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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 開戦前夜  
コラム名: 私日記 第41回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2003/05  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2003年2月19日

 皇后陛下が、国立劇場で文楽を一幕だけ見においでになるという。天皇陛下のご入院(前立腺癌の手術)の結果は、予想よりはるかに順調でいらっしゃったので、私たちも本当にお喜び申しあげたのだが、皇后陛下もほっと一息ご安心なさって、こういうご企画になったのだろう。

 両陛下のお住まいになる御所と国立劇場は行啓の予定表を見ると所要時間3分である。「普段着でおいでいただける」距離なのだから、もっと頻繁におでまし頂いて日本の伝統文化に親しんでいただきたいと思う。三浦朱門が日本芸術文化振興会の仕事をしているので、国立劇場のイベントではお迎えする立場なのだが、私もよんで頂いたのは、今日は文科大臣や文化庁長官もお見えにならないので、ごく気楽なお席の空気を作ろうという国立劇場側の配慮なのかもしれない。劇場の関係者のお1人は「いや、僕は女房に言われました。あなたが入院してもとても皇后陛下のように毎日見舞いにはいけませんよ、ってね」と笑っていらっしゃる。「私もさぼります」と私も同感する。さぼる女房がいかに多いか、ということだ。

 しかし急なことで、真ん中のいい席は全部売れていて、皇后さまのご一行が端の方の席にお着きになったので、突然の幸運に大喜びした外の観客もびっくりしたようである。しかし皇后陛下は一幕だけで帰るのだから、ごっそり穴が開くのが目立たない端の席がいいと、そこまでお心遣いがあったと後で聞いた。義太夫の方たちの演奏をこんなに近くに見られる機会はめったにありません、と喜んでいらっしゃった。その期待にお応えしたのか、お三味線の1人が糸を切ってしまわれた。それを慌てずあっと言う間に取り替えられたのだが、その早業を拝見できて、私など「大得」をした気分であった。名人芸というものは、銘酒に酔うような思いにさせてくれるものである。


2月20日〜22日

 三戸浜。雛菊を10株買って植えたのだが、どうも迫力がない。もう5株は買い足そうかと思う。和室の昔風の壁がぼろぼろ落ちるので、それを換える仕事を頼む職人さんが来てくれた。畳と襖も張り替え、建てた時のままの暗い電灯の器具も蛍光灯に変える。みんな老後に向かっての準備、と言いたいところだが、この家ももう36、7年になるので、修繕と掃除以外に気持ちよく過ごす方法はない。

 蕗の薹を取り、畑のブロッコリを茄でた。それぞれの緑の香りと色の濃さには、敬服。

 20日夕方には、奄美大島の老人ホームでご活躍中の坂谷豊光神父さまが何十年ぶりかで来てくださった。お疲れだろうと思うので、お食事の時以外は、離れに「放って」おくことにした。しかし21日の朝は、食堂で、2月19日に亡くなった母のためにミサを上げて頂いた。「失敗もよくしてますし、問題もないわけじゃありませんけど、皆さまのおかげ、日本のおかげで、楽しく生きてます。こんな時期に1人でイギリスを旅行している孫(母からみると曽孫)の太一を守ってやってください」と亡き母に言う。午後は、若い編集者たち3人も久しぶりに来てくださって、神父さまと飲んでくださった。「ソノさんがこんなに料理がうまいとは思わなかった」と神父。お世辞でもいいもんだなあ。


2月24日

 坂谷神父はよく「ボクは結婚式は嫌いよ。1ヵ月も経たないうちに、別れたいなんて言って来る人もいるんだから。その点、葬式は完結しているからすばらしい。葬式は完璧だ。神さまの近くに行けるんだし言うことないのよ」と言っておられるせいでもないが、私はこのごろ結婚式には、ほとんど出席しない。しかし今日だけは別。

 親友という方の作った名(迷)文の招待状によると、新郎新婦は、「2人合わせて、結婚5度目、127歳のご夫婦」なのである。しかし美男美女。花婿は、文藝春秋におられた村田耕二氏。花嫁は60歳にして白髪ではあるが、少女の如きうるわしいモデルとして有名な山川京子さんである。

 昔、『諸君!』に私は『或る神話の背景』というノンフィクションを連載した。村田氏は当時、私の係であった。沖縄のことはすべて正しく、本土の軍人は悪人に決まっている、という図式ができていた時代である。慶良間列島の中の渡嘉敷島にいた陸軍の海上挺進第3戦隊が、敵の艦砲に追い詰められた島民を足手まといと見て、隊長の赤松大尉が自決命令を出した、というのが有名な事件の概要だったのである。

