袖シャツとジーンズ姿の囚人が一緒に歩いているのが見える。

 遠目では、のんびりした南国の刑務所に見える。だが、穴田さんの話では、すべての囚人棟は、ギャングのボスが仕切るコワイ世界とのことだ。金のある囚人は部屋代を召し上げられ、貧乏人は働かされ、売上金は、ギャングが召し上げるのだという。

 「スズキは、あそこに入っている」。ライフルを持った案内役の刑務官が、眼下の一棟を指さした。

 その日本人死刑囚は、戦争とは無縁の鈴木英司という人だそうである。「この人も、一部のC級戦犯の人々と同じように、冤罪の可能性が強い」と穴田さんは言う。

 鈴木死刑囚は、1994年、フィリピンの空港で1.9キログラムのマリファナ所持の容疑で逮捕された。そして一審で死刑判決を受けた。ところが、その後、「鈴木に借金のある日本人男性とフィリピン人現地妻が仕組んだデッチ上げである」との有力な証言があり、フィリピンの日本人社会では、鈴木ケースは冤罪であるとの見方が定説になっているとのことだ。彼女がフィリピンの捜査能力の低さや司法システムの不備を慨嘆しつつ解説してくれた、もうひとつの「モンテンルパの夜は更けて」のストーリーである。
 



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