 私は無礼な第三者であった。それほどまでに悪の権化、非人間的な人物が生きているなら、作家として会っておきたい、というのが、私をこの事件の調査に向かわせる最初の動機であった。

 私はただ1人で、できる限りの関係者に会って話を聞き続けた。加害者とされた海上挺進第3戦隊の人たちとは、ほんとうのことを話してもらい易いように、1人ずつ会った。もし赤松という隊長が実は密かに自決命令を出していたなら、飢餓と敗戦という最低の状況におかれていた部下の中には、必ず隊長に恨みを持つ人もいて、私にこっそり真実をばらしたいだろう、と思ったからである。しかし第3戦隊側からも、島の当事者たちからも、自決命令が軍から出た、という証言はでなかった。沖縄出身の副官からさえ、そうした事実は語られず、反論の客観的証拠がたくさん挙げられた。

 当時、こうした作品に対する圧迫が文藝春秋に、どれだけ寄越されたか、私は知らない。村田氏は、敢然と私を雑音から守ってくれていた。その背後には、後に『文藝春秋』本誌の編集長として、田中角栄内閣をロッキード事件でひっくり返すに至った田中健五氏が名編集長として存在していた時代である。

 戦後日本のマスコミは日和見主義を続け、言論の自由のために体を張って闘った人など実はほとんど見当たらない。戦後の新聞と雑誌は、ずっと言論の自主的統制によって執筆者の表現を縛ってきたのである。

 田中健五、村田耕二のコンビはほとんど唯一戦後のマスコミの自由を守った闘士たちであった。しかし考えてみると、私は村田氏とまじめな話などしたことがないような気がする。私が氏を尊敬した理由は外にも幾つかあるが、1つは、氏が背広に唐獅子ボタンの模様の裏地などをつけるのに凝っていたからである。私は村田氏に会う度に、失礼にもすぐ背広の裾を摘んで裏を覗く癖がついていた。

 もっとも私がその日、乾杯の音頭を取る時に言ったのはそんなことだけではない。私は夫に「文春の村田さんが結婚するのよ。若く見えるけど、60は過ぎたんですって」と言ったのだ。すると夫は間髪を入れず「村田耕二はバカだなあ」と笑った。「どうして?」と聞くと、「一難さってまた一難」と答えたので、その報告をしたのである。

 この新夫婦はどちらも愛する配偶者を失った相寄る魂だった。だから、いい、自然な結びつきになったのだ。


2月25日

 出勤日。

 久しぶりに朝の車が混んで、財団でお会いする約束のお客さまに失礼しそうになったので、後でこちらからお伺いすることでお詫びをしてもらった。

 10時、執行理事会。11時、評議員会。

 午後雑用を果してから、平塚市へ市政70周年の講演会。今はひらつか市が正式な表記なのだろうか。私は平仮名書きの市名は嫌いである。講演会には「ひらつか女性フェスティバル」と題がついている。私は自分では筋金入りの男女同権論者だと思っているので、「女性のための」と条件がついたら講演をご遠慮している。この会も女性を売り物にするなら伺いません、と言ったのだが「お客さまは男女いっしょです」と言われた。それで納得したのだが、当日配られたプログラムにはまだ「女性」がついている。何で女性をそう差別するのか。時代遅れもいいところだ。

 帰りに昔からの知り合いの稲村百合子さんの家でおいしいスパゲッティをごちそうになり、うちの息子と同い年の2人の娘たちに会った。「2人ともやっぱりおばさんになったなあ」とイヤガラセを言おうと思っていたのだが、本当に若々しいので言いそびれた。


2月26日

 日本財団へ出勤。

 面接試験に出た後、午後、財団の1階で「海守」の発足に当たり、海上保安庁との調印式に出席。

 「海守」は、日本の長い海岸線を清潔に保ち、気持ちよく自然を守り、海上では事故なく安全に海運やレジャーが可能なようにし、かつ海岸にいる全国民がそれぞれの眼力において見張っていて、不審船舶やそれに関連した疑惑を持たれる人、不法投棄、海難事故などを発見したら「118番」に通報してもらう組織を作ることである。これを日本財団で「海守」と命名したのである。

 今日出席してくださったのは、海と渚環境美化推進機構、海上災害防止センター、関東小型船安全協会、漁場油濁被害救済基金、漁船海難遺児育英会、クリーンアップ全国事務局、全国漁業協同組合連合会、中央漁業操業安全協会、燈光会、日本海事広報協会、日本海難防止協会、日本海洋少年団連盟、日本水難救済会、日本セーリング連盟、日本船主協会、日本船長協会、日本造船協力事業者団体連合会、日本造船工業会、日本中小型造船工業会、日本内航海運組合総連合会、日本舶用機関整備協会、日本舶用工業会、日本マリーナ・ビーチ協会、日本ライフセービング協会、日本離島センター、ブルーシー・アンド・グリーンランド財団など26団体。主管は海上保安協会と日本財団である。会費は無料、申し込むと登録番号とバッジを送る。そして118番通報の場合は、登録番号で確認を取る、というやり方である。

 海の男・北方謙三氏からは、「僕は何をしたらいいのか」という温かいご質問があったというので、「取り敢えず、ヨット基地をお持ちの相模湾内の不審船は、すべて見つけてください」とお頼みすることにした。流行作家に監視役をおしつけるわけだ。

 夕方から理事会。その足で三戸浜へ。


2月27日、28日

 27日には、お赤飯を炊いた。このごろ電気釜で簡単にお赤飯を炊けるので、いい気になって始終作っている。今日のお赤飯は、ご全快祝いの意味で差し上げたい方があるのでちょうどよかった。

 28日、東京へ帰って、全快祝いの方の河豚料理。天然の河豚は1人前、3万から5万円だという。7、8人で行ったら、数十万円。それほど高くない店を紹介してもらったら、これほどまずい河豚があろうかと思うほどのものが出た。おいしいフランス料理が食べられる値段でこのありさまだ。もうしわけなさに、これでは私の手料理で「食いなおし」をしていただかなければならない、と思う。河豚は東京ではやめにしよう。


3月2日

 父方の叔父の家の法事。少し早く着いたので、小岩の妙源寺というお寺の墓地を歩いた。私は墓地を見るのが大好きだ。心が休まるし、私の死がこの方たちと繋がっていることを感じて温かい思いになる。

 帰りにグランド・パレスホテルでおいしい会席料理を頂いた。


3月3日

 日通旅行と、この7月に行く聖地巡礼の最終打ち合わせ。


3月4日

 出勤日。国際部案件説明。1つどうしても理解できないのがあって、反対するのは迷惑だろうと思うが、やはりはっきり言うことにした。昼食(私はライスカレー)を食べながらの執行理事会。午後ボランティア支援部の案件説明。


3月5日

 出勤。お客さま数組。

 午後、造幣局へ。「記念貨幣懇談会」に出席。


3月6日

 夜、浜離宮朝日ホールでヴァイオリンのバイバ・スクライデさんのコンサートに行く。彼女は一番最近のベルギーのエリザベート音楽コンクールの優勝者なので、日本音楽財団からストラディヴァリウスを貸与されている。

 今回は妹さんのラウマをピアノの伴奏者として同行して来た。誰が見ても一目で姉妹とわかる2人が舞台に出て来ると、時には演奏のことでケンカしたこともあるだろう、などと空想した。推測通り一家は音楽一家で、お姉さんとその夫も加わると室内楽ができるのだという。美人で「天は二物を与えた」典型のような音楽家だ。

 帰りに、バイバにありがとうを言いに楽屋に寄って、新しい作曲家のもの……武満徹や、これはもう新しいとはいえないかもしれないが、ガーシュウィンの曲など……を選ぶ気持ちがよくわかる、と言うと嬉しそうな顔をした。クラシックを通してだけでは、私たちはもう自己を語ろうとすると、器に盛りきれない部分を感じることがある。


3月7日

 午後、歌舞伎座、「傾城反魂香」の中村富十郎氏の絵師又平が、すばらしい演技を見せる。どもりであまり科白がないのを、存在でカバーする。


3月8日〜10日

 原稿書き。淋巴マッサージ。友人と食事。戸棚の整理。10日は亡き姉・幽里香の命日。

 大きなショックは9日付けの新聞で、小林奎二郎・華子夫妻の拳銃自殺を読んだことである。小林華子さんは、重光葵元外務大臣の長女。聖心時代は私の1年下級生で背が高い品位のある少女だった。

 70年の年月を生きると、現世で何が本当に価値あることか自然眼が見えて来る。華子さんは端然と夫に撃たれて亡くなったらしい。私は人の心は憶測しないことにしているが、何も抗った跡がないということは、もう何もかも重荷になったということだろう。

 ただ一言「ご苦労さま」と言ってあげたい。疲れてしまった人は休ませてあげるのが一番いいのだ。

3月11日

 出勤日。執行理事会。

 徳間書店の柳さん、新しく出た私の本『必ず柔らかな明日は来る』の見本刷りを持って来てくださった。これは短い引用を集めた本なのだが、ぱらぱらとめくって見て『狂王ヘロデ』からの引用が多いのにちょっと驚いた。

 昼過ぎ、放送会館へ。放送番組向上協議会主催で「テレビ50年を問う」パネル・ディスカッションに出席。日本のテレビの最も大きな特徴は、多くの番組が静かに語る、のではなく、大仰で喧しく子供っぽいところである。静かに語って聞かせられる力量がないということか。ニュースの解説者やアナウンサーまでが「ズーム・イン!」などと指を突き出すジェスチャーをして見せる幼稚な国など見たことがない。天気予報が、雨が降るから傘を持って行けだの、寒くなるから温かいものを着ろ、などとお節介をやく国もまず見たことがない。雨に濡れようが、風邪を引こうが、各人の、それこそ選択の自由なのだ。


3月12日〜17日

 新潮社の出版の方たちと、シンガポールヘ。『アラブの格言』を急遽作るための合宿である。イラク情勢が厳しくなるにつれて、この手の本は早く作るにこしたことはない、と私が言い出したためでもある。

 私はオイル・ショックの年に初めてアラブに触れてから、何度となくアラブ諸国にでかけた。その度に時々格言の本も買って斜め読みをしていた。そのほんの一部をこの1月発売の『新潮45』の連載に書いた。

 その時私は、今、サダム・フセインやアラブ人たちの心理を知るためにこんなおもしろいことが書いてある本はない、と改めて思ったのだが、その原稿を見て、新潮社の出版部が出版の企画を立てたようである。

 飛行機の中では取り上げる格言を拾い、わからない単語は辞書を引いておいた。

 新潮社側はどうして私がシンガポールに行くとはかが行くと思っているのかわからなかったらしい。しかしここでは私は、日本からの編集者を7時、まだ文字通り暗いうちに起す。7時半朝食、8時にはもう仕事にかかっている、というテンポを強要する。すると第1日目の午後1時過ぎまでに、150数項目以上の格言が、口述筆記でできてしまった。予定の3倍近い早さである。遅めの昼食は外で由緒正しい中国料理を食べて、私はもうそれで「働くのは止め」なのだが、新潮社の優秀な編集者は夜までパソコンで整理した原稿を送っている。

 そういう厳しい生活を4日間繰り返して、総量の4分の3位の原稿はできてしまった。電話もかからず、雑音がないから可能なのである。前書き6枚は帰りの飛行機の中で書いた。後は3月中に2日間、今度は三戸浜で合宿して、それで完成である。

 3月17日、帰国。


3月18日〜20日

 昨日、イギリスから帰って来る孫の太一と、もしかすると成田空港で会うかもしれない、と思っていた。しかし空港にはいなかった。疲れてまっすぐ下宿に帰ったのかと思ってい
たが、夜になっても連絡がない。神戸の親たちも私もずいぶん心配したが、17日ロンドン発の飛行機が、日本に着くのは18日だということを知らなかったのかもしれない、ということになった。

 昨日、帰ったばかりなのに、今日は財団に出勤してそのまま京都の「水フォーラム」に出ることになっている。

 午後の新幹線で夕刻京都宝ケ池の会議場の傍のホテルに入った。途中で太一が無事帰国したことを知った。やはり1日まちがえていたのだ。

 ホテルでは和食のお店で一番安いてんぷら定食が6000円。ついているエビは私の小指ほどの小さなもの。客は私たちを入れてたった7人。当然である。だれもこんなに高くて量の少ない食事などするわけがない。京都が本当の観光を目指すなら、ホテルのサービスにもっと眼を光らせるべきだろう。

 過去に行われた「水フォーフム」の準備委員会で私が危倶したのは、そこでは川の問題だけが論じられることになっており、海上交通の諸問題はほとんど論議の場がないことだった。また存在する水をどう分けるか、については論議の場があるが、初めから極度に足りない水をどう分けるか、という深刻な倫理の問題を論じる場は極めて数が少ないということだった。水の足りない、たとえばアフリカのような国からは、そもそもこの会議に出席できる人員も、経済的に限られているのである。

 私は「水と貧困」というセッションに出て短いスピーチをすることになっていたが、やはりこの分科会には日本人の出席者も少なかった。つまり問題意識がほとんどないのである。直面するまで人は恐さがわからない。

 20日は日本財団が技術保存のためにお金を出した木造の十石舟が、暫定的にお客を乗せて疏水巡りをしているのに試乗させてもらい、イラクでの戦争が始まるというので、急遽半日予定を繰り上げて帰宅した。開戦前日であった。
 

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